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「遺書……? ワープロで作った遺書ですか」
一行目はタイトルと同じ『遺書』。その後の文章はこのようになっていた。
私は、太刀川製薬という一つの大企業の行く末を担う役員の一人として、少なからず同社の成長に貢献し、長きにわたり尽力してきたと自負している。その信念は現在でも持ち続けているつもりでいた。それ故に、同社に巣食う不正の種を、何としても排除せねばならぬと思い、多少の無茶を重ねてその証拠を集めてきた。
それらを全て、名前も分からぬ何者かに明け渡し、恐らく同社で最もその証拠の使い道を弁えている私が、諦念に押しつぶされてしまう事は甚だ無念である。しかし、私は既にかの怪物・太刀川会長に刃向かう度胸と気力を失っていた。
私は太刀川製薬に入社するより以前に、とある証券会社に勤務していた。右も左も分からぬ世界で私は社会の倫理に背き、株券の不正発行に手を染めてしまっていた。その事が公になる前に私は証券会社を自主退職し、太刀川製薬へ入った。しかし先頃、太刀川会長はどこからかその事実を引き出し、太刀川製薬の不正の証拠を握っている私の前に突き出してきたのである。場所は同社が所有している倉庫の中だった。
私は恐れの念から、衝動的に太刀川会長を刺し殺した。それは間違いのない事だ。私が自分の手で会長の手首に触れ、脈拍が無くなった事を確認していたのだ。私は恐怖のあまりその場を逃げ出した。私も所詮は臆病な人間だったのである。
驚天動地の事態が起きたのはそれから三日後だ。私は社内で、平然と廊下を歩く太刀川会長を目撃したのだ。急いで私は倉庫へと出向いたが、会長の血の痕などどこにも残っていなかった。混乱していた私の耳元で、彼は囁いた。
『戻廟の主が私に甦りの力を与えたのだよ。私ははっきり記憶している。お前に腹を刺されて殺された事を』
それから私は、彼に逆らう事が出来なくなった。同時に私は、如何にしても他人に明かせない罪を抱える事となった。明かしたところで、誰が信じてくれるだろうか。不正を暴く事を正義と確信し、内心で英雄を気取っていた私は、一転して孤独な罪人へと成り下がったのである。
これを読んだ者もまた、この話を信じる事など出来ないだろう。致し方のない事だ。私はこの罪を消す手段として、太刀川会長と同じ道を選ぶことにした。それはすなわち、戻廟の主の力が及ぶあの倉庫で、自ら命を断ち、再び甦る事である。愚かな行為にしか見えないであろう。しかし今の私に、これ以上の何が出来るというのだろう。
この遺書には、太刀川製薬の不正の証拠を別に加えておく。もしこれを手に入れる者があれば、躊躇なく公にすることを私は切望する。
最後に、自殺した役員である長谷基弘の名前が記されていた。
小野寺さんは椅子の背もたれに寄り掛かりながら、腕組みをして考え始めた。一方のわたしは、あまりに非現実的な遺書の内容に、呆然とするしかなかった。
「これ……どういう事なんでしょう?」
しばらく無言を貫いていた小野寺さんは、おもむろに口を開いた。
「……自殺した重役は、その正義感から太刀川製薬の不正を暴こうとしていた。しかし、その事を察知した太刀川会長によって、自殺に追い込まれたんだ。自分が太刀川会長を殺害したという事実を植え付けた上で、警察への出頭も出来なくさせるために、戻廟の力で蘇ったように見せかけた。少なくともそれによって、重役は不正の証拠を公表する気力を削がれるだろうと踏んでいたんだ」
「でも、死んだ人間が蘇るなんて、そんな事が……」
「太刀川会長は死んでなんかいなかった。あらかじめ防刃チョッキを着用し、刺された振りをして倒れた後、脇の下に何かを挟んで血流を止めたんだ。そうすれば、手首から脈を触知する事はできなくなるからね」
「あれ、意外と簡単なトリックですね……」
「真面目すぎたのが災いしたのかしら。流れ出た血も偽物。薄暗い倉庫の中で血に見える程度に色づけされたただの水で、それを拭き取っただけ。だけど、実際に刺した手応えを感じていた上に、事前に恐怖と焦燥感を煽っていたために、刺した本人は会長が本当に死んだと早合点してしまった」
「本当に、証拠を消すためなら手段を選びませんね、太刀川会長は……」
ウィルスの事といい、死んだ演技といい、会長は詐欺師の方が合ったのではないか?
