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まだしばらく、ドタバタラブコメディをお楽しみください
当たって砕けろ、という慣用句は至る所でよく聞く。成功する見込みが最初から薄い挑戦でも、やらずに後悔するよりはずっといい、などという当たり障りのない激励によって本当にその気になれた人は、どんな気分で挑戦に臨むのか。
ちょっと整理して考えてみよう。当たって砕ける。起こり得る結果はこんな感じだ。
・当たった結果、砕けない
→ 九分九厘よろしい
・当たった結果、砕けた
→ まだまだ、これからだ
→ 結果オーライ
→ もう駄目だ……
→ 全くよろしくない
・当たらなかった結果、事態が好転
→ 間違いなくよろしい
・当たらなかった結果、事態に変化なし
→ 平穏無事
・当たらなかった結果、事態が悪化
→ 間違いなく後悔
さて、未来予測は基本的に不可能なので、全てのパターンが同じ確率で起こりうると仮定してみよう。経済学者ジョン・ケインズ氏も『真偽の不明な事象は平等な確率を割り当てるべし』と提唱しているからね。当たった場合の『よろしい』の割合は三分の二、当たらなかった場合の『よろしい』も三分の二。つまり、挑戦しようとしまいと、よろしい結果になる確率はどちらも、よろしくならない確率の二倍なのだ。
どちらにしても結果が変わらないのならば、やるかやらないかは純粋に個人の判断に任せるべきであって、真偽の不確かな慣用句を持ち出して説得するのは、ある意味で野暮な事ではないでしょうか。
「ないでしょうか、なんて言われても困るんだけど」
こっちは真面目に主張しているのに、向原里子は苦笑を浮かべるだけに留めた。
「テレビや雑誌の占いに書かれているアドバイスなんて、大抵どれも無責任な上にありきたりなものばかりなんだから、それを真面目に分析しても意味ないでしょ。いくら、その占いに勇気づけられて挑んだ結果、粉々に砕け散ったとしても、さ」
「別に粉々になんてなってないし。一応原型は留めているし」
わたしはムキになって言い返したけど、図星を突かれて少し混乱していたせいか、下手なジョークみたいになってしまった。
台橋市にある唯一の公立高校、市立台橋高等学校の校舎の裏手には、野球グラウンドを見渡せる位置に四つのベンチが設置されている。この高校に通うわたし、広瀬柚希は友人の里子と、並んでこのベンチに座って昼食を摂りつつ、いつものように無駄話に花を咲かせていた。
もとい、決して無駄な話ではない。少なくとも、わたしにとっては。
「で、確率論の話に逃げずに答えてほしいんだけど、柚希、砕けたんだよね?」
「……はい」
わたしは項垂れるしかなかった。少し不憫に思ったのか、里子はわたしの背中をポンと叩いた。
「まあ、あまり引きずらないことだね。男なんてこの世に余るほどいるんだから、悪い思い出はさっさと忘れて、次の恋愛に繋げればいいのよ」
「ああ、坂時先輩……先輩への憧憬の念は、いつまでもわたしの脳のフォルダにあり続けますから」
「簡単にはいかないか、やっぱ。ていうか、なに死んだ人みたいな扱いを」
要するに、そういう事です。里子の「粉々に砕け散った」という表現は、完璧に正鵠を射ていた。むしろ「玉砕した」よりも派手さが増しているけど。
呆れる素振りを隠すことなく、里子はわたしに言い放った。
「まあでも、意外に惚れっぽいあんたの事だからね、わたしが言うまでもなく次の恋愛に一歩を踏み出せるだろうけど」
「えっ、惚れっぽいの、わたし?」
「自覚なかったんかい」里子は多少大袈裟に反応した。「もっとも、大多数は一過性で終わっているから、覚えていないだけかもしれないけど」
覚えていないというわけじゃない。わたしがこれまでに巡り逢い、恋愛感情を抱くに至った男性の顔も仕草も、わたしはちゃんと記憶している。どんな残念な過去でも、自分をときめかせてくれた方々の事を、わたしは決して忘れないのだ。
でも、わたしが恋心を抱いた男性と言えば、先日見事にわたしを振った坂時勇也先輩で三人目になるはず。たぶん、多くも少なくもない数字だと思うのだが。
わたしがそのように言うと、里子はため息をつきながら答えた。
「あんたの場合、失恋と一目惚れの隙間で、ジャニーズとかエグザイルとかに現を抜かしているでしょ。部屋の中にもアイドル雑誌と明らかに男性向けのファッション誌が山積みになっているし」
「ああっ、それ言わないでよ! 誰かに聞かれたらどうするの!」
わたしは慌てて里子の口を塞ごうとした。けれど、手元が狂って首にあてがってしまった。結果、友人の首を絞めているかのような構図に。ちなみに、わたしは羞恥のあまり両目をつむっているので、手元を見ていない。
「いや、お前こそ、手の位置をしっかり確認してから力を入れんかい……」
「あ、ごめん。手が滑った」
「あー、死ぬかと思った」里子は首元を押さえながら喉に絡む声で言った。「ごめんで済むことなのか、これは」
「でも里子も口を滑らせたからおあいこで」
「一緒にすんな、一緒に」
「危ない!」
グラウンドの方から男子の声が聞こえてきた。反射的に声のした方を向くと、一つの硬球が真っすぐ、上空からこちらへ接近してくるのが見えた。
え? 何、この状況?
