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ファミレスに到着すると、わたしは一番安い料理を注文した。お小遣いの少ないわたしにとって、外食は本当に月に一度のお楽しみなのだ。小野寺さんだって一人で生計を立てているのだから、それほど財布に余裕があるとは思えない。それでも他人におごれるくらいの金銭的余裕をもたらすものが、彼女にはあるのだろうか。
運ばれてきた料理を口に入れながら、わたしは彼女に尋ねた。お金の事ではなく。
「小野寺さん……喜田村先輩は、どうしてあの証拠品を、自分の育った施設に隠したのでしょう?」
小野寺さんの箸を動かす手が止まった。わたしは続ける。
「もしかしたら、わたし達より先に、太刀川製薬が先に見つけていたかもしれない。その場合、あの施設にいる子供達や職員が、どんな目に遭うか分からないのに……」
施設にいたあの少女の姿が思い浮かぶ。育ててくれる親を待つ身でありながら、とても澄んだ瞳をしていた。あの子が、大人たちの悪事の犠牲になるなど、想像もしたくない。
「そうだな……桃矢も、あそこに証拠品を隠すのは迷っただろうな。でも、一度は自分の手元から証拠を放さないと、自分が捕まった時に証拠が潰される恐れがある。あとは私たちにその証拠を託したかったのかもしれない……だから、私にあんな暗号を送って来たのだろうな。暗号なら、太刀川製薬に見られたとしても、あの新幹線の写真を見なければすぐには解けないからな」
様々な事態を想定して、必死に考えた結果の行動なのだろう。わたし達は、その痕跡をただ追っているだけに過ぎない。予測できる最悪の事態に遭遇しないうちに、手掛かりを集める事ができている。
だけど、それもきっと今のうちだけだ。小野寺さんが意地を張って警察に証拠品の提出や進言をしないでいるから、まだ警察や検察の追及は弱いままだが、いずれは太刀川製薬もこの事に気づいて、わたし達の存在に目を付けるかもしれない。そうなった時、太刀川製薬がどんな手段を使って来るか、分かったものじゃない。
それを避けるために、わたし達は何をするべきか……。
「どうしたの? 箸が全然進んでないわよ」
小野寺さんに声をかけられて我に返る。考え出したら他の事に手がつかなくなってしまっていた。相手の時間をここで浪費するのもアレなので、早く食べた方がいいのは分かっていた。けれど、なぜだか食欲は減退する一方だった。
ゆっくりと箸を進めていく。その間、自分に向けられた小野寺さんの視線が気になって仕方なかった。お手頃の値段でもおいしいと評判だという料理も、今のわたしには無味乾燥なものにしか感じなかった。これはひとえに、わたしのせいだ。
昼食を終えてファミレスを出た後、先を歩く小野寺さんがわたしに言った。
「ねえ、私はこの後太刀川製薬の本社に行ってみようと思うけど、どう? あなたもついてくる?」
「…………」わたしは目を伏せて答えない。
「なんて、ついて来てくれた方が何かと助かるけど……どうしたの?」
おどけるような対応は逆効果だと察したらしい。まただ。この人にだけは、他人に気を遣う事を知らなそうなこの人にだけは、気を遣う事で負けることはないと思っていた。どうしたってわたしが気にかける方が先だと思っていた。それなのに、そう思っていた相手から先に気を遣われた。里子に続いて二人目だ。
どうしようもないな、わたしという人間は。笑ってもいいけど、笑えない話だ。
「……小野寺さん。あの証拠品、警察に渡すつもりはないんですか?」
「まあ、渡しても渡さなくても、あの刑事の鼻を明かす事はできるだろうけど、私は、あくまで私一人の考えだけど、事の真相がはっきりするまでは渡したくない」
「そうですか……」
「なに? あなたは違うの?」
「わたしは」言葉がまとまらないうちに口を開いた。「一度こうだと決めたら最後まで諦めない性格だと思っています。今でもそれは同じです。でも、命の危険も顧みずに突っ走っていくのは、少なくともそんな度胸は、わたしにはありません」
「だけど手を引くつもりはない。そうじゃなくて?」
わたしの考える事が、彼女にも理解できるようになったようだ。
「喜田村先輩の居所を知りたいという気持ちは、今も変わりません。でもこの事件には、想像以上に大きな闇があるように思えます」
「そうね。太刀川会長のやり方を受け継いでいる人間が、まだ会社の中にいる可能性は高いものね。そして桃矢の両親は、そうした人間の手先に殺されたのかもしれない。桃矢を拉致した後は、真相に近づいている私たちに手を伸ばすかもしれない。それを思えば、恐怖感を抱いても無理はないかも」
