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18の肖像  作者: 深井陽介
第三章 真実まで残りわずかの距離
34/40

―9―


 まだ眠りの中にいた時、わたしの携帯に着信が入った。断続的に耳元で鳴り響く電子音に安眠を阻害されて、わたしは嫌々ながらも起きて電話に出た。枕元の目覚まし時計を見たら、驚く事にまだ五時だった。ちなみにこれは二十四時間表記のデジタル時計で、午前と午後を間違えている可能性は万に一つもない。

 つまり、未明に起こされたわけだ。誰だ。

「柚希、起きてなかったよね」

「当たり前だよ……どうしたの、里子」

「寝起きで頭もろくに働かない状況で悪いとは思うが、今すぐに訊きたい事がある」

 その言葉で徐々に覚醒してきた。里子は何やら真剣だ。

「…………何?」

「喜田村先輩の部屋から見つかったという新幹線の写真だが、暗号のヒントが英語で走り書きされていたんだよな?」

「そうだけど」

「それだけか?」里子の声は緊張感を帯びていた。「他には何もなかったのか?」

「何かって……?」

「例えば……」

 里子にその事を指摘されて、急速に記憶が蘇った。見逃してなどいなかった。少しだけ奇妙に感じていたから、辛うじて覚えていた。

「うん、そういえばあったよ。え、なんで? なんで里子は分かったの?」

「……そうか、そういう事だったのか。なんて……」

「どうしたの? 何か分かったの?」

「柚希。落ち着いてわたしの話を聞いてくれ」

 何だろう……そう思いながら、わたしは里子の話に耳を傾けた。

 次第に、背中に感じる温度が下がっていく。身震いを止められなかった。

「馬鹿言わないでよ!」わたしは上体を起こして叫んだ。「そんなこと、あるわけないじゃない! わたしは信じないわよ!」

「柚希」里子は諭すような口調で言った。「信じても疑っても、それは真実じゃない。推理で導いた結論も、真実にはなり得ない。柚希が信じられないなら、真実が何であるか知りたいなら、直接本人に会って確かめる以外に方法はない」

 何も言い返せなかった。到底受け入れる事などできなかった。だが確かに、信じようが信じまいが、それで何が変えられるわけでもない。

「この事は、柚希から小野寺さんに伝えた方がいい。あの人が知っているかどうかは分からないが、このまま何も知らせないのは危険だ」

 そこまで聞いて、わたしは電話をホールドして部屋を飛び出した。寝巻きのままだけど外に出る。持っている荷物は携帯電話のみ。もはや一刻の猶予もなかった。わたしは全速力で小野寺さんの住むアパートへと向かって行った。

 東の空がわずかに白んでいる。聞こえるのはわたしの足音だけ。息も絶え絶えに、わたしは走り続けた。体力の限界が近づくも、足を止める事はできなかった。閑静な住宅地をひたすらに横切り走っていく。

 やがてアパートに到着した時には、階段を上る事にさえ苦労するほどに、体力を消耗していた。それでも何とか小野寺さんの住む部屋の前まで辿り着き、チャイムを鳴らしてドアを叩いた。

「小野寺さん、起きて下さい! 大事な話があるんです! 小野寺さん!」

 反応はなかった。よほどぐっすりと眠っているのだろうか。それならばまだいい。

 だが、ふとドアの下を見ると、折りたたまれた小さな紙片が挟まっていた。わたしはそれを抜き取って開いた。あの、暗号解読の説明のために渡された紙に、書かれていた文字と同じ……つまり、小野寺さんの字だ。

『大好きな柚希へ 決着は私がつけます』

 わたしは顔を上げた。ここに小野寺さんはいない。そう直感してすぐに、わたしは階段を駆け下りて再び走り出した。

 小野寺さんも、一足先に真相に辿り着いたのだ。そして、その事実をわたしには伝えることなく、一人で真相と対峙するつもりでいるのだ。わたしの気持ちを理解したうえで、あえてこのような手段に打って出たに違いない。

 だが、わたしにはそれ以上に気がかりな事があった。里子には、この数日間にわたしが見て知った事を余すことなく話している。だから里子は気づけた。だが、そのために必要だった手掛かりを、小野寺さんが知らない可能性があるのだ。つまり彼女は、真相に到達したと思い込んでいるだけかもしれない。

 それがどれほど危険な事か、今のわたしは理解していた。

 必死に走っている間、わたしはずっと祈り続けていた。あの人が無事でいてほしい。今のわたしが願うのは、本当にそれだけだった。

 あの人の言った「大好き」という言葉を、わたしは忘れていない。わたしの気持ちなど関係なかった。だが、わたしを好きだと言ってくれた人を、わたし自身が大切に思わなくてどうするのだ!

