プロローグ
「……なるほど。では、ここまでの話をまとめますと、朝、ご主人が起きてキッチンに来たら、奥さんがゾンビになっていて、襲い掛かって来た。とっさにそばにあった包丁を取り、奥さんの胸を刺したが、ゾンビとなった奥さんはひるむことなく襲って来た。ゾンビは頭を潰さないと死なないことを思い出し、リビングまで逃げ、テーブルの上にあった大理石の灰皿で頭を殴った――ということですね」
私は、ご主人の証言をメモしなが言い、注意深くご主人の表情をうかがった。
「はい。その通りです」
ご主人は肩を落とし、死んだような声で応えた。
私は改めて室内を見回した。早朝、静かな住宅街の一軒家で起こった事件。十二畳ほどの広さのリビングダイニングキッチンの中央に、この家の奥さんが仰向けに倒れていた。ご主人の証言通り、胸には深々と包丁が刺さり、溢れ出した血が胸を染め、フローリングの床にまで広がっていた。壁やテーブルにも飛び散った血の痕がついている。そして、奥さんの頭は潰されており、その横には、べっとりと血が付いた直径二十センチほどの大きな大理石の灰皿が転がっていた。一応、ご主人の証言通りではある。
「……あの、相手がゾンビだった場合は、殺しても罪にはならないんですよね?」ご主人が、恐る恐るという感じで訊いてきた。
「そうですね。五年前の『ゾンビ法』の施行により、ゾンビ化した人を殺しても、罪に問われることはありません」
私がそう言うと、ご主人は大きく息を吐き出し、安堵の表情を浮かべた。
「ですが――」と、私は続ける。「生きている人間を殺した場合は罪に問われます。まあ、当たり前の話ですけどね」
ご主人の表情が変わった。睨みつけるような目を向ける。「……どういうことでしょう? 私が、ゾンビではなく、生きている家内を、包丁で刺して殺した、とでもいうのですか?」
「ええ、その通りです」
「バカな。いったい、何を証拠に」ご主人は、証拠があるなら見せてみろ、と言わんばかりに両手を広げた。
私はリビング倒れている奥さんのそばに移動した。「残念ながら、現場の状況が、奥さんは生きている状態で刺されたことを物語っています」
「だから、一体何を証拠に!?」
「証拠は、血の痕ですよ」
「血の……痕……? それが、一体なんだって言うんだ」ご主人は、だんだんおびえた表情になる。
「見てください。奥さんの胸から溢れ出した血が、床にまで広がり、壁や、テーブルの上まで飛び散っています」
「あ……当たり前じゃないか。包丁で、胸を刺したんだから」
「いいえ。それは、あり得ないんですよ。ゾンビを刺しても、こんなに血が溢れることはありません。なぜなら、ゾンビは死んでいるんですから」
「――――」
言葉を失うご主人。その顔色が、みるみる青ざめていく。まるで死人のようだ。自分の犯してしまったミスに、ようやく気付いたようである。
私はその姿をドヤ顔で見つめ、ゆっくりと続けた。「人を刺して血が床に広がったり、飛沫が壁に飛び散るほど吹き出すのは、心臓が動いていたという何よりの証拠です。ゾンビを刺したのなら、こうなることはあり得ません。何故なら、ゾンビは死んでいる――心臓が止まっているんですから」
私の話を聞いたご主人は、ワナワナと震えだす。何か言い返す言葉を探しているような表情。だが、言うべき言葉を見つけられなかったのか、その場にガックリと崩れ落ちた。
「あなたは生きている奥さんを包丁で刺して殺し、その後、殺したのは奥さんではなくゾンビだったと擬装するため、頭を潰した。そういうことでよろしいですね?」私はなるべく優しい口調で言った。
ばっ! と顔を上げるご主人。「お……俺は悪くない。悪いのはコイツだ! 俺を捨てて、別の男と一緒になるなんて言うから――」
「動機は、痴情のもつれですか。まあ、詳しい話は署で聞きましょう」私はご主人に手錠をかけ、立たせると、そばにいた制服警官に引き渡した。「では、お願いします」
ご主人は恨めしそうな目で奥さんの死体を見つめる。やがて、警官に促され、部屋の外に出た。その姿を見送りながら、私は心の中で『聖母たちのララバイ』を歌った。
「――おう、お疲れさん」
犯行現場を後にし、家の外に出ると、覆面パトカーのそばに立っていた大柄な刑事が、缶コーヒーを投げてくれた。私はそれをキャッチすると、「いただきます」と笑顔で応え、フタを開けて一気に飲み干した。ああ、事件解決後の一杯は美味い。
大柄な刑事は自分も缶コーヒーを取り出した。「しかし、犯人が無知で助かったな。ゾンビは刺してもあまり血が出ない、なんて、ゾンビ対策課じゃない俺でも知ってるぜ」
「そうですね。毎回こんな簡単な事件なら、私も助かるんですけどね。私はどちらかと言えば、身体を使った捜査の方が得意ですから」
私がそう言うと、大柄な刑事は小さく笑った。
『ゾンビ対策課』とは、五年前に新設された警察組織で、その名の通り、ゾンビに関する事件を扱う部署である。
六年前、未知のウィルスの蔓延により、日本中で死者がよみがえり始めた。『アウトブレイク』と呼ばれている。よみがえった死者は生きている人間を襲い、そして、食べた。それは、映画やゲームなどに登場する動く死体・ゾンビそのものだった。
ゾンビに咬まれた人もゾンビとなり、日本中に、ゾンビが溢れるようになった。やがて、アウトブレイクは世界中に広がり、文明は崩壊、人類は滅びの一途をたどり――は、しなかった。
