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幸い、小野寺さんはちゃんと地図の分かる人だった。
三十分ほどかけて辿り着いたその場所には、地面に直接突き刺さった細い三角柱の看板があって、そこに『貴船オン・ユア・マーク』とゴシック体で書かれていた。もちろん、右上には『児童養護施設・養子縁組斡旋事業所』と併記されている。
「へえ、“あっせん”って漢字でこう書くんだ」
「まず先に見るのがそこなの?」小野寺さんは呆れながら言った。「会社名じゃなくて、登録商標名なのかしら。株式会社とか、独立行政法人とか、そういう表記がないし」
「必要なんですか? その表記って」
「ええ、会社法できちんと定められているのよ。そんな事より、ここに来てどんな手掛かりを探すわけ?」
そうそう、入り口の前で立ち止まっている場合ではなかった。
「とりあえず、何か手掛かりが探します」
「本当にあなた、先見性や計画性の欠片もないのね……」
小野寺さんが何か耳に痛い事を言った気がしたけど、わたしは聞こえない振りをして敷地の中へ入っていった。何もないと決めつけて大事なものを見落とすよりは、空振りに終わってしまう方がまだマシだ。
児童養護施設を看板に掲げているだけあって、庭には砂場と遊具が設えられている。そして、子供たちが寝起きする建物は、予想と違って木造で、和風のお屋敷を連想させるものだった。普通の建物と同じようにコンクリートで出来ていると勝手に思っていたから、わたしにはちょっと意外だった。
出入り口の扉も、すりガラスの板が木枠にはめ込まれた引き戸で、かなり使い古されている印象がある。そしてそのそばには、なぜか大きな壺が置かれていた。側面には何やら動物の絵が描かれているようだ。何かと思って覗いてみると……。
「ひゃあっ」
思わず悲鳴を上げて転倒してしまった。描かれていたのは妖怪だったのだ。もちろん、子供向けアニメに描写されるような可愛らしいものでは断じてない。猿の頭、狸や猪のような胴、四本の足は虎のように鮮やかな模様と鋭い爪を持ち、尻尾はまるで蛇のように細長く先が割れている、そんな奇怪な動物が恐ろしい形相で描かれていた。
「へえ、これって確か鵺よね。なんで水瓶に書いてあるのかしら」
小野寺さんも壺に接近して、その妖怪の絵を見て言った。ああ、そのサイズだと壺というより水瓶と呼ぶべきだったな。それにしても、こんなおぞましい絵を目にしても顔色ひとつ変えないって、どういう事だ。
「ぬえ?」
「京都にかつて出没したとされる伝説の妖怪。見ての通り、頭が猿で胴体が狸、手足が虎で尾が蛇の外見をしていて、笛のような鳴き声を持っていると言われている。まあ、外見については諸説あってはっきりしないけど」
さっきの戻廟に続いて、京都に絡んだものがまた出てきた。偶然だろうけど。
「なんで京都の妖怪が水瓶に書かれているんでしょう? まじないですか?」
「私に訊かれても……」
「それは魔除けとして置かれていたものですよ」
突然後ろから話しかけられて振り向くと、引き戸を開かれ、柔和そうな白髭の男性が現れた。わたし達は勝手に入ってきたはずなのに、ずいぶん優しい対応だ。
「二十年以上前にここが法人の支援を受けることになった時、先代の施設長がその法人の会長から譲り受けたものだそうで。大阪で購入されたものだったとか。しばらくはその会長が魔除けの意味合いで所有されていたそうですが、未来ある子供たちによからぬものが寄り付かないよう、こちらに譲渡されたという経緯がありまして……」
「ふうん……鵺に魔除けの力があるなんて、聞いた事がないけど」
わたしはそもそも、鵺の名前自体を聞いた事がなかったので、何とも言えない。それより、先に尋ねるべきことがあるよね。
「あの、おじさんはこの施設の方ですか……?」
「現、施設長です」
おじさんはにっこりと笑って答えた。あ、恐縮です。わたしは無言で頭を下げた。
「当施設にどのような御用で?」
施設長のおじさんにそう訊かれた時、小野寺さんが肘でわたしの体を突いた。わたしから切り出すべきだと言いたいのだろう。
「あの、昔ここに預けられていたという、喜田村桃矢さんの事をお聞きしたいのですが」
「桃矢……ああ、あの賢そうな子か。あの子がいたのは先代の頃で、私は一職員に過ぎなかったけれど、よく覚えていますよ。どうして彼の事を?」
「行方不明になったんです。警察もいま行方を追っています」
柔和だった施設長の表情が強張った。
「なんと……君たちも、彼の行方を探しているのかね?」
「はい。わたしは喜田村桃矢さんの高校の後輩で、こちらの人が……」
「元カノです」
あ、すべった。瞬時にそう感じた。この空気で、尊大な態度で力強く言う事ではなかろうに。わたしは一度咳払いをした。
「す、すみません……そこでお聞きしたいのですが、最近、喜田村先輩から何かコンタクトがありませんでしたか? 近くまで来ていたとかでもいいのですが」
