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「〝狗神〟は古来より日本に根付いた憑物の一種や。一口に憑物ゆうても種類は豊富で、一番有名な狐の他にも、狸、猫、蛇、空想上の生き物ではトウビョウ、オゲドウサンとか、とにかく数が多い。犬の憑物である狗神はかなりメジャーな方やろな」
俺は大学の教員棟二階にある白鷺先生の研究室を訪れていた。室内にはいつも煙草と珈琲の香りが漂っており、部屋の両脇を占める本棚には異常な量の書物がぎっしり詰まっているせいで少し埃っぽくかび臭い。
奥の机にでんと長い脚を組んでのせ、くわえ煙草で書類に目を通しながら狗神のなんたるかについてご教示してくれているのが、この部屋の主――鷺乃宮白鷺先生だった。推定年齢二十代後半。大学で教鞭を取っている大人にあるまじき行儀の悪さを差し引いても、かなり異様な雰囲気の漂う女性である。
まず目を奪うのが光に透けて輝く白銀色の長い髪だ。どこの国の人間ですかと疑いたくなるが、染めてるわけではないらしい。着ている服もすごい。暗めのワインレッドのトップスは胸を強調するぴったりとしたデザインで、下は同色のミニに網タイツとハイヒール。……凄まじく大胆な服装だが、これでやっと全体の調和が取れているらしく、この人が着るとそれほどエロい感じがしないから不思議だ。コテコテの関西弁と男勝りの性格さえなければめちゃくちゃ美人なのに、すっげー損してるといつも思う。
「分布は西日本の各地――特に九州、四国と中国地方に多くみられ、古い村落の一部では現代でも憑物が信じられとるらしいわ。……五年くらい前やったかなあ、いっぺんフィールドワークでその辺の村を訪ね歩いたことがあるんやけど、あかんかった。詳しい話を聞こうにもだーれも教えてくれへんどころか、最後には村人全員から殺されかねん勢いやったから慌てて逃げ出したわ。いやーまさか鎌もって追いかけられるとは思わんかったなあ」
ガハハ、と快活な笑い声をあげる。いや……それ笑うところなのだろうか。まあ無事だったようで何よりだが。
白鷺先生は俺のゼミの担任であり、専門の民俗学的観点から〝D〟について様々の助言をくれるもう一人のアドバイザーでもある。ちなみに報酬は普通に研究所から謝礼という形で出ているらしく、見鬼みたく俺との逢瀬を条件にしているわけではない。俺としては見鬼よりも先生に愛されたいのだけど、人生なかなかうまくいかないものである。
「狗神は個人というよりもその家筋に憑くものであって、家の人間は狗神筋とか狗神持ちとか呼ばれとる。狗神筋の者が他人を羨んだりあるいは憎んだ場合、狗神が対象に取り憑いて色々と悪さするんや。祟られた者が平伏し、富を差し出すまで祟りはやまへん。狗神筋の家は土地一番の素封家であることが多いんやけど、周りからの貢ぎ物によって栄えた部分が大きいと思うで。一度狗神筋の手に渡ったもんは穢れが憑いとるから返せとも言われへんしな。ゆえに狗神筋は疎まれ、村社会の中で孤立した存在やった。実際、四国の一部地域では婚姻の際に必ず相手の血筋を詳しく調べ上げて狗神筋ではないことを証明せんとあかんかったほどや。それが人間同士のルールとしてまかり通るほどに恐れられとったんやな」
そこまで一気に喋くった後、白鷺先生は書類を置いて手元のカップに口をつけた。が、空っぽだったのか、不機嫌そうに眉をしかめてこちらにカップを突き出してきた。
「風間、コーヒーおかわりや」
研究室の奥にはポットと各種お茶類が置いてあって、ゼミ生はそれを飲みながら研究発表したり先生の講義や解説を聞いたりするのだ。俺は従順な下僕さながらに先生のおかわりと自分の分の珈琲を用意し始めた。
「砂糖は二つな。ミルクは入れたらあかんで? 黒いんは黒いまま、白いんは白いまま飲むのがええんや」
もう何度もお茶くみさせられるたびに聞かされた先生の独自理論である。黒い飲み物に白い角砂糖をぶちこむのはありなんですか? と以前質問したらハリセンでどつかれたのだが、いまだに理由はわからない。雰囲気壊すなってことだろうか。
湯気のたつカップを手渡すと先生はにっこり笑いながら受け取った。……ううむ、笑うとすげー若くて可愛らしく見えるんだよな、この人。
「ところで――平安時代よりも前に中国から伝来した呪いの一種に蠱毒ちゅうのがあるんや。毒虫や動物を使役して呪いを送る強力な呪術なんやけど、その術者の子孫が狗神筋のルーツと言われとる。狗神の作り方ちゅうのがあってな。生きた犬の頭部だけを出して地中に埋め、動けなくした顔の前に水や食べ物を置いておくんや。何日もそうして飢餓と憎悪を限界まで高めたところで犬の首を刎ね、その首を焼いて骨にしたんを匣や壺に入れとくと、その中に狗神が生まれるんやと。匣を開けても良いのは狗神筋の人間だけで、他の者が開いたり中を覗くだけで呪い殺されると言われとる。昔はこんな残酷な方法を使って狗神を人の手で作り出したんや」
気分の悪い話だった。俺けっこう犬好きなのに……。
