第二話 叙述トリック・オブ・ザ・デッド 2
「――それでは、捜査会議を始めます」
ホワイトボードの前で、雪平警部補は重々しい口調でそう言った。ここは捜査会議室。出入口には『大庭町女子大生殺人事件特別捜査本部』と書かれた紙が貼りつけられている。もちろん、捜査本部とは言っても勝手に名乗っているだけで、人員は雪平警部補と私の2人だけだが。
「アリス巡査、事件の概要を説明してください」
「はい」私は、近藤課長から受け取った資料を見ながら説明を始めた。「事件が起こったのは七年前の十一月十二日午後九時頃。大庭町三丁目の路上で、女性の遺体が発見されました。被害者は近所に住む大学生・水沼久美子氏、当時二十一歳です。遺体は、背中を鋭利な刃物で滅多刺しにされていたそうです。刺し傷の数は二十一か所にもおよび、死因は、出血性ショック死と見られています。当時は三百人体制で捜査に当たり、多くの目撃情報が寄せられましたが、現在も解決には至っていません」
「女子大生が二十一か所滅多刺し……かなりの殺意が窺えますね。怨恨による犯行でしょうか?」
「当時の捜査本部は、その線で捜査を進めたようです」
「分かりました。では、事件の目撃情報について、お願いします」
「はい。重要と思われる目撃情報は、以下の通りです」私は資料をめくり、ひとつひとつをホワイトボードに書きながら説明していった。
☆
1・近所に住む男性・ホンダ氏の証言
十一月十二日の午後九時頃、事件現場から走り去る人影を見た。走り去ったのはゾンビだった。
2・近所に住む男性・ホンダ氏の証言
ゾンビは荻原公園の方へ走って行った。
3・近所に住む男性・栗栖譲治氏の証言
十一月十二日の午後九時半頃、事件現場から走ってきた人を見た。荻原公園に入った。
4・近所に住む女子高生・入橋環奈氏の証言
十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園にいたが、ゾンビなんて見ていない。
5・近所に住む女子高生・入橋杏奈氏の証言
十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園でゾンビを見た。男子トイレに駆け込んだ。
6・近所に住む会社員・竹内アキラ氏の証言
十一月十二日の午後九時半頃、萩原公園のトイレを利用していたが、ゾンビなんて知らない。
7・近所に住む男性・小田修三氏とその息子・一也氏の証言
十一月十二日の午後九時半頃、萩原公園のトイレを利用していたが、ゾンビなんて知らない。
☆
「――以上です」私は説明を終え、雪平警部補を見た。
「アリス巡査」
「はい」
「ゾンビが走る、なんてことがあるんでしょうか? ゾンビはニブちんで、ゆっくり動くことしかできないという印象なんですが」
「映画やゲームなんかでは、走るゾンビは主流になりつつありますね。映画でゾンビが走ったのは、二〇〇二年公開の映画『28日後…』や、二〇〇四年公開の『ドーン・オブ・ザ・デッド』だという話は、以前したと思いますが、ゲームで走るゾンビをメジャーにしたのは、何と言っても、二〇〇八年にリリースされた『レフト4デッド』でしょう。大量のゾンビが津波のように押し寄せてくる衝撃は、今でも忘れられません。これ以降、ゲームの世界でも走るゾンビは定着しました。しかし、その『レフト4デッド』がゲーム初の走るゾンビかと言えば、そうではないんです。実は、ゲーム初の走るゾンビは、はっきりしません。例えば、ゾンビは多くのRPGにも登場します。戦わずに逃げようとしても、回り込まれて逃げることができなかった、というシチュエーションは、誰にでもあるのではないでしょうか? これも、ゾンビが走ったと言えるわけです。ですから――」
「アリス巡査」
「はい」
「現実世界のゾンビが走るかどうかの説明だけ、簡潔にお願いします」
