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「うーん……さっぱり意味が分からないな」
電話の向こうにいる里子が、唸りながら答えた。この時点で里子は多分、携帯の画面に映ったわたしからのメールを眺めている。わたしはマイク越しに彼女の声を聴いている。
今わたしは自分の部屋にいる。制服のブレザーだけ脱いで、ベッドに寝転がりながら、今日の出来事を里子に話していた所だ。約束通り相談することにしたのだ。里子ならこうした暗号も分かるかもしれないと淡い期待をかけたが、やはりそう簡単な話じゃない。
「本当に喜田村先輩が、あの小野寺って人にこんなメールを送ったのか?」
「少なくとも小野寺さんはそう言ってた」
「だったら、柚希を担ぐための嘘だという可能性もあるわけだな」
「うーん……」今度はわたしが唸る番だ。「あの人、嘘をついているようには見えなかったけどな」
「そうか。だったらわたしは柚希の所感を尊重しよう」
「本当に? 他人から素直に信用されるのがこんなに嬉しい事だなんて……」
わたしは落涙を止められない。ブラウスの袖口で拭った。
「よほど酷い扱いを受けたんだな……それで? 喜田村先輩が暗号を送って来た真意について、小野寺って人は喜田村先輩本人に確認を取れなかったのか?」
「たぶん……わたしに一緒に考えてほしいと頼んできたくらいだから。本人に連絡を取ったわけではないみたい」
「あえて連絡を取らなかったのか、それとも連絡が取れなかったのか……いずれにしろ、この暗号に込めた先輩からのメッセージを読み解かない限り、何も事態は進展しそうにないな。小野寺って人が柚希に接触した理由も分からないし」
「わたしが喜田村先輩に何かしたと思っているのかなぁ。参ったなぁ、誤解されたままだとこっちも近づきにくいよ」
「まあ、実際にあんたは先輩に何もしていないからね。というか、手を出せるほどの度胸がない」
「うっ……バッサリ言われると傷つくな」
「とにかく、わたしも暗号の事は考えてみるから。柚希はどうする?」
「もうすぐ野球部が遠征から帰ってくるから、その時に喜田村先輩に会ってみる。小野寺さんと付き合っていた事は今さら訊かないけど、せめて暗号を送った目的だけでも訊いておきたいから」
「そしてついでに先輩の見目麗しきお顔を拝見するという腹積もりか」
背中に冷や水をぶっかけられたような感じがした。わたしは上体を起こした。
「なんで分かったの? エスパーなの?」
「あほか、お前は。そしてそのレスポンスは中古品だ」
おっしゃる通りです。今どき漫画でもこんな返しは使いません。
「まあ、満足のいくまで情報収集をすればいいさ」
「そうだね。小野寺さんが喜田村先輩に連絡できなかった理由は分からないけど、それも本人に直接会って訊けば全部分かる事だもんね」
こんな具合に、わたしは楽観的に捉えていた。しかし、現実はそう易々と事を運べるものではなかったようだ。わたしはそれを翌日になって思い知ることになる。
「喜田村先輩、行方不明だってさ」
いつもより少し喧騒の激しい台橋高校に到着してすぐ、わたしは里子からその事実を知らされた。衝撃のあまり即座に言葉を返せないわたしとは異なり、里子は普段と変わらず淡々とした口調で告げていた。
「……どういう事?」
「詳しい事はわたしも知らない。どこかで噂を嗅ぎつけたらしい先輩女子から、何を騒いでいるのか聞いて、初めてわたしも事実を知ったから」
さすがにこの口調で質問したわけではないだろう。里子は家が学校から近所にある事もあって、わたしよりいつも先に学校に来ている。後からわたしが来た時には、その騒ぎが学校全体に広がっていたようで、わたしは一年生の教室の近くを通った時に騒がしさに気づいていた。それほどまでに喜田村先輩の影響力は広範囲に及んでいるというのに。
里子は我関せずと言わんばかりに、興味を示す素振りを一切見せない。
「里子は心配じゃないの? 喜田村先輩が失踪したんだよ? 行方不明なら、どこにいるのかの見当は誰もついていないって事だよね?」
「そうなるね。いや、柚希が心配するのは当然だし、その心情は理解しているつもり。でもわたしにとっては他人も同然だし、慌てても何もいい事はないだろうから」
