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台橋警察署を出ると、すでに空は紅に染まっていた。思った以上に長居して、気がつけば時刻は五時に迫っていた。今日はこれ以上の調査を継続できそうにない、自然と同じ判断を下して、わたしは小野寺さんと並んで帰路につく。今朝家を出た時には、こんな形で帰宅するなんて想像もしていなかった。
「さて、私はこれから自宅に戻って考察の続きをします。あなたはお友達と一緒に、きょう得た情報を吟味するという事で」
「勝手にわたしの行動計画を設定しないで下さい。まあその通りですけど……」
「明日はもっと忙しくなりそう。桃矢が以前に訪ねたという太刀川会長宅にも、倉庫で自殺した太刀川製薬の重役の遺族にも会ってみたいわね」
「当てはあるのですか? とても普通の女子高生にはできそうにないですけど」
「色仕掛けでなんとかなるんじゃない?」
本気で言っているのだろうな。真顔で冗談めいた事を言われると返答に困る。
「その前に訪ねる相手の事を調べておきましょうよ。事前に準備をしておけば、不測の事態にもちゃんと対応できます」
「あなたはその理屈をまず学業に適用すべきじゃないかしら」
「うぐっ」はらわたが抉られるような感触を覚えた。
「それはともかく、確かに事前の準備は必要ね。うん、そこはあなたとお友達に任せるから、しっかり頼むわね」
いきなり重要な役目を丸投げされた。自分だけ楽をする気か。
「私は、例の暗号をもう少し考えてみるから。手掛かりらしきものも得られたし」
そう言って小野寺さんは携帯を操作し始めた。
「手掛かりってもしかして、あの新幹線の写真ですか?」
「ええ。どんなふうに暗号と繋がるのかは、まだ分からないけどね」
小野寺さんは、携帯の画面に映し出された例の暗号を、わたしに見せた。
『'10,15{12} '82,2(3) '75,4(2) '23,11(1) '10,19(4) '10,2{23} '75,6{21}
'75,16(1) '11,1(2) '23,7{13} '99,8{97} '23,2{16} '11,12(4) '31,7(3)
'64,14(4) '82,7(2) '99,4(3) '10,14{53} '10,8{52} '11,10(1) '97,5{25}』
何度見ても訳の分からない数字の羅列だった。もちろん規則的なものを感じるので、必ず何か意味のある文面になっているのだろうけど。
「文字化けした文章にしか見えないなぁ……」
「それなら本当に意味のない記号の羅列になるでしょ。まだ解き方は分からないけど、何を考えるべきかは私の中ですでにはっきりしている。上手くいけば、明日の朝までに解読できるかもしれない」
すごい自信だ。もしくは確信か……何かに気づいたのは間違いなかった。
「何か分かった事があるのですか?」
「まあね……でも、あなたは太刀川製薬の事を調べることに専念してね。今は」
今は、教えてはくれないという事ですか。予想はしていましたよ。
「それにしても、本当に熱心に調べようとしますね。わたし、人から惚れっぽいってよく言われますけど、恋愛以外で何かに熱中した事ってほとんどありませんから」
自分で言っておきながら、不思議に思っていた。この人に自分の事を自然と打ち明けられるようになっている。当初抱いていた警戒心は、いつしか薄れていた。
小野寺さんは携帯をチノパンのポケットに仕舞い、呟くように言った。
「……柚希は、桃矢のどこを好きになったの?」
「え?」いきなり本筋から外れた質問をされて、わたしは戸惑う。「どこを、って言われるとちょっと難しいですけど……まあ、イケメンだし、勉強もスポーツもできるし、それに優しくて気遣いもできるし、笑顔が素敵だし、なんか色々あって収拾がつきません」
「ふうん……で、本当の所はどうなの?」
言葉に詰まった。この人に下手なごまかしは通用しない。それは分かっていたのに。
わたしは、自分の声がしぼんでいる事を自覚しながら、ゆっくりと答えた。
「……正直、分かりません。出会った瞬間に一目惚れして、それからは何も考えられなくなったというか、どうして好きになったのかという事を考える余裕もなくて……」
「それでいいのよ」
俯いていたわたしは、その言葉で顔を上げた。小野寺さんは続けて言った。
「誰かを好きになるのに、理由なんかいらない。そして、誰を好きになってもいい。そうでしょ?」
彼女の、今までわたしに見せた事のない穏やかな表情を見るにつれ、わたしの気持ちはすぅっと軽くなっていく。もしかして彼女は、わたしを励まそうとしたのだろうか。
だとしたら、あまりに不器用が過ぎるというものだ。
「……小野寺さんは、本当に喜田村先輩の事が好きなんですね」
「ええ、好きよ」
小野寺さんは迷わずに答えた。
きっと彼女は気づいていないだろう。わたしが彼女に向けている視線は、羨望の眼差しに他ならないという事に……。
分かれ道に差し掛かったところで、小野寺さんが軽く手を挙げて言った。
「それじゃあ、私はここで。明日になったらメール送るからね」
わたしも軽く手を挙げることで応えた。そして、歩き去る彼女の背中を見送った。一瞬だけ、彼女の耳が赤くなっていたように見えたのは、気のせいだろうか。
いつしか、わたしは無聊な日常から離脱していた。こんなふうに、自分の無力さや浅はかさを受け止められる、その瞬間がこれほど早く訪れるとは思っていなかった。
そして、その事が意外にも心地よく感じられる事に気づけた。
……なんて具合に瞑想にふけっていると、突然携帯の着信音が鳴り響いた。慌てて取り出して画面を見ると、里子からだった。通話ボタンを押して耳に当てる。
「あ、柚希か?」当たり前だけど里子の声だ。「やっと講習が終わって今から家に帰るところだけど、そっちの調査の具合はどう?」
「うーん……ぼちぼち、かな」
わたし自身は手応えがあるとは思えていない。だから、順調なのか不調なのか、判断できる状況にないのだ。
「そうか……まあいいや。後で調査内容をメールで教えてくれれば。調査の最中、変な人に声をかけられなかったか?」
「小野寺さんに声をかけられたよ。さっきまで一緒だった」
「やっぱり現れたか……というか、柚希の中であの人は変な人のカテゴリに入るのか。何もされなかったか?」
「それが、何だかんだで調査に付き合ってくれたんだよね。むしろ、わたしがあの人の行動についていった感じかな」
「ほお……これはまた予想外な。まあ、その辺の話も含めて、後で知らせてほしいな」
今日だけで小野寺さんには何度も驚かされたけれど、わたしは里子の言動にも昨日から驚きを禁じ得ない。一年ちょっとの付き合いしかないが、その付き合いの中で知った里子という人物の性質からは、想像もつかないほど積極的に思える。
わたしのためなのだろうか。里子は、これが普通だと考えるようになったのか。
「おーい、どうした? リアクションの一つでもしてくれよ」
無言の時間が長かったようだ。わたしは思い切って尋ねてみた。
「里子。今晩、里子の家に行っていい?」