「失礼しました。結論を言うと、ゾンビは走ることはありません。例えウサイン・ボトルやデニス・キットメがゾンビになったとしても、ムリでしょう」
「最初からそういう風に説明できないモノですかね。すぐに余計な話を始めるのは、アリス巡査の悪いクセですよ?」雪平警部補は、自分のことは思いっきり棚に上げて言った。「――しかし、目撃証言には、ゾンビが走ったとあります。これは、どういうことでしょうか?」
「ゾンビが走ることができない以上、走っていたのはゾンビではないと考えるのが妥当でしょう。それは、遺体の傷を見ても明らかです」
「遺体の傷、ですか?」
「はい。遺体には、二十一ヶ所の刺し傷以外はありません。ゾンビは生前習慣にしていた行動を繰り返すことがありますので、場合によっては、ナイフを持って刺すということはあるかもしれません。しかし、死んだ人を食べずに放っておいてその場を去る、というのは、絶対にありません。ゾンビは、生きている人間と、ゾンビになる前の死にたての死体は、必ず食べます。ですから、この事件の犯人はゾンビではなく、生きた人間です。恐らく、犯人はゾンビに変装して殺害に及んだのではないでしょうか?」
「変装? マスクとか、特殊メイクとかですか?」
「そうです。犯人は、被害者を刺したのはゾンビだと思わせることで、罪を逃れようとしているのではないでしょうか?」
「ナルホド。可能性は高そうですね。と、いうことは、犯人は、ゾンビの変装をして水沼久美子氏を殺害し、現場から逃亡。荻原公園のトイレに駆け込み、変装を解いた、ということになりますね?」
「そうなると思います」
「しかし、犯人と思われる人が荻原公園のトイレに逃げ込んだ、という点では、証言に食い違いがあります」
「そうなのです。荻原公園のトイレにゾンビが入ったのを目撃した人がいるのですが、その時間、荻原公園のトイレを利用していた人は、ゾンビなんて知らないと証言しているのです。どちらの証言が正しいのか、判断が難しいです。この辺りが、事件が迷宮入りした主な要因と思われます」
「ふむふむ。概要は分かりました」雪平警部補は顎に手を当てて考えるポーズをする。「アリス巡査。これは恐らく、叙述トリックです」
「はい? 叙述トリックというと、さっき雪平警部補が説明してくれたやつですか?」
「そうです。これら証言に、先入観や思い込みを利用したトリックがあるのです。それを解けば、証言の食い違いも解消されるのではないでしょうか?」
「例えば、どのような点でしょうか?」
「そうですね。まず、あたしが気になったのはこれです」雪平警部補はマジックのフタをキュポンと抜き、1と2の証言に○を付けた。「ホンダ氏という方の証言が二つあります。これは、一見同じ人に見えて、実は別の人じゃないでしょうか? 本田さんと本多さんとかです」
「確かに、その方だけ名前がカタカナなのは、あからさまに怪しいですね」私は手元の資料をめくった。「えーっと、この証言を取ったのは、一課の沢田警部ですね」
「ちょうどいいです。確認してきましょう」
と、いうことなので、私たちは会議室を出て、一課の事務所へ向かった。
「――七年前の女子大生刺殺事件?」
沢田警部は、渡した資料をめんどくさそうにめくりながら言った。
「そうです。十一月十二日午後九時頃、大庭町三丁目の路上で発生した事件です。覚えてますか?」
雪平警部補が訊くと、沢田警部は露骨に不愉快そうな顔をした。この道二十五年と一週間のベテラン刑事には愚問だろう。「もちろん覚えている。だが、俺はすぐに別の事件に回されたから、あまり関わってないぞ?」
沢田警部が不愉快になったのに気付いているのかいないのか、雪平警部補はいつものペースで訊く。「事件現場の近くに住む男性のホンダ氏から目撃証言を取ったのは沢田警部だと、資料にはあります」
