3-2
口に含んだ茶をふき出しそうになった。というか、ちょっとふいた。
「わッ!? 汚いですよ、もお!」
かろうじて口の端に伝っただけで済んだお茶を手で拭って、俺は驚きの目を末原に向ける。
「それってまさか、鎧武者の質問にYESと答えると斬り殺されるってやつか?」
「それそれ。なーんだ、先輩も知ってたのですか」
末原は少し残念そうに口を尖らせた。自他共に認めるところの情報弱者である俺に今話題の噂話をさも面白可笑しく話してやろうって魂胆だったのだろう。
「知り合いからちょっと聞いただけだ。そこのビルで出たってのは初めて聞いたけど」
「じゃあ教えてあげます。先週の話らしいのですけど、部活で遅くまで残ってたうちの学生たちが見たらしいのです」
末原はプリンをスプーンですくって口に運びながら話を続ける。
「彼らは三人で夜九時くらいに学校を出て、近道するためにその廃ビルの前を通ったらしいのです。その時、敷地からがしゃん、がしゃんっていう足音が聞こえてきた。彼らが不審に思って壁の切れ目になってる正門跡から敷地の中を覗きこんでみると、そこにいたのですって。月明かりに鈍く光る鎧を全身に着こんだ武者が、抜き身の刀を構えて……」
そこで末原は脅かすように身を乗り出してきたが、俺はまったくの無反応だった。
あほらし。こいつの精神年齢が激低いのは前からわかっていたが、こんな噂話を真に受けるほどとは思わなかった。見鬼以下だね、間違いなく。
「あ、興味なさそーな顔してますね。ここからがいいとこなのに!」
「いいとこも悪いとこもないって。まったく興味ねーもんよ」
「とにかく聞いてくださいよ。それでですね……その鎧武者が近づいてきて、三人に向かって『うぬらはもののふか?』って訊ねたらしいのです。そして――」
「NOって答えたら、鎧武者はすーっと跡形もなく消え去ってしまったのでした。まる」
揶揄をこめて話を先回りしてまとめると、末原はぶんぶんとかぶりを振った。
「ちがいますよ。彼らはラグビー部の選手で、最初はちょっと怖かったけど仲間もいるしなんとかなるだろうって思ったらしくて、YESと答えたのです」
……え?
俺はまじまじと末原を見返した。
「どうかしましたか? 興味ないって言ってたくせに、やっぱり気になるんですかあ?」
「いや、俺が聞いた話とちょっと違うなって思っただけだ。……で、どうなったんだ?」
「え~? 知りたい? 知りたいのですかあ? どうしよっかなあ? 教えてあげてもいいですけどお、あたしなんだかしゃべり疲れちゃったかもお?」
うっわ、超うっぜええええええぇぇぇッ!!
ここまで聞いてしまったからには続きが気になるだろうが!
もはや意地でも聞き出さないと気が済まなかった。
「末原、俺の右手に取り憑いた悪魔がおまえをぶん殴る前に、素直に話した方がよいと思うぞ?」
「先輩が邪気眼発動!? ぼ、暴力反対ですよ! ただしベッドの中以外っ!!」
「そんな趣味がっ!?」
ハッ。ついつっこんでしまった。スルーすらさせない末原のボケ能力、恐るべし。
俺の方はべつに冗談になってないんだが、こいつは知らないことなので勘違いさせておくことにした。
「先輩がさっきの態度を改めて、ちゃーんとお願いしてくれたらいいですよ?」
「ぐっ……!!」
すごくイラッとするが、俺は大人なのでここは折れてやった。
「悪かった。俺が全面的にまちがってた。幽霊話って最高だよな。だから話の続きを聞かせてくださいお願いします」
素直に頭を下げると、末原は目をパチクリさせて小首をかしげた。
「どうしたんですか急に? やっぱり縞パンを見せてほしくて素直になったフリをしてるんですか?」
「そこまで話が戻るんだ!?」
「先輩にならいつでも見せてあげますから、そんなに卑屈にならなくてもいいのに……。こんなみじめな先輩の姿だけは見たくなかったです。うっ……」
目許に手を当てて泣いたフリとか超うぜえ……。もういいかげん殴っていいか、こいつ? と俺の堪忍袋がバースト寸前になって、末原はけろっとした様子で続きを話し始めた。
「えーと、それで……仮に三人の学生をAさん、Bさん、Cさんとしますね。最初にAさんが面白がって『おう、俺はもののふだぜ! かかってこいよ!』って具合に返事をしたそうなんです。BさんとCさんはにやけながら見守っていた。そしたら――」
末原は俺の顔をじっと見つめ、充分に間をおいてから口を開いた。
「鎧武者が――笑ったそうです」
「笑った……?」