里子の席の机を平手で強く叩いた。里子はわたしの顔をじっと見返してきた。鏡みたいなものを持ち出してくるな、そう念じている自分がいる。いま里子に向けているわたしの表情など、とても見たくなかった。
そんなわたしの心情に配慮してか、里子は落ち着いた口調で言った。
「誤解しないで。わたしも友人として喜田村先輩の事は心配している。わたしが周りの人たちみたいに騒がない理由は二つあるけど、その中に、先輩の安否に関心がないからという要素はない」
「じゃあ、なんでそんなに落ち着いているの……?」
「一つは、もうすぐ始業だから授業の準備に集中したいという事。喧騒の原因はもはや明白だから、今さら騒音で集中を掻き乱されることはないけど、それでも自分が騒いだら何の意味もないからね」
「もう一つは?」
「決まってる。他でもない、柚希のため」
わたしのため……? 最初に挙げた理由は実に里子らしいと思ったけど、二つ目の理由の意味をすぐには理解できなかった。
「柚希の事だから、昨日の一件も含めて、きっと喜田村先輩の行方を何としても探し出したいと言い出す事は予想がつく。たぶん、そのためにはどんな無茶も辞さない。その際に友人としてわたしが出来るのは、あくまで冷静な立場を保ちながら、柚希の行動を随所でサポートすること以外にない。わたしが無駄に騒がないのはそのためだよ」
聞いているうちにじわじわと胸が熱くなってくる。これも里子らしい。いや、むしろ最初に挙げた理由よりも里子らしい。わたしの事をどこまでも理解している事も、そんなわたしに対してサポートするのが当然だと考えている事も。
「まあ、これは学校の試験とは違って、答えばかりか考え方もどこにあるのか分からないし、確実な解決のためのヒントが与えられているわけでもない。行動によって得られる対価も予測できない。要するに相当な困難が伴うものだと言えるけど、それでも柚希は喜田村先輩の行方を探る事に躊躇いはないんだね?」
「もちろん」わたしは胸を張って言った。「じっと待ってやきもきしているだけなんて、わたしはまっぴら御免だから」
「それを聞いて安心した。どうやらいつもの柚希でいてくれたみたいね」
いや、それはどうなのだろう……わたしは少しだけ冷や汗を浮かべた。喜田村先輩の失踪を知った際の動揺は、今になっても全く収まっていない。
「とりあえず、授業が終わったら野球部の人に話を聞いてみよう。今のところ、手掛かりが得られそうな場所はそこしかない」
「そうだね」わたしは同意した。「あ、でも先生も何か知ってるんじゃない?」
「もちろんその可能性もあるよ。だけど、学校側が握っている情報を知る機会は、自ずと訪れるはず」
里子が余裕綽々で予言したその機会は、確かに早くも訪れた。
始業前のホームルームで、何事もないかのように朝の挨拶を済ませた担任教師に、終了間際で喜田村先輩の事を訊いてきた生徒がいたのだ。このクラスにも喜田村先輩を慕っている生徒は他にもいるから、耐え切れず質問してくる生徒は必ず現れる、里子はそう踏んでいたのだ。担任教師は無難にやり過ごそうとしていたらしく、歓迎されざる質問に辟易とした表情を浮かべながらも、致し方ないという様子で簡単に話した。
学校側は喜田村先輩の親から失踪の知らせを受けたそうだ。学校もその事実は初耳だったらしく、現時点では何一つ思い当たる原因がないという。親の方は、失踪の事実を認識した時点ですぐに警察へ行方不明届を提出したものの、一晩経過した現在になっても警察から報告は来ていないという。担任教師の口から語られたのはそれだけだった。
学校からの説明は簡略化されているけれど、事情ははっきりと呑み込めた。要するに、何も分かっていないという事だ。淡い期待を抱いていた生徒たちは、落胆すると同時に、悶々とした気分を味わう事になっただろう。それはわたしも同じだ。
「むう……やっぱり手掛かりを掴むなら、野球部に訊くしかないの」
里子の前方の席に座り、里子の机に両肘を突きながらわたしは言った。
「まあ、学校側からの説明で得るものは少ないと思っていたけどね」
「なんで?」
「確証があったわけじゃないけどね。昨日の時点で先輩の失踪について噂が立っている様子はなかったから、失踪の事実が認識されたのは昨日の夜から今朝にかけて。当然学校側に知らされたタイミングもその辺り。だったら、学校側も事実確認にかける時間的余裕はなかったと思ったの」