「そうだが、それがなんだ?」
「ホンダ氏の証言が二つあり、名前がカタカナなのには、何か意味があるんでしょうか? 例えば、一人の人に見えて、実は本田氏と本多氏という別の人だとか、一人は誉田氏でもう一人はかつお風味のほんだしとか」
「いいや。ホンダ氏は一人だ。証言が二つ別れているのは、その方が分かりやすいと思っただけで、別に深い意味は無い。カタカナで書いたのは、漢字が難しかったからだ。確か、譽夛と書くんだとか」
沢田警部がメモ帳に書いた字を見て、私たちは納得した。もはや日本語なのかどうかも分からないような文字だ。どうやら、ホンダ氏の証言にトリックがあると考えたのは間違いだったようだ。私たちは沢田警部にお礼を言い、一課の事務所を後にした。
「まあ、考えてみれば、仮にホンダ氏が二人だったところで、『事件発生時刻に現場から荻原公園方面へゾンビが走って行った』という証言の内容が変わるわけではありませんからね。叙述トリックは、解くことによって、証言の内容がまるで違う解釈になる、というのでなければ意味がありません」雪平警部補は事件の資料をパラパラとめくる。「そういう意味では、3の証言が怪しいですね」
「3の証言と言うと、『近所に住む男性・栗栖譲治氏の証言』で『十一月十二日の午後九時半頃、事件現場から走ってきた人を見た。荻原公園に入った』というものですね」
「そうです。詳しい捕捉、ありがとうございます」
「この証言の、どこが怪しいのでしょう?」
「栗栖譲治氏というのは、一見日本人に見えますが、実は外国の方なのではないでしょうか?」
「はい? 外国の方、ですか?」
「そうです。例えば、『ジョージ・クリス』という欧米の方が日本に帰化し、名前を漢字に当てて、『栗栖譲治』氏になったのです」
「だとしたら、証言の内容がどう変わりますか?」
「事件当時、ジョージ・クリス氏は日本に来たばかりで、まだうまく言葉を話すことができず、日本語を間違えたのかもしれません。そうなると、この証言の信憑性は低くなります」
「ナルホド。あり得ますね。では、確認してみましょう」
と、いうことで、我々は資料に書かれている栗栖譲治氏の自宅へ向かった。
「七年前の女子大生刺殺事件ですか? ええ、よく覚えてますよ。あの時は確かに、十一月十二日の午後九時半頃、事件現場から走ってきた人が、荻原公園に入ったのを見ました」
いきなり自宅を訪ねたにもかかわらず、栗栖譲治氏はイヤな顔ひとつせず、流ちょうな日本語で答えてくれた。
「……雪平警部補」
「……はい」
「誰がどう見ても、日本人ですね」
「そうですね。誰がどう見ても、日本人です」
残念ながら雪平警部補の推理はハズレだった。栗栖譲治氏は、どこから見ても日本人である。念のために確認してみたが、生まれも育ちも日本だそうである。私たちは栗栖譲治氏にお礼を言い、栗栖家を後にした。
「これはイケると思ったんですけど、違いましたね」雪平警部補は資料をめくる。「次に行きましょう。4と5の証言も、かなり気になりますね」
「4と5は、『近所に住む女子高生・入橋環奈氏』の証言で『十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園にいたが、ゾンビなんて見ていない』と、『近所に住む女子高生・入橋杏奈氏』の証言で『十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園でゾンビを見た。男子トイレに駆け込んだ』ですね」
「はい。この二人、名前からして、姉妹、しかも、双子なのかもしれません」
私は資料に書かれてある二人のデータを見た。「確かに、二人の住所、年齢は同じですね。しかし、双子だと、証言の解釈がどう変わるのでしょうか?」