「げらげらって声をあげて笑うんじゃなくて――ほら、鎧武者って目の部分だけ出てる仮面みたいの顔に付けてるじゃないですか。面頬っていうんでしたっけ? あの口の形が、三日月みたいな形に歪んでニヤーって笑ったんですって」
「面頬って……形が変わるはずがないと思うんだが」
空気取りと会話のために鼻と口に穴が空いてるのはわかるが、表情が変わるなんてありえない。戦闘のための鎧にそんな精巧な細工は必要ないはずだ。
「だから怖いんじゃないですか。まるで鎧が生きてるみたいで」
「…………」
その言葉は、これまでの話の中で一番不気味に感じられた。幽霊なんてのは死んでるから幽霊なわけで、鎧だろうとなんだろうと生きているわけがないのに。
「Aさんたちはびっくりしてみんな動けなくなったそうです。そして、立ち竦んでいるAさんに鎧武者が近づいてきて、手に持った真剣を大きく振り上げ――振り下ろした」
Aはとっさに逃げようとしたらしく、ギリギリ刀は当たらなかったという。三人はそれで正気に返り、悲鳴をあげて逃げ出した……そして。
「後ろを振り返らずに全力で逃げて、駅までたどり着いてやっと足を止めたのですって。辺りはまだ人通りもあったし、鎧武者もそこまでは追ってこなかったみたいです。結局、その日は全員無事だったのですけど、まだ続きがあって……」
と末原はコーヒーに口をつけ、一息おいてからこう続けた。
「レジデンスパークって知ってます? 駅の反対側にある大きめの賃貸マンションです。Aさんはそこに一人暮らししていたのですけど」
「おい、なんでいきなり具体的な建物名が出てくるんだよ?」
「だって全部本当の話ですもん。そのAさん……死んじゃったんですから」
は……?
今度こそ俺は目を見開いた。噂の幽霊話が急に現実の事件になるとは思いもしなかったのだ。
「Aさん自殺しちゃったのですよ。次の日の夜に、包丁で自分のおなかを真一文字に切り裂いて、その後に喉をついたのだそうです。悲鳴を聞きつけて隣の部屋の人が通報したんですけど、警察が駆けつけた時にはもう意識不明で手遅れな状態になってて、そのまま……」
「そんな自殺があるかよ! それじゃまるで――」
まるで、切腹だ。
腹を切ったところで人間は即死することはできない。想像したくないが、いくら深く切ったとしても、気が狂うほどの痛みを味わってから徐々に出血多量で死んでいくことになるだろう。後から喉をついたというのは死を早く迎えるための介錯にあたることからも、それなら最初からそうすべきであり、あえて先に腹を切る理由なんてあるはずがない。
「ですよね。だからこれは鎧武者の祟りだって言われてるのですよ」
祟り、という言葉にギクリとしたものを感じて、俺は慌ててかぶりを振った。思わず自分の右手に目を落とす。
末原は勘違いしたのか不満げに唇を尖らせた。
「だって普通の自殺とは考えられないじゃないですか。方法もそうですけど、警察が駆けつけた時、部屋には鍵がかかっていて中にはAさんしかいなかったのです。窓の鍵は開いてたけど、Aさんの部屋は四階でベランダも独立したタイプなので隣室に移動はできないそうです。下の空き地に飛び降りる以外に逃げ道はないけど、高さ的に人間には無理ですし。当然、部屋の鍵も室内に残ってたそうですから、自殺じゃなければ密室殺人てことになっちゃいますよ」
「……人間には不可能な密室殺人だから、幽霊の鎧武者がどこからともなく現れて、Aを切腹させた後どこへともなく消えたってのかよ?」
「それって逆じゃないですか? 幽霊がやったことだから結果的に人間には不可能な密室が生まれた――って、まあどっちでもいいですけど」
そこらへんのいいかげんさが噂の信憑性をさらに低下させていることに気づかないあたり、やはり幼稚と言わざるを得ない。俺に言わせれば現実感を伴わない恐怖はチープだ。人はリアリティのあるものに心と感情を揺さぶられる。
「BさんとCさんは自分たちのところにも鎧武者が現れるんじゃないかってノイローゼになっちゃって、精神科に通ってるみたいです。あ、ちなみにこの話はCさんの同級生が心配して電話で事情を聞いたら教えてくれたって触れこみなのです。ね、怖いでしょ?」
「怖いっつーか……胡散臭いな」
Aの死は異常ではあるが、他殺の証拠がない以上あくまで自殺として扱われ、鎧武者の話もBとCがそう言っているだけで証拠はない。噂はまだ噂の域を出ない信憑性に欠ける話なのだが……
「すまん末原。ちょっと用事を思い出したから、バイバイな」
俺は先に席を立った。後ろで末原が何かわめいていたが、無視して食器を返却口に戻してから学食を出た。