「そうだねぇ……あの子、うちでは今でも有名人だから、近くまで来ていたら誰かが覚えていると思うのだが……」
「では、引き取られた後にここへ来た事はありましたか?」
「ありましたよ。私が記憶している範囲では三回ほど……毎回、ご両親には内緒で来ていたそうですが」
それはそうだろう。先輩はご両親に、休日などにどこへ出かけるのか全く話さなかったと聞いている。そこまで秘密にする理由は判然としないけど。
「その時に、先輩に何か変わった事はありませんでしたか?」
「いや、特には……でも、最後に来た時は、奥の部屋にある掛け軸を見せてほしいと言って来ましたね。確か、二年ほど前でしたかね……」
二年、か。最近と呼べるかどうか、極めて怪しいところだ。少なくとも施設長にとっては、二年前は最近に該当しないらしい。
「その掛け軸って、高価なものなのですか?」
「まさか。うちにあるものでプロジェクターより高いものはありませんよ」
映像を拡大してスクリーンに映すあれですか。あれの値段が平均してどの程度なのかは知らないけど、それを購入するのに費やした額で簡単に入手できる代物のようだ。何の目的でそんな掛け軸を見ようとしたのだろう。あるいは気まぐれか。
「その掛け軸って、今も奥の部屋にあるのですか?」と、小野寺さん。
「ええ。奥の部屋は職員以外立ち入りができないので、子供たちに悪戯される心配もないという事でそのまま飾っています」
「では、その掛け軸を私たちにも見せて下さい。今すぐに」
蹴っ飛ばしてやろうかと思ってすぐに思い留まった。どこまでも遠慮というものを知らない人種だ。段階を踏むという事ができないのか。
「いや、その、アポイントもなしに外部の方を入れるのは、ちょっと……」
さすがに施設長も困惑していた。なんとかわたしが空気を調整しよう。
「難しい事であれば結構です。写真に撮ってこちらに渡すだけでもいいので」
「まあ、それだけなら……どのみち、盗られてもたいした被害にならないものですし」
という次第で、掛け軸については施設長が自ら写真に収めてわたし達に渡してくれるという事で、この場は収まりがついた。約一名、納得していない人がいるが。
「ずいぶんな愚策に及んでくれるじゃないの。無関係の掛け軸の写真を渡されたらどうするつもりよ」
「そんな事をして、あの人にメリットはないはずでは?」
「彼が敵側の人間だったら、都合の悪い情報を持ち出すとは思えないでしょう。本気で手掛かりを探すなら、自分の目で直接見た方が確実じゃない」
「そうやって何でも最初から疑ってかかるのはやめて下さい。人間として恥ずべき行為です」
「人間としての恥を楯にした結果、大事な事実を見逃すのは間抜けというのよ」
駄目だ、これ以上続けても水掛け論になるだけだ。
「とにかく、小野寺さんのやり方はそれこそ敵を増やす事になりかねません。やりたいことや聞きたい事があればわたしが代弁しますから、少し大人しくしていてください」
「あなた、あの施設長を全然疑わないのね。お人好しというか、お気楽が過ぎない?」
「目の前にいる人をとにかく疑わないと気がすまない人よりは、何倍も好印象だと思いますけど」
「人からの印象を気にするのは臆病者のする事でしょ」
「それを言うなら、常に人を疑うのも自己防衛みたいなものだから、度が過ぎれば臆病者のする事なのではないですか?」
「言ってくれるじゃないの。一人じゃろくに調査もできないくせに」
「だから、その態度を少しは改めて下さいと言って……」
わたしは反論を途中でやめた。こちらに向けられた視線に気づいたからだ。施設の建物の窓から、小さな女の子がこちらをじっと見ていた。あの少女の目には、知らない女二人が訳の分からない言い争いをしているように見えただろう。
わたしは、別に恐い人ではありませんよ、という意味合いを込めて笑みを向けた。だけどそう簡単に満面の笑みなど作れるはずもなく、少し引きつった感じになってしまった。なんだか体裁が悪いな。
一方で小野寺さんはほとんど表情を変えることなく少女を見た。わたしは小野寺さんの背後に回って、頭の後ろから手を回して頬の皮を無理やり上げた。笑っているように見えただろうか。取り繕った感じは否めないけれど、少女は少し表情がほぐれた。そのまま窓を離れる。誰かに呼ばれたようだ。
顔から手を離したわたしに向かって、小野寺さんは怒気を込めて言った。
「おい、何の真似だ」
「いたいけな子供に向かって睨みつけるような表情はやめて下さい」
「さっきからいちいちうるさいわね。小姑みたいにねちねちと」
「誰が小姑ですか、誰が!」
「あのぉ……」
引き続き口喧嘩が始まりそうな所で、施設長が戻って来た。手には写真が数枚。争いの渦中にあったわたし達を見て、呆然と佇んでいた。
「掛け軸の写真、急いで撮ってきましたけど……」
「あ、どうもご面倒をかけます」わたしは遠慮がちに写真を受け取る。「特に、急いでもらわなくてもよかったのですが」