「双子といえば、何と言っても、入れ替わりトリックです。この場合、環奈氏と杏奈氏は、同じ一人の人なのです。最初に環奈氏が証言し、後から杏奈氏が現れたと見せかけて、実は環奈氏が杏奈氏に成りすましていた。一人で、二つの異なる証言をして、捜査をかく乱しようとしたのではないでしょうか? そうなると、『ゾンビが荻原公園の男子トイレに入った』という証言は、ウソになります。もしかしたら環奈氏は、犯人をかばっているのかもしれません」
「分かりました。調べてみましょう」
と、いうことで、我々は入橋環奈・杏奈氏の自宅へ向かった。
「えー? 七年前の、女子大生刺殺事件? あんまり覚えてないけどぉ、ゾンビなんて見なかったんじゃないかなぁ? 杏奈は、どおぉ?」
「あたしはよく覚えています。十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園で、確かに、男子トイレに駆け込むゾンビを見ました」
環奈ちゃんは今どきのギャル言葉、杏奈ちゃんは対照的なしっかりした口調で答えてくれた。
「……雪平警部補」
「……はい」
「似てないですね」
「はい。似てないです」
そうなのだ。二人は、喋り方だけでなく、見た目も全く似ていない。環奈ちゃんは小柄でぽっちゃり、杏奈ちゃんは背が高くてスレンダー、顔も別人のようである。これでは、入れ替わり用が無いだろう。
「それぇ、よく言われるのぉ。あたしたちぃ、双子なのに、全然似てないって。ね、杏奈?」環奈ちゃんは、杏奈ちゃんを見た。
「そうですね。あたしたちは二卵性で、外見も性格も、全然似ていません」杏奈ちゃんは、落ち着いた口調でそう言った。
私たちは二人にお礼を言い、入橋宅を後にした。
「ま、そうでしょうね。双子であることが事前に示されているのならともかく、トリックを暴く段になって『実は双子でしたー』なんて、禁じ手もいいところです。そんなの、今どき認められませんよ。次に行きましょう」雪平警部補は資料をめくる。「では、6の証言はどうでしょうか?」
「6は、『近所に住む会社員・竹内アキラ氏』の証言で『十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園のトイレを利用していたが、ゾンビなんて知らない』というものです」
「これ、気になったんですけど、他の証言は、『近所に住む男性』とか『近所に住む女子高生』とか、性別がきちんと示されているんですけど、ここだけ、『近所に住む会社員』となって、性別が不明になるんです」
「確かに、そうですね」
「つまり、この竹内アキラ氏というのは、男性ではなく、女性なのではないでしょうか? それなら、トイレでゾンビを見ていないのも納得です。ゾンビが駆け込んだのは男子トイレ、竹内アキラ氏は女子トイレにいたのですから」
「なるほど。アキラという名前は、男性でも女性でもあり得ますからね。では、調べてみましょう」
と、いうことで、私たちは竹内アキラ氏の自宅へ向かった。
「七年前の女子大生刺殺事件ですか? ええ、よく覚えてますよ。あの日は確かに公園のトイレを利用しました。でも私、ゾンビなんて知りませんよ?」
竹内アキラ氏は、淡々とした口調で答えた。
「……雪平警部補」
「……はい」
「どう見ても、男性ですね」
「そうですね。どう見ても、男性です」
そうなのだ。竹内アキラ氏は、誰がどう見ても男性である。念のため触って確認してみたが、確かに男性の感触であった。私たちはお礼とお詫びを言って、竹内宅を後にした。
「……って言うか、触って確認したって、何を触ったんですか。まったく――」雪平警部補は資料をめくる。「次です。7の証言」
「7は『近所に住む男性・小田修三氏とその息子・一也氏』の証言で『十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園のトイレを利用していたが、ゾンビなんて知らない』というものです
