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18の肖像  作者: 深井陽介
終章 懺悔はもういらない
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―おまけにひとつ―


 数日後、喜田村先輩のDNA検査が行われたと、平池刑事から連絡があった。事件そのものは、被疑者死亡という形で送検されたが、書類に記された『喜田村桃矢は太刀川会長の直系の孫である』という記述に裏を取る必要があったため、検察側が駄目押しで行なったそうだ。結果、記述内容に齟齬(そご)はない事が証明された。

 先輩の生みの親である太刀川会長の一人娘にも、この事実は知らされたが、「私に息子なんていない」の一言だけが返され、日本に戻ってくる事はなかったという。

 さらにその翌日、検察がついに太刀川製薬の起訴へと踏み切った。警察に提出されたSDカードの内容に信憑性があると判断された結果だ。使用期限切れの医薬品を横流ししていた容疑で、関連する業者が次々と逮捕され、一斉に裁判の舞台に立たされることとなった。太刀川製薬は上場廃止を言い渡された。

 これによって、太刀川製薬の不正に端を発する一連の事件は、終結へ向けて一気に動き出す事となった。


 しかし、普段からニュースをあまり見ない彼女にとって、一つの企業が(つい)えていく現実は興味の対象にならなかったようだ。

 彼女からすれば、大切な人を予想外の形で失ったことへの失意が甚大で、自分に直接関わらない存在に興味を持つ心の余裕がないのだろう。今日も彼女は、学校の野球グラウンドを見渡せる四つのベンチの一つに腰かけて、何を思う事もなく前方を眺めていた。わたしは友人として、彼女のそばにいる事だけを考えていた。

 ここ最近、彼女は学校を早退する事が多くなった。体育などの体力を要する授業には、特に不参加の傾向が強かった。話を聞く限りだと、ずっと眠れない夜を過ごしているという。夢の中で何度も、あの二人が命を落とす瞬間がフラッシュバックするのだそうだ。それは立派なPTSDという病気だから、精神科医やカウンセラーの診断を受けた方がいいとわたしは言ったが、本人は頑なにそれを拒んでいた。

 何かが彼女を追い詰めている。わたしにはそう思えた。空元気も元気のうちだと豪語していた、あの頃の彼女の面影はなかった。それが我慢ならない。わたしはどうしても、彼女の笑顔が見たかった。見られないとこっちも気分が沈んでしまうのだ。

 いま彼女の目には、何も映っていないのだろう。否、何も見たくないのかもしれない。それでもわたしは、彼女へのアプローチを試みずにはいられなかった。

「ねえ、ひょっとして、責任感じているの?」

「…………かも」

「自暴自棄になるなんて、らしくないね」

 違う、そうじゃない。わたしが彼女にかけるべき言葉は別にあるだろう。どうしてわたしは素直に言葉で言い表せないのだ。まったく、彼女が羨ましい。

「……わたしには、何もできなかった」

「……うん」

「何も分からなくなった。わたしには、家族より、友達より、恋人より大事なものは、自分しかいない。その自分が嫌いになったら、どうすればいいの? もうわたし……何も大切にできる気がしないよ……」

 彼女はゆらゆらとかぶりを振りながら、俯いた。

 そうか。彼女を追い詰めていたのは、自分に対する嫌悪と劣等感だ。普段の彼女なら、劣等感に苛まれる事が多少あっても、すぐに復活できた。だが今回は、受けたダメージがあまりに大きすぎた。彼女は、回復する方法が見つけられないでいるのだ。