 わたしはようやく目的地へ辿り着いた。それは、戻廟だった。わたしは門をくぐって奥の祠へと近づいて行った。その向こうに、何かを見たからだ。

 刹那。わたしは残酷な神様を恨んだ。

 小野寺さんが、胸から血を流して倒れていた。


 険しい表情で、小野寺さんは必死に傷口を手で押さえている。口元から嗚咽のようなかすれた声が漏れていた。薄く開けられた目が、こちらに向いた。

 突然に宇宙空間へ放り出されたような感覚があった。

「小野寺さん!」

 わたしは彼女に駆け寄った。下手に動かすのは危険、そう思っても抱き起こさずにはいられなかった。

「しっかりしてください! 何があったんですか?」

 小野寺さんは顔面蒼白のまま、震える声で答えた。それさえも辛そうだ。

「さ、刺され、て……」

「刺されたんですか? いま救急車呼びますから、もう少しだけ耐えて下さい!」

 慌てて携帯電話を取りだし、わたしは救急ダイヤルに電話をかける。

「もしもし! 救急車をお願いします! 場所は、台橋市二丁目の工業地区の中にある、戻廟という所です。女性が一人、胸を刺されています。早く来てください!」

 すると、小野寺さんがわたしの寝巻きのひざ部分を引っ張った。わたしがその手を見ると、人差し指で何かを指し示した。その先、祠のすぐ近くに一枚の紙が落ちていた。あれを拾ってほしいと言いたいのか。

 わたしはその紙を拾った。書かれている内容を見た時、彼女を襲った人物の正体に確信を持つことが出来た。そして、背筋が凍りついた。

 どうやら、里子の推理は正しかったようだ。わたしは愕然とするしかなかった。

「柚希……」

 小野寺さんの声でわたしは振り返る。すでに彼女の服は大部分が赤黒く染まっていた。

「喋らないで下さい。動いたらそれだけで血が……」

「柚希。あなたは……彼を、追って……」

 全身に衝撃が走る。自分を置いて犯人を追いかけろと言うのか。わたしは力強くかぶりを振った。

「あなたを置いてなんていけません! 救急車が来るまでそばにいます!」

 だけど、いても何もできないのは明白だった。わたしには応急処置の知識などない。辛うじて布で傷口を押さえる事だけは思いつくが、この場には何もない。わたしは寝巻き一枚だし、小野寺さんも堅い布の服を着ているせいで、道具もなしに破くのは至難の業としか思えない。今、この場でわたしにできる事は、何もなかった。

 それが分かった時、わたしは落涙を抑えられなくなった。自分の無力さに打ちひしがれて、気がつけば泣くしかない。そんな自分が恨めしくて仕方なかった。

「泣かないで……あなたは、泣いちゃ、駄目……」

 小野寺さんが手を伸ばして、わたしの代わりに涙を拭った。そんな事をするだけの力も残されていないはずなのに、彼女は……。

「ごめんなさい……」わたしはしゃくりあげながら言った。「わたし……こんな時に、何の力にもなれなくて……自分が情けないです……」

「やめて……」小野寺さんの手は、わたしの耳の後ろに。「自分を、責めないで……後の事は、あなたに全て託すから……」

「小野寺さん……」

 苦しいはずなのに、彼女の表情は驚くほど穏やかだった。

「柚希……こんな事で、負けないで……あなただけが、私の、心の、支え、だから……」

「駄目です。諦めちゃ、駄目です……」

 雑多な感情が込み上げてきて、うまく舌が回らない。小野寺さんも、次第に唇の動きが弱くなっていく。

 嫌だ、見たくない。こんなもの、見たくないのに……。

「私は……あなたが……」

 その先の言葉はなかった。彼女は、ゆっくりと瞼を閉じた。

 嘘だ。わたしは呼吸が荒れていた。

 嘘だ。嘘だ。嘘だ!

「小野寺さん。起きて下さい。駄目です! 目を開けて下さい! 小野寺さん!」

 何度体を揺すっても、彼女の目が開く事は二度となかった。それでも覚醒を願わずにはいられなかった。願うことが、こんなにも苦しいなんて。

 わたしの呼びかけは、いつしか叫びに変わっていた。

「小野寺さぁ―――――んっ!」

 目の前で起きた事が、全く受け入れられなかった。一つの命が、失われた。その事実に直面する事が、これほど胸を締め付けるとは思わなかった。

 しばらく、彼女の亡骸(なきがら)を前に呆然として座り込み、しゃくりあげて落涙にこの身を任せていた。やがて近くから車のブレーキ音が聞こえてきた。駆け足の音が近づいてくる。

「きみ、大丈夫かい? 一体何が……あっ!」

 男の声だった。刑事だろうか。里子が呼んだのか。

 分からない。もうわたしには、何も考えられなかった。今わたしの頭の中は、一つの感情で支配されていた。

 声の主が小野寺さんに近寄り、手首を取って脈を調べた。予想通りの反応を示した。

「なんてこった……きみ、何があったんだ? ……え?」

 わたしはこの男性の問いには答えず、おもむろに立ち上がり、自分のものとは思えないほど暗い声で言った。

「……あとは、お任せします」

 踵を返してダッシュで駆けだした。男性の呼び止める声は、すぐに聞こえなくなった。

 逃げ出したわけじゃない。彼女は最後に、わたしに全てを託すと言った。何もかもが平凡で、取り立てて得意な事があるわけでもない、そんなわたしに全てを残したのだ。

 何がなんでも、答えなければならない。骨になってもしがみついてやる。

 わたしが向かうべき場所は一つだ。犯人の居場所。それももう分かっている。少し経てば警察も追いついてくる。それまでは、わたしが一人で追い詰めるしかない。

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