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※作者注
この第三章の終盤に、残酷描写と解釈されかねない文言があります。ご注意ください。
その日の朝は、予想しえないアクシデントで幕を開けた。
わたしが寝ている場所は、里子の部屋のベッドの上。カーテン越しにうっすらと差し込む朝の光の中、わたしは布団から顔だけ出して眠っていた。
時刻は午前六時十二分、その出来事は突然に起こった。
「うがっ」
わたしの顔面に、固いものがぶつかって来たのだ。安眠を妨げられてすっかり眠気が吹き飛んだ。何事かと思って体を起こすと、さっきまでわたしが横たわっていた所に、隣で寝息を立てている里子の片手が転がっていた。
いや、これで誤解しないでほしい。その手はちゃんと里子の体にくっついている。
で、その里子だが、派手に掛け布団を乱し、わたしがいた所とは反対側の腕と足を、寝巻きをまくった状態で布団から出していた。……里子、意外に寝相が悪いな。
起きるにはまだ早すぎる気もするが、もう眠気が舞い戻る気配もないので、わたしは里子をベッドに放置して部屋を出た。洗面所に行って鏡を見ると、寝癖がひどい事になっていた。この家の櫛を借りて、外に出ても恥ずかしくない程度に整えた。
昨日から里子の両親は旅行に行っているので、朝食を用意してくれる人は誰もいない。里子も起きる様子がないとなると、自分で何か用意しなければならない。幸いにも、里子が昨日のうちに食料を買い込んでいたおかげで、料理未経験のわたしでもまともなものを用意する事ができた。とはいえ、ほとんど手を加えていないけれど。
里子は放っておいても文句を言う子じゃないので、わたしは一人で朝食を摂ることにした。早速いただこうと思った矢先、胸ポケットに入れていた携帯に着信が入った。ただでさえ間の悪さで不愉快な気分になったのに、さらに電話の相手の表示を見て、わたしは顔を歪ませた。誰が見ても機嫌が悪いように見えるだろうな。
そう、相手は小野寺芳花さんである。嫌いなタイプではないけれど、接するのにかなり気を遣わなければならないという点で苦手なのだ。
「もしもし?」わたしは電話に出て言った。
「おや、ずいぶん機嫌悪いね。もしかして寝起きだった?」
「いいえ。これから朝ご飯を食べようかと思っていたところです」
「そう。食事はゆっくりでいいけど、終わったらすぐに出かけましょう。『貴船オン・ユア・マーク』にて集合ね」
「あの施設で合流するんですか? 待ち合わせ場所としてはちょっと遠いですよ」
「単なる待ち合わせじゃないわよ。急遽、そこで調べたい事が出来たから」
「調べたい事?」
「暗号が解けたの。その結果、『貴船オン・ユア・マーク』に手掛かりが眠っていると判断したわけ」
呼吸が止まる。そのまま十数秒固まっていたら、頭がぼうっとしてきた。さらにそのまま三十秒ほど固まっていたら、痺れを切らした小野寺さんが怒った。
「おい、気持ちの整理にかける時間が長すぎだ」
「げほっ、げほっ……」息が続かなくなって咳き込んでから答えた。「すみません。というか、暗号解けたってマジですか」
「ちょっと、昨日は年下だから敬語を使っていたのに、夜が明けたらそんな口調?」
「マジであらせられますか」
「あ、もういいや」彼女は突っ込む気力が失せたらしい。「そういうわけで、解読方法も含めて現地で話したいと思うけど……どう?」
「答えが聞けるならもちろん行きますけど、ここでどう答えても結局わたしは行くことになりますよね?」
「そうね、否定はしない。じゃあ待ってるからね」
小野寺さんはそう言ってすぐに電話を切った。本当に、気が利かない人のフォローに回ろうとすれば、こっちが結果的に気を遣う事になってしまうのだ。
あの人のご機嫌を取りたいわけではないが、待たせるのは悪いと思ったので、わたしは急いで朝食を平らげることにした。里子が台所にやって来る気配はない。
夕食に続いて簡素な朝食を終えると、わたしは里子の分の朝食も作り始めた。何もしないで食べ物だけ頂いて立ち去るのは、いくら気の置けない間柄でも失礼が過ぎると思ったのだ。多少は冷めるかもしれないが、料理と、簡単な書き置きを残しておく。
『先に出掛けるよ。朝ご飯、早めに食べてね』
こんな感じでいいだろう。昨日の衣服は帰ってから取りに来る事にしよう。まさか、これから遠方へ調査しに行くのに、服を持って歩くわけにはいくまい。つまり、持って行けるのはハンドバッグと、その乏しい中身だけだ。ちなみに地図は含まれていない。
服といえば、小野寺さんは本当に太刀川製薬に調査のメスを入れるつもりだろうか。そしてそのつもりなら、どんな服装で行くのだろうか。よもや里子が言ったように、レディーススーツを身に纏うなんて事があるのか。もしそうだとすれば、わたしの今の恰好はあまりに不釣り合いではあるまいか。街に出て浮かない程度の普段着を選んでいるのだが。
過ぎてしまったことを気にしても仕方がない。この言葉はいつも言われる側だけど、今はわたしにも使わせてほしい。とにかく集合場所へ急ごう。