「…………」
「怖じ気づいて、あの刑事さんの忠告通り、全ての証拠を警察に明け渡して、その後の捜査を警察に一任するわけ?」
「わたしも、できる限り調査は続けたいです。でもわたしは、あなたみたいに、どれほど危険な場所でも真実追求のためには突入を躊躇わない、そんな度胸を持ち合わせてはいないんです。正直いって、警察に全ての事情を話して、その上で警察に守ってもらう方が、まだ安全だと思っています。そうすれば警察も捜査が進展して、早いうちに犯人を捕まえて先輩を見つけてくれるはずです」
「……それ、本心で言っているの?」
「建前だという答えを期待してるのかもしれませんが、残念ながら本心です」
小野寺さんはじっとわたしを見つめてくる。その表情から、怒りは感じられなかった。感情を読み取るのが得意なわけじゃないが、わたしの乏しい観察力から言えば、彼女がわたしに向けている感情は、憐みに近いものだ。
やがて、小野寺さんはため息をつきながら言った。
「それって要するに、自分の身を守るためだよね? 自分が一番可愛いだけじゃない」
「そうですよ!」
わたしは吐き出すように言った。そう言われる事は分かっていたのだ。そして否定する事もできなかった。自分が一番よく分かっているつもりだったからだ。
「わたしは、胸を張れるほど賢いわけじゃない。プライドを掲げられるほど結果を残しているわけじゃない。体力も直感も瞬発力も、衆に優れているわけじゃない。それでも、諦める事だけはしなかった。わたしに残されている力はそれだけです。それはわたしが一番よく分かっています。だから、手に負えないくらい強大なものが道を塞げば、それを乗り越えるのは無理だってすぐに分かるんです。要するに臆病なんです。形だけ諦めないという理由が欲しいだけなら、それは臆病者の言い訳に過ぎません。そうです、わたしがしようとしている事は臆病者の言い訳なんです!」
溢れる言葉は急に途切れ、荒れた呼吸の音だけが漏れ出る。
馬鹿じゃないのか、と、徐々に思い始めていた。冷静に考えれば、警察に洗いざらい話す事が最善なのは明らかだ。でも、いつの間にか小野寺さんの姿勢に惹かれてしまい、真実のために自らの危険も厭わずに行動することが、一人の人間としての誇らしい姿だと思うようになっていた。同時に、そうした行動に躊躇いを覚える自分と比較して、必要以上に自分を低く見積もることが常態化していた。
退屈な日常から解放された先に待っていたのは、心地よさだけではなかったのだ。
「……家族より、友達より、恋人より大事なもの。あなたの場合、それはもしかしたら自分なのかもね」
反論の余地もない。わたしは無言で俯く。
「まあ、それがある意味で普通なのかも……なんて、私が言っても意味ないか」
小野寺さんはわたしとの距離を縮めてきた。わたしの右手を取り、何かを右手の中に忍ばせた。感触ですぐに、あの三枚のマイクロSDカードだと分かった。
「一緒に行けないのは残念だけど、あなたはこれを警察に渡しなさい。太刀川製薬への聞き込みは私一人でやるから」
わたしは顔を上げた。「大丈夫なんですか?」
「なるべく周囲に気をつけるよ。目新しい情報が手に入れば、すぐにあなたに知らせる。あなたはこれを持って警察に行き、洗いざらい話しちゃいなさい」
「そうしたら、警察は小野寺さんを止めるかもしれませんよ?」
「かもね。でも、果たして警察に私を止められるかしら」
……無理だと思う。考えが顔に出たようで、小野寺さんは満足そうに頷いた。
「まあ確かにね……あなたにはそれほど度胸が備わっていない。そんな人を、無理やり連れて行くのは私でも気が引けるわ。それに、あなたが本気でそれがいいと思うなら、私に構わずその通りにすればいいのよ。もしそれで私の調査が頓挫することになっても、それはあなたのせいじゃないし」
「なんか、すみません……」
「いいのよ。いざという時に自分の安全を最優先するのは、臆病者のする事だけど、同時に誰もがやる事だもの。あなたの能力が劣っていることにはならないし、私もその事であなたを責めたりはしないから」
今日はずいぶん気を遣ってくれる……熱でも出たのではあるまいか。
「じゃあ、ここからは別行動ね。……言っておくけど、あなたを連れて行けない事が残念だというのは、本心だからね」
わたしの働きにも期待していたという事だろうか。情けない態度だと思いながらも、余計な反論をしてしまう。いや、反論にすらなっていない。
「わたしは……あなたに期待される資格なんかありません」
その発言の数秒後、わたしの体は温もりに包まれた。わたしは、小野寺さんの腕の中にいた。咄嗟の事で、どんな反応をすればいいのか分からなかった。
