淡黄色の蝶 1
第一話 淡黄色の蝶
蝶を探す女の子とフィオは出あう。
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春の陽光を背に受けて、ドアに手をかけながら、サフィー・スターレットは微笑んで言った。
「それじゃ、私は仕事で留守にするけど、お店の番、よろしくね。フィオちゃん」
「はい! 行ってらっしゃいです、サフィーさん」
フィオが応えて手をふると、「行ってきます」と言う言葉とともに、サフィーは出ていった。残ったのはフィオ一人。窓に何枚もはめられたステンドグラスを光が透過して、お店のなかを照らした。天井では、心もとないほどに薄ぼんやりとした白熱灯がついているだけだった。
「さて、と」
とつぶやいて、フィオはカウンターに座った。いつもはサフィーがいる場所だ。お店の右隅に位置し、お店全体を見渡せる。もっとも、あまり大きくないこのお店だと、どこからでも見られるのだが。
壁沿いにはガラス製の小物がずらりと並ぶ。すべてがサフィーの作品で、彼女はこの街でも名が通るガラス細工職人だ。色とりどりのガラスを使った作風が特長で、光を当てると表情が変わる、と言われる。観光客にも人気で、特に夏になるとよく売れるようになる。
けれど、今の時期はあまりお客さんが来ない。澄んだ瑠璃色の海くらいしかよく知られた観光名所がないから、春は静かになる。
「たまにしか座れないからね」
回転する椅子はふかふかとしていて、包まれるようなやわらかさだ。カウンターテーブルは木目模様で、表面はつるりと滑らか。ひんやりとしていて気持ちが良かった。
「今日は練習もできないし、何をするかなあ」
気を抜くとあくびが出てしまいそうになる。危うくそれをのみ込むと、フィオは手提げから本を取り出し、ぱらぱらとめくった。
ブックマーカーのはさまれたページをさがし出し、読み進める。形の悪いこのブックマーカーはフィオが初めて作ったガラス細工だった。薄い黄色のガラスで、鳥の形をしている。見るだけで、つたなさが恥ずかしいけれど、捨てるのも惜しいのでこうして使っていた。
数行に目を通し、やがて意識がぼんやりとしはじめた。春の暖かさがお店を包み、眠気を誘う。
いつの間にか、フィオは眠りに落ちていた……。
はっと目を覚ますと、時計の針は午後三時を指していた。日が低くなってきたのか、お店の奥まで光が届いている。
「こんなに寝てしまった」
お昼ご飯すら食べていない! ――フィオはあわてて、お店のなかを見回す。変わらずお客さんの姿はなく、サフィーもまだ帰ってきていないようだった。
ひとまず、落ち着くために息をはいた。
大きく背伸びをして仰け反った。床をけって、回転椅子をくるくると回す。ボブカットの茶色い髪が、さらりとなびく。耳元ではぴょんと寝ぐせがついていた。それを手で押さえながら、ぼうと店内を見た。
「ひまですねえ」
何か起こらないものかな――と何の気なしに、入り口の方を見やった。そこにもステンドグラスがはまっていて、このお店のトレードマークとなっている。近くにある灯台のある丘をモチーフにしたそうだ。微妙に色合いが異なる青いガラスをいくつも折り重ね、そこから見えるおだやかな海を表現している。これもサフィーの作品だった。
……と、彼女の目は、その向こうで何か小さいかげが、ちらちらとはねているのをとらえた。
「誰かいるのかな?」
と言って立ち上がり、ドアをひらいた。ためらいと不安と期待とが混ざりあった気持ちを抱いて。かしゅんとドアにつけられたベルが鳴って、春のやさしい光がじかに届いた。
同時に聞こえてきたのは、
「きゃっ」
と言う、短く華奢な声。フィオが外に出て見ると、ドアのすぐ横で、女の子が立っていた。驚いたふうに目と口とをひらいている。
ふわっとした茶髪交じりの黒髪を二つにしばった、真っ白な肌の少女。十二歳ほどの、初めてあう子だった。
「驚かせちゃったなら、ごめんなさい」