 家族より、友達より、恋人より、大事なもの。わたしにとって、それは何か。

「ねえ……何があるのかな。わたしを愛してくれる存在よりも、大事にできるものが、自分以外にあるのかな」

 わたしなんかが、答えていいのだろうか。言ってはアレだが、わたしほどその答えを出すのにふさわしくない人はいないと思う。

 だけど……早く見たいな。こいつの笑顔が。少し気を利かせたい。

「家族より、友達より、恋人より大事なもの、か……わたしは、一つしか思いつかない」

「え?」彼女がこちらを見た。

「……そういう人達を大切にしたいと願う、自分の気持ち」

 蒼白くなっていた彼女の顔が、途端に艶めきを増してきた。口をポカンと開けて、両目が徐々に見開かれていく。そして、自らに語りかけるように呟いた。

「そっか、そっかそっか……なんだ、こんなに簡単な事だったんだ」

 何を思ったのか、彼女は急にベンチから立ち上がった。

「そうだよね。それを一番大事にしなきゃ始まらないもんね! ありがと! おかげでなんか元気が湧いてきた」

「あ、そうなの……よかったね」

 本当によかったね、単純で。わたしは頬を引きつらせた。でも、彼女の満足そうな笑顔を見ているうちに、緊張がほぐれてきた。

「よおし、元気が出たついでに、新たな恋に向けてリスタートだ!」

「懲りるという事を知らんのか」さすがに苦言を呈した。

「次は上手くやるって。あ、悪いけど、わたしこれから用事あるんだ。先に帰るね」

「ああ、分かった……」

 その後、彼女は雄叫びを上げながら駆けだして行った。とりあえず、いつもの彼女に戻れてよかった。やっぱりあの姿を見ると、妙に安心感が湧くのだ。

 わたしはベンチに腰かけたまま、野球部員たちの奮闘ぶりを眺め始めた。

 求心的存在だった喜田村桃矢を失った後、部員たちはしばらく落胆していたが、監督に発破(はっぱ)をかけられて奮起し、彼に地区大会優勝という功績を届けようと思い始めたそうだ。事情を知る人間の一人であるわたしは、苦笑を禁じ得ない。それは喜田村桃矢にとって、屈辱以外の何物でもないだろう。皮肉なことに、彼がいなくなってからも部員の団結力は維持されていて、新しいキャプテンも難なく決まったらしい。監督が言っていたような最悪の事態は、結局やって来なかった。

 小野寺芳花の住んでいたアパートの部屋は引き払われた。両親や親族は、こんな事になるなら一人暮らしを認めなければよかったと、こぼしていたという。お門違(かどちが)いもいいところだった。彼女が一人暮らしを望んだ理由は、まさにその態度にあるのではないか。彼女が命を落とした原因はそこにないし、何でも独力で調べていたわけでもない。彼女の所持品はすべて両親が引き取ったが、世間体を気にしてのことか、葬儀は身内だけのささやかなものに終始したという。小野寺芳花は変わりたいと願った。でもその努力とは裏腹に、周りは少しも変わってはいなかった。

 そう、これが現実だ。たったひとりの人間の死など、一時的に深い悲しみをもたらしても、あっという間にその悲しみは克服され、状況を暗転させるような影響力を失う。悲しみを引きずるのは、その人と深い関わりを持った一握りの人間だけに過ぎない。

 とかくに人の世は住みにくい、とはよく言ったものだが、それは人が空気の中で生きているからだろう。八割の窒素と二割の酸素とその他諸々の成分で構成される方の空気ではなく、人が繋がりの中で作る雰囲気の方だ。名も無き人の死は、いや、名高い人の死もあるいは同じだが、その空気に変化をもたらすにはあまりにちっぽけなのだ。死に限った事じゃない。どれほど情報が素早く拡散する社会になっても、ひとりの人間の存在がもたらす影響は、空気の流れの中でたちどころに消えてしまう。

 見てごらん。ひとりの人間の死は、この景色を全く変えていない。

 空気の中で生きていこうとすれば、その空気に流されなければならない。抗う事は寿命を縮める事に等しい。だが、かつてのわたしはそれが分からなかった。そして、抗う事しかできなかった。だが、高校受験を機にその考えは大きく変わった。

 学校という一つの集団の中で激烈な競争を繰り返し、精神をすり減らしながら未来を掴むことに、わたしは寸前で疑問を抱いた。結局、入学試験が行われる時期になっても答えを出す事はできず、わたしはその年の受験を諦めた。つまり、パスしたのだ。

 労せずして手に入れた一年の猶予期間が、わたしに考える時間を与えてくれた。そして結論は出た。必要最小限の努力こそが、自分の身を守る唯一のすべだ。わたしはいくつもの高校入試の過去問を解いていった。そのための勉強はしなかった。自分の本当の実力を知るためだけに問題を解き続けた。そして、自分の実力で確実に入れる場所として台橋高校を選択し、何ひとつ自分を痛めつけることなく合格した。

 以来わたしは、何事もほどほどで済ます事を第一の信条に掲げている。その信条に照らし合わせれば、友達付き合いもほどほどで済ませておけばいいと思っていた。

 ……彼女に会うまでは。

 彼女はわたしの事をなぜかいたく気に入り、何かとわたしに絡んできた。もっとも、彼女も何となくわたしのやり方を察していたようで、積極的に関わろうとはしなかった。だが、いつ頃からだろうか。わたしの方から、彼女と一緒にいたいと申し出るようになったのだ。それは初めての経験だった。

 わたしと彼女は、お互いをかけがえのない友人と認識するようになった。

 だからこそわたしは、本気で彼女に、広瀬柚希に、申し訳ないと思わずにはいられなかった。なぜなら、わたしは……。

「おーい、待ったかい」

 よく知った声が聞こえて、わたしはベンチから立ち上がる。声の方向に顔を向けると、そこには確かに、三年生の坂時勇也がいた。

 本当に、軽薄を絵にかいたような顔だ。今のわたし、向原里子にはそう思えた。

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