「これも、さっきの竹内アキラ氏と同じような考え方ができます」
「しかし、この証言は、男性と息子と明記されてありますよ?」
「そうですね。しかし、年齢は記載されていません。これ、イメージ的に二十代か三十代くらいの父親と、十歳に満たないくらいの息子を思い浮かべますが、実は、父親は八十代か九十代くらい、息子は五十代か六十代くらいではないでしょうか? そうなると、息子が親を介護しており、男子トイレではなく、年配者や障害者用の多目的トイレを使った可能性が考えられます」
「なるほど。それなら、男子トイレに駆け込んだゾンビを見ていなくて当然ですね。調べてみましょう」
と、いうことで、私たちは小田修三氏の自宅へ向かった。
「七年前の女子大生刺殺事件ですか? ええ、よく覚えてますよ。あの日は確かに公園のトイレを利用しました。でも、私たちはゾンビなんて知りません。なあ、一也?」
「うん。ボクもパパと一緒にトイレでおしっこしたけど、ゾンビなんて知らないよ」
小田親子は、ゆっくりとした口調でそう答えた。
「……雪平警部補」
「……はい」
「若いですね」
「はい。若いです」
残念ながら、これもハズレだった。小田親子は、最初にイメージした通りの若い親子。念のため健康保険証で年齢を確認したが、三十七歳と十二歳であった。もちろん、多目的トイレではなく、男子トイレを使用したそうである。私たちはお礼を言って、小田宅を後にした。
「これも違いましたか」雪平警部補は資料をめくるが、他に重要な証言は無い。「うーん、困りましたね」
「全ての証言の検証が終わりました。どうやら、思い違いはなさそうですね」私は雪平警部補に言った。
「しかし、それでは『ゾンビは男子トイレに入った』という証言と『男子トイレでゾンビなんて見ていない』という証言の食い違いの説明がつきません。何か、重要な見落としがあると思うのですが――」雪平警部補はもう一度最初から証言を見て行く。「……あれ? 待ってください」
「どうしました?」
「6と7の証言、ちょっとおかしくないですか?」
「6と7というと、『近所に住む会社員・竹内アキラ氏』の証言で『十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園のトイレを利用していたが、ゾンビなんて知らない』というものと、『近所に住む男性・小田修三氏とその息子・一也氏』の証言で『十一月十二日の午後九時半頃、荻原公園のトイレを利用していたが、ゾンビなんて知らない』ですね? ふたつともさっき検証しましたが、これの、どこがおかしいのでしょう?」
「荻原公園ではありません。萩原公園です」
「……はい?」
「私たちずっと『荻原公園』って言ってましたが、この6と7の証言だけ、『萩原公園』になってるんですよ」
私も資料を確認する。確かに、5の証言までは荻原公園だが、6と7は萩原公園になっている。気が付かなかった。
「なるほど。これなら、証言が食い違うのも納得です」私は頷きながら言った。「ゾンビが逃げ込んだトイレと、竹内氏と小田氏が利用したトイレは、そもそも違う公園だったんですね? 調べてみましょう」
と、いうわけで、私たちは再び竹内氏の自宅を訪ねた。
「いいえ。萩原公園なんて知りません。私が利用したのは、荻原公園のトイレです」
「え? 萩原公園ですか? 私が利用したのは、荻原公園のトイレですが。なあ、一也」
「うん。僕がおしっこをしたのは、荻原公園のトイレだよ」
竹内氏と小田親子に再び話を聞いたが、三人とも萩原公園なんて知らないという答えが返ってきた。
「……雪平警部補」
「……はい」