「会長もたぶん、これで重役が自殺するとは思っていなかったかもしれないけど、結果として彼は不正の証拠を残して自殺した……わざわざあの倉庫を死に場所に選んだのは、こういう理由があったのね」
里子は、長谷氏が自殺の舞台として自社所有の倉庫を選んだ理由を、ずっと気にしていた。彼女の読みは間違っていたが、理由は確かに存在していた。
「小野寺さん、この遺書は本物なんですか?」
「九分九厘、本物でしょうね。誰かが作った偽物なら、どんな形であれ公表しているはずでしょう? でも実際には公表されず、警察も自殺の原因を特定できなかった。裏を返せば、これは第三者ではなく本人が書いたものという事になる」
なるほど。これが論理的推理というものですか。
「これではっきりしましたね。先程のデータは、自殺された重役が集めたもので、それを後から喜田村先輩が手に入れた……でも、どうして喜田村先輩なんでしょう?」
「遺書の内容を見ると、名前も分からない何者かに証拠類を明け渡すと書いてある。つまり証拠を集めた重役本人も、誰の手に証拠が渡ったか知らないんだ。それらの証拠がそのままの形でここにあるという保証はないけど、少なくとも重役が集めた時点で、その証拠はこのようにデータの形になっていた。となると、素性の知れない第三者に渡す手段はかなり限定されてくる」
「ネット回線を通して、ですか……」
「それしか考えられない。桃矢がこれらの証拠を手に入れたのは単なる偶然……と言いたいところだけど、どうも怪しいと言わざるを得ないな」
「そうですね。喜田村先輩は太刀川製薬と何か繋がりを持っていたはずです。そんな先輩に偶然、太刀川製薬の不正を暴く証拠が流れてきた、なんてでき過ぎです」
「もう少し手掛かりが欲しいところだけど、ここにあるデータから推測できるのはここまでね。だけど、別の方法がないでもない」
小野寺さんは携帯を取り出して操作し始めた。どこかに電話をかけるみたいだ。どこから手掛かりを入手するつもりなのだろう。携帯を耳に当て、彼女は話し始めた。
「あ、もしもし。平池刑事ですか。ほほう、待ちかねていたと言わんばかりの口調ね。いえ、思い出した事があるわけじゃないんです。一つ、どうしても気になった事があったので、それを確かめたいと思いまして」
警察から情報をもらうつもりなのか。確かに思い出したことがあるわけじゃないが、いま目の前にある有益な材料を警察に伝える気は微塵も無いようだ。
「ええ、その内部告発があった際に、当然、送信元のパソコンも押収しましたよね。まあそれは検察の仕事なので関係ないでしょうけど。でも平池刑事も、一応資料には目を通していますよね? ……おお、さすが。それでですね、そのパソコンに、テレビ電話などに使うカメラが装着されていませんでした?」
通信用のカメラが、何の手掛かりになるというのだろう。
「……へえ、確信を持って言いましたか。ありがとうございます。訊きたい事はこれで全部ですので、それではご健勝をお祈りします」
たっぷり皮肉を込めた台詞を残して、小野寺さんは電話を切った。
「……今のは、何の目的で?」
「予想を確信に格上げするための最終確認。まだこれが真実だと決まったわけじゃないけどね。大胆な推測だけど、桃矢は昔、太刀川製薬の本社に来た事があるんじゃないかな」
「先輩が、太刀川製薬に?」
「何の用事で来たのかは分からないけど。桃矢と太刀川製薬の繋がりの結果なのかもしれない。とにかくその際に、偶然長谷という人のパソコンに触れたのよ。恐らくそのパソコンには、長谷という人が作った仕掛けがあった」
「仕掛け?」