なるほど、言われてみれば納得できる事だ。いや納得なんかしていないけど。
「そこまで分かっていて先生の話を聞こうと提案してきたの?」
「言わなかった? 現時点で、手掛かりが得られそうなのは野球部以外にないって。先生から情報を得ようと提案したのは柚希で、わたしはそこから有力な手掛かりが得られるとは一切保証していない」
つまるところ、わたしの無駄な提案に義理で付き合ってあげただけだと、そう言いたいわけだ。屁理屈こきやがって。
「とはいえ、学校側が意外な事実を握っている可能性もあったから、一応話だけでも聞いておこうと思っていたけど……綺麗に空振りとなったわね」
「先生たちも色々調べるのかな。先輩の失踪の事は……」
「まあ、何もせずに警察の発表をただ待っていたら、保護者から非難を浴びるかもしれないからね、ある程度の情報収集はするでしょう。失踪の原因がもし学校内にあったら、学校側はそれに気づかず問題を放置していたと、後ろ指をさされるだろうし」
「実際に失踪の原因が学校の中にあるっていう可能性はある?」
「まだ調べていないから、否定できる段階じゃないというだけだね」
でも、肯定される余地は果たしてあるのだろうか。わたしが知る限り、喜田村先輩の事を悪く言っている人はこの校内にいない。という事は、喜田村先輩が悪口を言われている事もない。もっとも、仮にそんな事があったとしても、それだけで行方をくらますほどメンタルの弱い人とは思えないが。
そもそも、何らかの被害を受けたから自発的に失踪したのだろうか。誰かの手によって連れ去られたという可能性も否定できない。あるいは、命の危機にさらされている状況にあるとか……。
「あー、駄目だ。嫌な想像ばかりしてしまうよ」
わたしは自分の髪をくしゃくしゃと掻いた。手持ちの櫛でいつでも整えられるから大丈夫だ。
「落ち着け。想像ばかりに頼ったって先輩を見つけることは出来ないぞ」
「だって……」
「不安になるのも分かるけど、学生である以上、学校側の決めたスケジュールに縛られるのは仕方ない事だよ。ここは放課後まで待ってみるしかない」
「漫画とかには女子高生探偵なんていうのもよく出るけど、こうして考えるとちっとも現実的じゃないね。高校生に探偵の真似事なんてできっこないじゃない」
「時間という制約がある以上はね。警察みたいに色んな所で聞き込みができるわけでもないし。まあ、可能な範囲で調査して推理をするくらいなら、誰でもできるけど」
「よしっ、それならわたし達はそういう素人探偵を目標に掲げよう!」
「え、わたし達って、複数形? わたしも素人探偵にカウントされるの?」
「わたしが何かする時にはサポートしてくれるんじゃなかったの?」
里子は頭を抱えた。
「どう考えても、あんたが動き回ってわたしが考える羽目になるという構図にしかならないじゃないか……」
「だってわたし、推理なんてしたことないし。妄想ならあるけど」
「自慢にならねぇな。わたしだって推理の経験はない」
「里子の頭脳ならそれなりにいけると思うんだけどなぁ……」
「期待するのは柚希の勝手だけど、無理なものは無理。昨日見せられたあの暗号だって、一通り考えてみたけど全く分からなかったし……」
「それだ!」
一条の光が射し込んだように、わたしの脳に閃きが突然現れた。
「その暗号、喜田村先輩が失踪する直前に送られて来たものなんだから、もしかしたら暗号の中に失踪の理由が書かれているかもしれないよ?」
「ほほう。ではその『かもしれない』を君はいかにして証明するのかな」
わたしの動きがはたと止まる。
「それは……解かないと分からないよね、やっぱり」
「その程度の可能性ならとっくに思いついていたよ。だから、手掛かりが得られそうなのは野球部しかないと言ったんだ。暗号から手掛かりを得るとしても、解読のための手掛かりを見つけない限りは無意味だからね」
そこまで分かっているのに、あえてすぐ指摘せずにわたしの馬鹿な思い付きに付き合ってくれたというのか。さすが親友だ。嬉しくて泣けてくるわ。
なんて皮肉はともかくとして、状況は早くも振り出しに戻ってしまった。いや、そもそもスタートすらしていない気がする。ゴールまでの道のりは険しい。