「これは、単に資料をまとめた人が、漢字を間違えただけではないでしょうか? そもそもこの街に、萩原公園なんてありませんから」
「そうですね。まったく、誰ですか? こんな間違いをしたのは。後で、文句を言ってやりましょう」
私たちはお礼を言い、その場を後にした。
「しかし、人物像と場所の二つに思い違いが無いとすれば――」雪平警部補は資料をめくる。「後、考えられる叙述トリックは、時間です」
「しかし、証言はどれも、『十一月十二日の午後九時半頃』で、統一されてますよ?」
「そこです。この資料には、何月何日何時は書かれてありますが、何年かまでは書かれてないんですよ。ひょっとしたら、6と7の証言は、一年ズレているのではないでしょうか?」
「ここまでの流れから言ってそれも間違っていると思いますが、仕方ないので調べてみましょう」
と、いうことで、私たちは署に戻り、この資料をまとめた特命捜査対策室の刑事の元を訪ねた。
「資料に書かれてある時間? いや、何年かは省略しただけで、全部同じ七年前だよ」
特命捜査対策室の刑事は、忙しげにパソコンのキーボードを叩きながら、短く答えた。
「……雪平警部補」
「……はい」
「やっぱり違いましたね」
「そうですね。あたしも念のために言ってみただけで、ここまでの流れから言って、違うと思ってました」
私たちはお礼を言って、特命捜査対策室を後にした。
雪平警部補は資料をめくる。「人物像、場所、時間、どれも、思い違いはありません。そうなると、残るは、あの、究極の叙述トリックになりますが……」
「究極の叙述トリック? それは、どういうものでしょうか?」
「……アリス巡査」
「はい」
「――えい」
雪平警部補は、いきなり私のほっぺをむぎゅっとつねった。
「……雪平警部補」
「はい」
「痛いです」
「そうですか。と、いうことは、どうやら究極の叙述トリックでもないようです」
「究極の叙述トリックと、私のほっぺをつねるのと、どういう関係があるのでしょうか?」
「究極の叙述トリック、それは、ズバリ、夢オチです」
「……はい? 夢オチ、ですか?」
「そうです。現実だと思ったら夢だった――まさに、叙述トリックの極みです。これを使えば、どんなに不可解で壮大な謎も、一発で説明がついてしまうのです。このトリックを確認するには、古典的な方法ですが、ほっぺをつねるのが一番です」
「そういうのは、自分のほっぺでやってください」
「しかし、困りましたね。夢オチでもないとすると、後は、どんな叙述トリックがあるのでしょうか?」
「雪平警部補。そもそも、この事件に叙述トリックがあると思うことが間違っていたのではないでしょうか? これだけ調べて不自然な点が無いのなら、別のトリックを疑ってみるべきです」
何気なくそう言ってみたが、それを聞いた雪平警部補、はっとした表情になる。
「……アリス巡査」
「はい」
「その発想はありませんでした。すばらしいです」
「え? 何がですか?」
「叙述トリックがあると思わせておいて何も無い――これも、叙述トリックと言えるのではないでしょうか?」
「はい?」
「いや、待ってください。叙述トリックが無いのだから、やっぱり叙述トリックとは言えないのでしょうか? いえ、要は思い込みを利用して騙すのが叙述トリックですから、叙述トリックがあると思わせた時点で、やっぱり叙述トリックですよ。ううん。そもそもトリックが無いのに推理小説と言っていいのかという根本的な問題が――」
急に無限ループにハマってしまった雪平警部補は放っておこう。しかし、困ったな。叙述トリックではないというのは別に構わないのだが、それではこの事件の解決にはつながらない。ゾンビが荻原公園の男子トイレに駆け込んだという人がいる一方で、同時刻に同じ男子トイレを利用していた人は、ゾンビなんて見ていないと言う。これは、一体どういうことなのだろう?