「何かのスイッチをクリックすると、パソコンの中に隠されていた内部告発のメールが、検察に送信されるようになっていたのよ。同時に、カメラがクリックした人の顔を認証して、クラウド上に保存した……ネット上で自動的に顔写真をリサーチして、クリックした人に証拠のデータが渡るようにしてね」
「その対象になったのが喜田村先輩という事ですか?」
「たぶん、証拠を全て検察に送ってしまえば、太刀川製薬が送信者を抹殺する可能性もあると危惧したのね。だから一度はクリックした人に預けて、その人の判断に任せようとしたんじゃないかしら。その方が、太刀川製薬も手が出せないと踏んでね」
「つまり、最初から喜田村先輩に的を絞っていたわけではないと?」
「桃矢が太刀川製薬の本社に来たのは、もしかしたら必然かもしれないし、その際に長谷という人のパソコンをいじったのも何か目的があっての事かもしれない。八歳ごろの話だから、何とも言えないけどね。でも、その結果として告発文が検察に送られ、証拠となるデータがネット上に流れたのは偶然でしょう。誰に予測できる事でもあるまいし」
確かに予測は出来ないだろう。もしその仕掛けの全容が目立つ所に書いてあれば、製薬会社側に隠滅されてしまう恐れがある。誰もそんな仕掛けがあるとは分からないはずだ。どんなに先輩が賢くても、故意に情報を流すためにクリックしたとは思えない。
「やがて桃矢の顔写真をSNSなどで見つけると、そのアカウントに自動的にデータが送信されるように、システムを構築していた。……全く、そこまでする余裕があるなら、会長さんの仕掛けたトリックを考えた方が速いだろうに」
「自分が会長さんを刺したことは事実だから、あえて考えないようにしていたのかもしれませんね」
「まあ、好意的に受け止めてそういう事にしてもいいか」
「でも警察の方で問題のパソコンを調べて、誰も触っていないことが分かったのでは?」
「警察が調べたのは、例の告発メールを誰が打ったのかを知るため。ならば、キーボードから指紋が検出されなかった時点で、誰も使っていないと考える。桃矢はマウスに触れただろうけど、キーボードの指紋が拭き取られているなら、マウスの指紋も拭き取られたとみるでしょうね。たぶん、太刀川会長が先に調べる可能性を考えて、すべての準備を整えた後で、キーボードやマウスの指紋を、自殺した長谷という社員が拭き取ったのね」
時間はかかったが、ようやく色んな事が一つに繋がり始めた。喜田村先輩は、太刀川製薬の不正の証拠を握っていた。決定的ではなくても、検察の捜査を前進させるには申し分ないほどの証拠を。そして、恐らくそれが今回の事件に繋がっている。
そうなると、やはり不吉な想像を禁じ得ない。先輩の失踪に太刀川製薬が大きく絡んでいるなら、先輩も無事では済まないかもしれない。自殺に追い込まれた長谷氏や、惨殺された両親のように、最悪の場合、すでに絶命している可能性だって……。
いかん、事態が大きくなりすぎて冷静さが薄れている。緊迫した空気に流されてはならない。希望を忘れてはならない……。
なんて事を思っていると、わたしのお腹が盛大に合唱した。
……ああ、もう。この緊迫した空気にそぐわない、恥ずかしすぎる生理現象に頬が紅潮してしまう。
「おっ、お腹すいたか。もう十二時を過ぎているからな。お昼でも食べるか」
「なんか、すみません……」
「いいって。せっかくだから、近くのファミレスで腹を満たそうか?」
「買って来るという選択肢は最初からないのですね……お金は大丈夫なのですか?」
「今日はおごらないよ。自分の分は自分で払いな」
昨日は自分がおごったのだから、今日は小野寺さんの分までわたしが払う、なんて事態にはならなくて安堵した。失礼ながら、この人なら言いかねないと思ったのだ。