あたふたとして、フィオは頭を下げた。
「いっ、いえ、こちらの方こそ。ぼやっと立っていたのがいけないんです」
と、とまどったように少女は手をふった。その勢いで、よく手入れされた髪の束がさらっと宙をまう。ぎこちない笑みを浮かべていた。
「春ですからね。ぼうっとしたい気持ち、わかります」
「そうですね。……寝ていたのですか? 髪に、寝ぐせがついてますよ」
フィオは少し後悔した。眠るのは好きだが、寝起きのままで人にあうんじゃなかった――と反省した。頬がちょっと紅くなったのは自分でもわかった。
「お恥ずかしいです」
はは、とフィオははにかんだ。つられて女の子も笑った。
「ところで、ここで何をしてたんですか?」
「公園に向かう途中で、これを見つけて」
「きれいですよね、このステンドグラス。実は私の先生の作品なんです」
「先生、ですか?」
女の子は首をかしげて尋ねる。このお店が何か、まだわかっていないようだった。
「ここはガラス細工の工房なんです。ここの店長でもある先生のもとで、私は修行しています」
「これがガラス細工なんですか、すごいです。修行って大変なんですか?」
「まあ、大変ですが、楽しいです。日々精進していますよ」
「へえぇ」
瞳はきらきらとフィオを見つめていた。憧れにも似たかがやきが宿っていた。
「サフィーさんって、知ってますか?」
女の子はあごに指を当てて、心当たりを探った。けれど、思い当たらなかったのか、ふるふると首をふり、「ごめんなさい。知りません」と答えた。
「今日はいらっしゃらないんですね」
「今日は用事があって、お出かけになっているんです」
「一目おあいしたかったです」
「いつかあえるよ」
にこりとフィオは笑った。……と、かたりと言う音が聞こえた。あらためてフィオが少女を見ると、背に何かを見つけた。
「あら、それは何かな?」
少女は背の方を見やって、
「ああ、これは虫取りあみです」
「そう言えば、公園に行く途中だって言ってたね。何かつかまえに行くの?」
「はい。ちょうちょをつかまえに行くんです」
「蝶々、か」
「絶対に、つかまえないといけないんです」
ぐっ、と腕を引いて、意志を表した。いったい、どうして蝶々を探しているのだろう? ――とフィオは疑問に思った。しかも、こんな時間に。
放っておくこともできまい。
「なら、私も手伝おうか?」
少女は目をひらいて、瞳をきらめかせた。そのあと、少し申し訳なさそうに目を伏せた。その表情をフィオは見逃せなかった。
「いや、かな?」
「い、いえ、そんなことは……」
「そう……?」
「はいっ」
ぺこりと女の子は頭を下げて言った。
「よろしくお願いします」
その姿を見て、フィオはふふっと笑った。どうやら、考えすぎたかな――とこぢんまりとした少女を見つめて思った。
けれど、やはり顔を上げたのちの表情は、どこか浮かないようすだった。
「ちょっとまっててね」
と言って、フィオはお店のなかに入っていき、数秒で戻ってきた。手には手提げと、「CLOSED」と書かれたプレートを持っていた。黄色い花柄の袋から、紙とペンを取り出して、サフィーに書き置きを残す。
『ちょうちょを探しにいっています。 フィオ・ミルワード』
さらさらとかわいらしく読みやすい字を記した。それを横でのぞきながら、女の子は、
「フィオさんと言うんですね」
「ええ。そう言えば、自己紹介がまだだったね」
背をただして、こほんと咳ばらいを一つ。
「私は、この工房でガラス細工職人になるために修行をしてる、フィオ・ミルワードです。よろしくね」
「よろしくお願いします。わたしはアイリと言います」
「アイリちゃんだね。それじゃ――」
ぱちんとフィオは手を打った。
「――行こうか。あ、ちょっと私のお家に寄ってもいいかな?」
「フィオさんのお家ってどこにあるんですか?」
「すぐそこなんだー」
アイリがこくりとうなずいたのを見て、フィオはプレートと紙をドアに立てかけた。