重力による加速、そして打撃による運動エネルギーの増加は侮りがたい。そんな物理的な分析をする精神的余裕などもないうちに、硬球はわたしの目の前、およそ一メートルという所まで迫った。
そして、大きな音を立てながら衝突した。……ベンチの背もたれ、わたしの右肩から十センチほど離れた所に。漫画と違って、衝突地点から煙は立たない。
「…………」とりあえず、気の利いた事でも言うことにした。「あー、死ぬかと思った」
「人のセリフを盗むな、お前」
冷静なツッコミ、ありがとうございます。わたしは良き友人を持ちました。
「大丈夫か、二人とも?」
野球部のユニフォームを纏った男子が駆け寄ってきた。左胸の所に『1』と数字が縫いつけられているので、たぶんさっきのボールを投げたピッチャーだ。
その男子の顔を真っすぐ捉えた時、わたしの心臓は急激に鼓動のテンポを上げた。
全身に、感電したかのように熱い血液が巡る。耳たぶの毛細血管が膨張した。
テレビで見た事があるけれど、男性も女性も、多くの種類の顔を平均すると誰もが美しいと感じてしまうらしい。中性的、端整な顔つき。目の前にいる男子生徒はまさに、それを顕現していたのだ。
わたしがじっと見つめたまま黙っているからだろう、男子生徒は戸惑ったような表情を浮かべながら言った。
「えっと……怪我はないみたいだね。驚かせてごめん」
「あ、お気になさらず」わたしの代わりに里子が答えた。「でも気を付けて下さいね」
「本当にすまない……」男子生徒は里子に向かって頭を下げた。
「なんで部活のユニフォーム着てるんですか? 部活の時間でもないのに」
「いや、こっちの方が、集中力が上がるというか……多少汚れても、着替えれば特に支障はないし」
「そういうものなのかな……」里子は眉を寄せた。
「それじゃあ、昼飯の邪魔して悪かったね」
そう言って男子生徒は、転がっていたボールを持ってグラウンドに戻って行った。わたしはというと、彼の背中を見てまだ呆けていた。
「おい、起きろ」
里子に手刀で頭を叩かれて、わたしはやっと我に返った。
「里子、今のひと、見た? すごいイケメンだったよ?」
「落ち着け。見てないわけがないだろ。すごいというほどだとは思わなかったけど、まあ確かに眉目秀麗の部類には入るかな」
「はあ……あんな素敵な人がまだうちの高校にいたなんて」
「やっぱりお前、惚れっぽいって事を自覚した方がいいな」
「そんなこと言うなー……」
「こっちを見て言え。すでに思考のベクトルがあらぬ方向に向いているぞ」
必死に色々呼びかけてくれる里子には悪いけれど、わたしは今、どうしたらもう一度、あの端整なお顔を拝見できるのか必死に考えていた。
広瀬柚希、十七歳。いま再び、恋を始めます。
「おい。とりあえず先に弁当を平らげろ」
おっと、我と一緒に時間も忘れるところだった。いま再び、食事を始めます。