アウトブレイクに対し、意外にも日本政府の対応は早く、的確だった。ゾンビ化の原因が判明するより前に、ウィルスによる感染症の一種ではないかと疑い、全国の空港や港を封鎖。これにより、世界中にアウトブレイクが広がることは避けられた。また、研究が進み、ゾンビのことがある程度分かって来ると、国は、ゾンビに対応するための法律を施行。『ゾンビを見かけたら速やかに対応する機関に届け出る』、『ゾンビを殺しても罪には問われない』、『死亡した人はすみやかに頭を潰すか首を斬り落とす』、などを義務づけた。さらに、『ゾンビ災害対応マニュアル』なるものを作成。テレビやインターネット、各自治体での講習会などを通じ、『ゾンビ撲滅キャンペーン』実施。日本中で、ゾンビ及びウィルスの駆除を徹底的に行った。これらの対応により、アウトブレイク発生直後に全国で五千人を超える被害者を出した惨事となったものの、映画のような終末世界になることは避けられた。ゾンビの駆除は今も続いており、十年後には、ゾンビもウィルスも撲滅できる見通しである。
しかし、問題も多く残った。そのひとつが、ゾンビに関する事件の多発である。ゾンビ法の施行で、一般人もゾンビを駆除することが許可されたが、これにより、ゾンビ駆除と見せかけた殺人事件が多発したのである。
この問題に対応するために各地の警察署に設けられたのが、私、有栖浩一、二十七歳独身彼女募集中も所属する、『ゾンビ対策課』である。
「――しかし、この程度の事件なら、わざわざゾンビ対策課に来てもらうことも無かったな。人手不足なのに、悪かったな」大柄な刑事は小さく笑った。
「いえ、いいんですよ」と、私は応えた。
この大柄な刑事は、捜査一課の沢田警部だ。この道二十五年のベテランである。
沢田警部の言う通り、現在ゾンビ対策課はかなりの人手不足である。しかしそれは、ゾンビに関する事件が増加傾向にあるというわけではない。政府の対策により、ここ一年ほどゾンビの数は激減し、都市部ではほぼ絶滅したと言われている。それに伴い、ゾンビ対策課は経費削減の名のもとに縮小されつつあるのだ。特に地方の警察署でその動きが顕著で、署によってはゾンビ対策課自体が無くなったところもある。私が所属している警察署もかなりの田舎街にあり、ゾンビ対策課には、私を含めて現在四人しかいない。しかし、ゾンビの数が激減しているとは言っても、それは都市部が中心の話であり、この街のような地方の田舎街は、あまり駆除が進んでいない。ゾンビ対策課が縮小されるのは仕方がないが、どうしてゾンビがほぼ全滅した都市部ではなく、ゾンビが減っていない地方から人員削減を進めるのか。国のやることはよく分からない。
缶コーヒーを一気に飲み干す沢田警部。「――そう言えば、今日から新しいヤツがゾンビ対策課に配属になるんじゃないのか?」
「ええ、そうなんですよ。ずっと人手不足でしたから、ありがたいことです」
「どんなヤツだ?」
「私もまだ詳しくは聞いてないですが、確か、警視庁の捜査一課に所属していた、二十五歳の女性警部補だそうです」
「ふん、キャリア組かよ」沢田警部は忌々しそうな顔で言った。いわゆる叩き上げである沢田警部は、キャリア組のことを異常に嫌っている。
キャリア組とは、国家公務員総合職試験というものに合格して警察官になった人のことで、簡単に言うと、警察のエリートだ。警察官には階級があり、通常は巡査から始まる。その後、巡査部長、警部補、警部、と昇進していくのだが、キャリア組は、いきなり警部補から始まるのだ。その後の出世スピードも大きく異なり、上位階級である警視総監や警視監になることができるのはキャリア組だけなのだ。ちなみに私の階級は巡査で、いわゆるノンキャリアというヤツである。
「しかし、そんなヤツが、なんでこんな田舎の所轄に配属になったんだ? そいつ、なにやらかしたんだ?」沢田警部は言った。確かに、キャリア組の人が、縮小傾向にある地方の警察署のゾンビ対策課に転属になるなんて、左遷以外の何物でもない。
「さあ? 私もまだ詳しくは聞いてないですから」
「出世コースから外されたキャリアは厄介だぞ? あいつらは現場を知らないくせに、階級とプライドだけはムダに高いからな。そんなヤツと一緒に仕事をさせられるなんて、迷惑な話だ」
「そう言わないでください。どんな人でも、人手不足のゾンビ対策課には、ありがたいんですから」
そうは言いつつも、私もちょっと心配になってきた。キャリアでありながら二十五歳で出世コースから外されるなんて、よっぽど無能な人に違いない。それでも、階級は高いから私の上司になり、現場で指揮することもあるわけだ。面倒なことにならなければいいけど。
覆面パトカーの無線が鳴った。沢田警部が出る。「はい、沢田」
《大伊地羽村二丁目の西田宅にて、西田新次郎氏が死んでいるとの通報がありました。ただちに向かってください》
「了解。今日は忙しいな」沢田警部は無線を切り、私の方を見た。「ここはもう大丈夫だから俺は次の現場に行くが、お前はどうする? ゾンビが関係してるかはまだ分からんが、特に用事が無いなら、念のため来てくれると助かるんだが」
「分かりました」
私は沢田警部の覆面パトカーに乗り込み、現場に向かった。