「私ね……あなたの存在を貴重だと思っているの。私の周りにいる人達は、私の言うことに対して批判も反論もしてこない。本当は色々言いたい事があるはずなのに、誰も言葉に出そうとしない。恐れからなのか、信仰からなのか。批判されずに生きていくのは心地いいものだと、昔は思っていたけど、周りの人達の不自然すぎるくらいに建前を駆使した話し方に、いつしか嫌気が差すようになっていた。でも、あなたは違った」
「…………」
「私がどれほど強気に出ても、あなたは堂々と自分の思う所を譲らず主張してくる。こんなふうに、正面からぶつかってくるような人がいるなんて、思ってもいなかった。あなたへの疑いが晴れた時から、私はあなたの存在に希望を見出すようになったのよ」
そんな大それたことをしていたように見えたのか。わたしにとっては、思ったことをしっかり口に出すのはむしろ当たり前の事だった。そんな当たり前の事が、彼女にとっては刺激的だったのだろうか。
「素直な子が好きだっていうのは、嘘じゃない。それに、あなたは自分の事を臆病だと言ったけれど、命の危険が疑われるような状況に直面して足がすくむなんて事は、誰にでもある事よ。あなたは臆病というより、自分に嘘がつけないたちなのね。だからこそ、誰に対しても心を開けるし、自分の欠点をさらけ出せる。意外とそれって、誰にでもできる事じゃないのよ。少なくとも、私に能力はない」
「あっても今回の事態には役に立たないじゃないですか……」
「桃矢の事件を抜きにして話しているのよ。私には羨ましいよ。そんなふうに、自分の気持ちをしっかりと相手に伝えられたらよかった。それが出来たら、こんな惨めな思いをせずに済んだだろうに……」
この人が、惨めな思いをしているというのか。わたしが見た限りでは、そんな様子は一瞬たりともなかった。という事は、わたしの見ていない所で、自分の事を惨めだと感じているのだろうか。
小野寺さんはわたしから離れた。だけど、両手はわたしの両肩の上にあった。
「いい? 自分の持っている力が、今回の一件に関して無用の長物だなんて思わないで。X線だって、発見された当時は何に使えるのか分からなくて、正体不明の放射線という事でそんな名前が付けられたぐらいだから」
「X線と同列に並べられても……」
わたしは苦笑するしかなかった。たとえが微妙すぎるだろ、この人。
「でも今は、レントゲン撮影の道具として大活躍を遂げている。今は分からなくても、これから強力な武器になる可能性は十分にあるのよ。あなたのその、他人のために、自分のために嘘のつけない性格は、もしかしたら誰かの運命を変えるかもしれない」
「…………」何も答えられない。
「今さらあなたに自信をつけようとは思わないけどね、柚希、背伸びせずにありのままで居続ける事で、あなたはきっと道を切り開ける。だからあなたは、あなたの思ったようにやればいいのよ。大丈夫、結果なんてなるようにしかならないんだし、あなたが心から正しいと思ってやった事なら、誰も文句を言う筋合いなんてないんだから」
言葉が出てこない。胸の奥からあふれ出てくる熱い感情を、正確に言い表せるほど、わたしは語彙が豊かじゃない。
なんで、今日の小野寺さんはこんなにも優しいのだ。彼女は一度たりとも、わたしの価値観や行動を否定しなかった。それでも、必要な事は隠さずに話してくれた。彼女の放つ言葉の一つひとつが、わたしの空虚な心にじわじわと浸透していく。彼女は今までも、人生相談にきた人たちに対して、こんなふうに接してきたのだろうか。
惨めなのはわたしの方だ。でもきっと、そんな自分も、ありのままで居続けながら越える事ができる、いつしかそう思えるようになっていた。
わたしの顔はしわくちゃになっているだろう。そんな状態で俯くわたしを見て、小野寺さんは何を思っただろうか。分かるはずはないのだけど……。
「じゃあ、あとは頼んだわよ。私の相棒」
ハッとして顔を上げた時、小野寺さんは既に背中を向けて歩き始めていた。
一人残されたわたしの手元にあるのは、彼女の言葉と、三枚のSDカードと、未だ何の役に立つのか分からない、嘘をつけないという能力だけ。危険な場所に足を踏み入れる事は、最初からやりたくないと決めていた。その上で、喜田村先輩の居場所を見つけ出し、全ての真実を目に焼き付けるために、今のわたしにできる事は一つしかない。
限られた手持ちの武器で、道を切り開く。どうせ、この事件が終わればもう使われる事もない武器だ。ここで思う存分使わないでどうするというのだ。
小野寺さんの姿が見えなくなった後、わたしは踵を返して駆け出した。