「あら? アリス君じゃない?」
後ろから大人びた声。振り返ると、監察医の緋山瑞姫先生だった。
「緋山先生、ご苦労様です」私は頭を下げた。
「珍しいわね、こんなところで。何か、捜査かしら?」
特命捜査対策室の事務所があるこの建物は、私が所属するゾンビ対策課のある建物とは別だ。だから、普段私がここに来ることはない。
「ええ、ちょっと、困ってまして」
「フフ。あたしでよければ、相談に乗るわよ? 研究室、来る?」
誘うような視線を向けて来る緋山先生。なんとなく危険な臭いを感じるが、緋山先生のアドバイスをいただけるのはありがたい。私は、今だ無限ループから抜け出せない雪平警部補を引きずり、緋山先生の研究室へ向かった。
「――七年前の女子大生刺殺事件? もちろん、知っているわ」
緋山先生はテーブルの上にコーヒーを三つ置き、向かい側のソファ座った。
「はい。これが、事件の資料なんですが」私は資料を渡そうとする。
「大丈夫よ。事件のことは、全部頭に入ってるから」緋山先生は頭を指さし、ニコリと笑った。
「え? でも、七年前、緋山先生は、まだうちの署に赴任して来てませんよね? それなのに、全部知ってるんですか?」
「ええ。赴任したときに、この署に保管されている事件の資料は、全部目を通して覚えたの」
当たり前のように言う緋山先生。いくらうちの警察署の管轄が地方の田舎町とは言え、全ての事件の資料ともなれば、小さな街の図書館に匹敵するほどの量だ。それを全部見て覚えるなんてことができるのだろうか? できるんだろうな、この人なら。
「でも、なんであの事件をアリス君が調べてるの? 別の部署の仕事じゃない」
「そうなんです。本当なら、特命捜査対策室の仕事なんですが、この事件はゾンビが重要参考人となっているので、うちに回って来たんです」
「確かにゾンビが重要参考人だけど、あなたたちは関係ないでしょ?」
「…………」
「…………」
「……え?」
「何が『え?』よ?」
「いえ、ゾンビが重要参考人なんですよね?」
「そうよ」
「でも、私たちには関係ないんですか?」
「そうよ。あなたたちだけじゃなく、あの事件はもう、うちの署でできることはないわ。シリア警察とインターポールに任せておけばいいと思うけど?」
「…………」
「…………」
「……はい?」
「何が『はい?』よ?」
「いえ、シリアって、あのシリアですか?」
「あなたが言ってるのがどのシリアかは分からないけど、まあ、普通シリアって言えば、中東の東地中海に面した国、シリア・アラブ共和国のことね」
「そのシリアが、この事件にどう関係してるんですか?」
「ゾンビはシリアにいるって話じゃなかったかしら? 資料に、そう書いてあるでしょ?」
ゾンビがシリアにいる? 一応資料を確認するが、そんなことはどこにも書かれていない。と、言うか、六年前のアウトブレイクでゾンビが発生したのは、主に日本だけだ。アメリカや韓国など、日本と関係の深い国のごく一部で数人の発症例が見られたものの、世界規模の事件にはなっていない。シリアでゾンビが発生したという話は聞かないし、ゾンビが飛行機を乗り継いでシリアまで行けるとは思えない。
私は雪平警部補と顔を見合わせる。雪平警部補も意味が分からないようで、首をかしげた。
私は緋山先生を見た。「緋山先生、さっきから何を言っているのか分からないのですが、何か、誤解されているのではないですか?」
緋山先生も私を見る。「あなたたちこそ、さっきから何を言ってるか分からないんだけど、何か誤解してるんじゃない? もっと、ちゃんと資料を読みなさい」
いったいなんだと言うのだろう? まったく意味が分からない。資料なら何度も読んだが、緋山先生がそう言うので、私と雪平警部補は、もう一度最初から捜査資料を読んでみることにした。えーっと? 事件が起こったのは七年前の十一月十二日午後九時頃で――。
「ああああぁぁぁぁぁ!!」
突然、雪平警部補が奇声を上げた。
「なんですか? 雪平警部補。刑事ドラマの録画予約を忘れたんですか?」
「違いますよ。謎が解けたんです」
「え? ホントですか?」
「はい。緋山先生の言う通りです。これは、あたしたちゾンビ対策課の事件ではありません。まったく、忙しいのに、こんな事件をうちに回してくるなんて。特命捜査対策室へ行きましょう。文句を言ってやります」
ぷりぷり怒りながら研究室を出て行く雪平警部補。忙しいのにこの事件をやると言ったのは雪平警部補だったような気がするが、まあ、あの人にそんなことは関係ないのだろう。私はとりあえず緋山先生にお礼を言い、雪平警部補の後を追った。