「先週あんたと紗羅ちゃんが捕まえた男な、ちょっと前に広島の方へ出張してたらしい。たぶんその時に憑いたんやろって思うわ。狗神筋の家か、供養のために作られた犬塚の近くを通りかかったんかもな。わざわざ出張でちょっと来ただけの人間を狙って祟るはずないし、たぶん運が悪かったんやろ」
先生もまた見鬼と同じ見解のようだった。方向性の違う二人が同じ結論に達したのであれば信頼度は抜群ってわけだ。
しかし運ね……まったく、他人事じゃないだけにやるせない。先生はわざとその点についてはあまり触れずに話を続けた。たぶん俺のことを気遣ってくれているのだろう。
「狗神に限らず憑物の〝D〟はかなり多くて、憑かれるとある日突然狂ったように暴れ出して手がつけられんようになる。病院でも原因がわからず研究所で調べたら〝D〟の陽性反応が出たっちゅうのが多いな。こいつらは異常患部に代表される肉体的な変貌は少ないけど、精神と人格に重大な障害を負うケースがほとんどや。これからも頻繁に現れるタイプやと思うし憶えとくとええ」
そう結んで白鷺先生は新しい煙草に火をつけた。
タイミングを見計らって俺は質問を投げた。
「憑物って祓うってよく聞きますけど。あれ、落とすだっけ? そこらへんどうなんですか?」
「無理やな。研究所ではこれまで色んな方法を試してるんや。それこそ祈祷師と呼ばれる霊能力者を集めてお祓いさせてみたりとかな。結果は全部失敗や。どんな方法を使っても〝D〟を完全に追い出すことはできんかった」
ふむ。まあ研究は日夜続いているし、新しい発見や治療法が見つかることを期待しておくとしよう。
「先生、別件でもう一つ教えて欲しいんですけど。市内に鎧武者の幽霊が出るって噂があって、そいつの祟りでうちの生徒が切腹自殺したって話、知ってますか?」
「あん? 切腹自殺て……ああ、そんな話もあったな。でも鎧武者の幽霊てどういうことや?」
教職員だから生徒の自殺事件については知っていても、やはり鎧武者の噂は知らなかったらしい。その確認がとれたところで、続けて見鬼と末原から聞いた話をかいつまんで説明した。
「鎧……鎧か……」
話を聞き終わると先生は考えこむように顎に手を当てて机の一点を見つめた。
「そうや――〝鎧神〟」
急に立ち上がって本棚の前に移動すると、ずらりと並んだ蔵書の背表紙を目で追って指さし確認しながら一冊を取り出し、パラパラとめくり始める。
「あった、これや。各地方の伝承やら言い伝えをまとめた小さな雑誌なんやけどな。――『鎧神、あるいは鎧霊、神鎧ともいふ。神霊宿りし具足の年月を経て現る。人に憑きこれをよく守るが害悪なすことあり』やて」
すらすらと読み上げた後に本を元の場所に戻し、伸びをしながら自席に帰っていく。
「今の下りから〝付喪神〟の一種やてわかるな。昔から年月を経た物には神様がおるから物を粗末に扱ったらあかんて言うやろ? それが付喪神や。鎧神はその中でもちょっと霊格が高いちゅうか、鎧は武士社会の中では刀と同じくらい大切なものやったからやろな」
「刀はわかるんですけど、鎧ってそんな大切なものだったんですか?」
「戦場では相手の命を奪って自分は生き残らんとあかんかった。殺すための刀が特別なら、生きるための鎧が特別じゃないって理屈があるかいな」
納得。神剣とか聖剣とかにばっかり意識がいっていたのはゲームとか漫画の影響だろう。現実には先生の言う通り攻めと守りはどちらもなくてはならないもので、鎧にだって神鎧や聖鎧があって当然だ。むしろ生き残るという意味では鎧の方が重要だったわけか。
「たとえば信玄公で有名な武田家の家宝は御旗と楯無や。御旗は現存する最古の日の丸旗のこと。そして楯無は『この鎧に勝る盾無し』と言われるほどに見事な小桜葦威や。他にも昔から端午の節句には鎧兜とか武者人形を飾る習慣があるやろ。あれには男の子が健康に育ち身を守るようにちゅう願いが込められとる。命を守るという今も昔も変わらん人々の願いによって、鎧は一種の神聖性を獲得したんや」
話を聞きながら思わず感心してしまう。白鷺先生の知識量に圧倒されるのはいつものことだが、その弁舌はいつも以上に冴え渡っていた。
「その幽霊の噂話がほんまに〝D〟かはまだわからんけど、もしそうやったら気を付けた方がええで。古来より人々に護身を願われて神格化した存在やからな。不死ゆうたら大袈裟かもしらんけど、それに近い能力があってもおかしない」
ただでさえ〝D〟に感染した人間は異常なほどに打たれ強い。この前の狗神に憑依された男のように、生半可な傷はたちどころに再生する怪物じみた身体再生能力を発揮するのだ。そこに〝D〟由来の不死性まで加わったらどうなるか。……絶対に相手はしたくないな。
「〝D〟は感染者の潜在的な欲望や願いをより強く具現化させるやろ。元々の波長が合えば取り憑きやすくもなるし、そういう場合は特に欲望一直線になりやすいんや。まだ〝D〟と決まったわけやあらへんし目的もよくわからんけど、充分注意するんやな」