「でも、そちらの方が『今すぐに』とおっしゃいましたから……」
本当、ご面倒をおかけしました。わたしが小野寺さんを睨みつけると、本人はさすがにバツが悪そうな表情を浮かべた。
写真は全部で四枚あった。インスタントカメラで撮ったものだ。一枚は掛け軸全体を少し離れた所から撮影したもので、残りの三枚は掛け軸を上下三つに分けて細部を撮影したものだった。これを見ると、掛け軸のある所に防護ガラスなどはなく、誰でも直接触れることはできそうだ。掛け軸に描かれている絵には、雪の降り積もった古い小屋と、その小屋の縁側に腰掛けてぼうっと外を見ている老人の姿があった。郷愁という雰囲気があって綺麗な構図だった。
「ふうん、なんかつまらないわね。本当に安物そう」
わたしは、後ろから覗き込んできた小野寺さんの鼻を拳で叩いた。かなり痛かったらしく、彼女は鼻を押さえながらうずくまった。
「ありがとうございます。これ、持ち帰ってもいいですか?」
「構いませんよ。それと、つい先ほど思い出したのですが、桃矢君が二度目にここに来た時、あそこにある街の模型をじっと見ていたんですよ」
施設長が顔を向けた先を見てみると、街並みを再現したジオラマがテーブルの上に置かれていた。ガラスケースに入っているので細部までは見えないが……。
「あの模型は何か特別な?」
「いえいえ、あれはうちで預かっている子供たちが、半年かけて作ったものです。その意味では特別だと言えなくもないですが」
外部の人間にとっては、子供の工作に過ぎないというわけか。
「喜田村先輩が二度目に来た時に見ていた……何か気になる物でもあったのでしょうか」
「さあ、どうも分からないんです。あのケースは簡単には開けられませんから、何か気になる事があれば職員に聞いていると思うのですけれど」
「誰も聞いていない……?」
「まあ、七年も経てば街並みは変わりますから、多少違う所があっても仕方ありません。桃矢君があれを見ていたのは四年前ですから、作ってから三年経っています。それでも変わるものは変わりますからね」
「ガラスケースは一度も開けられていないんですか?」
小野寺さんが鼻を押さえながら訊いた。
「ええ。これは子供たちに見せるために置いていますが、悪戯防止のためにケースの中に入れているので、わざわざ開けて修繕することもありません。それに、しっかり糊付けしてあるので、地震などが来ても簡単には壊れませんから」
ふうん、と言いながらしきりに頷くだけで、小野寺さんはそれ以上聞かなかった。
「もう、質問は以上ですか?」
「私から二つ質問させてください」小野寺さんが軽く手を挙げて言った。
「何ですか?」
「桃矢がここに預けられた時の経緯を、覚えている範囲で教えてくれませんか」
「うちに来た時の事ですか……何しろ十六年も前の事ですからね、私も歳のせいかすっかりうろ覚えで……。でも、一つだけ鮮明に覚えている事がありますよ」
「そんなに印象深い出来事が?」と、わたし。
「お二人もご存じかもしれませんが、桃矢君はここから少し離れた所にある、工業地区にある倉庫の前で拾われて、当施設に預けられました。その、倉庫を所有していたメーカーの従業員が見つけた時、一歳半だった桃矢君と一緒に、下の名前だけが書かれた紙が添えられていたのですよ」
「下の名前だけ?」
「ええ、苗字はありませんでした。まあ、名前がなければ本当に名無しの捨て子という事になりますし、その場合は家庭裁判所に申し立てを行って仮の戸籍を作ります。苗字は引き取り手が現れれば変えられますが、下の名前はそうもいかないから難しいのです。だから下の名前が分かっただけでもホッとしていたのを覚えていますよ」
その紙に書かれていた名前が、本来の名前かどうかは分からないはずだけど。これは施設側の都合だから口を挟めることじゃないな。
「それでは、喜田村先輩の名前はそのようにして決めたのですね」
「ええ、置き去りにされた子供の大抵は名前も本籍も不明ですから、我々としては、新たに名前を考える手間が省けたので幸いでした」
「では、二つ目の質問です」
ちゃんと話を聞いているのかいないのか、小野寺さんは間髪容れずに言った。
「先程、ここが二十年くらい前に法人の支援を受けるようになったと言いましたが、その法人の名前を教えて下さい」
わたしは首をかしげた。それは本筋に絡んだ質問なのだろうか。わたしは疑問に思ったが、施設長は快く答えてくれた。
「ああ、それなら『桐野メディカルハウス』ですよ。支援が始まった時は親会社が担当していたのですが、経営不振に陥ったので子会社に委任したそうで」
経営不振。少し気になってわたしから質問してみた。
「あの、その親会社というのは……」
「確か、太刀川製薬という名前だったはずです」
思い切り本筋に絡んでいた。わたしにはその本筋というものが見えていないのだけど。逆に小野寺さんは何か見えたらしく、質問の答えを聞いてご満悦の表情だ。




