3-1
週明けの月曜日である。
今日からテスト期間が始まったので一応顔を出したわけだが、ほとんど出席してない授業のテストなどちんぷんかんぷんで、午前の二教科を受けただけで俺は激しく絶望していた。
昼休みになって学食で一人で蕎麦をすすっているうちにだんだんと悟りが開けてきてすべてがどうでもよくなってきたところで、そいつは不意に現れた。
「あっ! 風間先輩じゃないですか! なんで? どうしてここにいるのですか?」
かけ蕎麦の残り汁をすすっていた顔を上げると、数少ない顔見知りがトレイ片手に立っていた。セミロングの茶髪、ピンクのトップスに下はミニという小洒落た格好でにっこりと笑いかけてくる相手に、一人飯中だった俺は思わず鼻白んでしまう。
「よお、末原。学生が学食にいるのは普通だ。そんなに驚くことじゃないだろ」
喧騒に溢れ帰る昼時の学食。一番隅の目立たないこの席は俺の指定席だ。登校した日の数回に一回はこいつに見つかってしまうのだった。
「驚きますよ、見かけたの先月ぶりじゃないですか。いくらなんでも遭遇率低すぎですって。先輩ってはぐれメタルですか? あ、逃げた! しかし回りこまれてしまった! はい、座って。ごはん付き合って下さいよ。今日のテスト科目とってる友達いなくて困ってたのです」
そんなん知るか、友達がいるだけ俺よりマシだろ、と心の中で悪態をついたところで、末原がじーっと恨めしそうな目をしていることに気づいた。
「先輩、先週の水曜日に出したメール無視しましたよね」
「……そ、そうだっけ。いや悪い、すっかり忘れてた」
「ふーん。他ならぬ先輩だからこそ許しますけどお。ごはん付き合ってくださいね?」
進んで他人と関わろうとはしない俺だが、関わってしまたらそれなりに付き合わなければと思ってはいるわけで、こちらの不義理を盾に迫られたら断りづらい。しょうがなく席に戻って腰を下ろすと、末原は嬉しそうに俺の前の空席にトレイを置いて座った。
何気なくトレイに載ったメニューを見て驚愕する。ぐはっ……日替わりB定食にデザートのプリン・ア・ラ・モードにホットコーヒーまで付けてやがる。まさかこんなところで格差社会の縮図を見る羽目になるとは思わなかった。かけ蕎麦一杯だけの俺に謝れ!
「あ、ダメですよ先輩。そんなに見つめたってあげません。これはあたしの大事な栄養なんですから。主に胸のっ。じつはこの前のアニフェスでコスしたんですけど、ちょっとスタイル的に残念な結果になっちゃって……えへへ、大急ぎで修行中なんですよ。主に胸のっ」
「二回言わなくていいから」
べつに大事なことじゃないし。
「主におっぱいの!」
「言い直さんでもいいわ!!」
思わず大声でつっこんでしまい、余計に周囲の視線を集めてしまった。俺はコホンと咳払いなどしつつジト目で後輩を睨みつけた。
「ったく、このブルジョワ小娘め。胸どころか全身太って衣装着れなくなってしまえ」
「それよりも、先輩がガッコに着てるなんてホント珍しいのです。ついでだから会に顔出していったらどうですか? 他の人来てるかわかんないですけど」
都合悪いことは聞き流すというか人の話を聞かないというか、ホントいい性格してる奴だった。
この末原むつみは二年生で、現在三年の俺からすると一つ下の後輩にあたる。こいつはいわゆるコスプレイヤーというやつで、人物写真研究会という名を借りた実質的コスプレ同好会に属している。さらに言えば俺はそこの会の幽霊会員で、こいつとはその縁で去年の春に知り合った。
詳細は省くが、俺は現在ほとんど脱会していて研究会の人間とは疎遠な関係を貫いている。そんな中でこの末原だけがやけに気さくというか物怖じしないというか何も考えてないというか、俺に対しても普通に話しかけてくる唯一の相手だった。特殊な趣味の会に集まってきただけあって、なかなかの人格破綻っぷりを発揮する逸材である。人とは違う俺に対する距離感や付き合い方もその性格の為せる業だろう。
「……いや。今更顔出したってな。ぶっちゃけ俺、今の会長嫌いだし」
「あー、わかります。先輩とはどうあっても分かち合えないものを感じますもんね。こういうのなんて言うんでしたっけ? 親の仇は倶に天を、いただきまーす。もぐもぐっ☆」
「途中で適当に繋げるな。べつに不倶戴天ってほど憎しみ合ってるわけじゃないぞ」
奴は奴で会を大きくするために色々と考えがあったのだろうが、俺は会のために何かを変えようとか頑張ろうとかまったく思わない自己中野郎だったので、表だって対立せず黙って顔を出さなくなった――それだけだ。
末原はそんなことどうでもいいやというふうに忙しく箸を動かしている。ま、俺の方もべつに偉そうなこと言えた義理じゃないので、どうでもいいのは同じだった。
「そういえば聞いてくださいよ。会長といえば、いっつもエッチぃキャラの衣装ばっかり推してくるんですけど、この前なんて『次は縞パンはいてみてよ、見せパンでいいからさ』とか言ってきてマジでドン引きしたのですよ。男の人ってそんなに縞々が好きなのですかね? 現実じゃそんなに人気ないし、お店でもほとんど見かけないですよ。まあ、あたしは普段から愛用してますけど」
「もってんのかよ!」
「あ、先輩も興味ありますか? 物陰でちらっとなら見せてあげますよ?」
「しかも今はいてるんだ! うわあ、反応しづらい!」
こいつの言葉は冗談なのか本気なのか非常にわかりづらい。困ったことにそれが微妙に楽しくもあるのだけど。あんまり話の引き出しもコミュ能力もない俺にとっては、こうして勝手に話してくれてたまにツッコミを入れるだけでいいのは助かるのだった。
「ところでまじめな話。先輩、進級大丈夫です? 今日はテスト受けにきたんですよね?」
じっとこちらを覗きこんでくる末原。話の脈絡のなさはいつものことだが、たまに正面からぶつかってくる時のこいつの目は、俺みたいなひねくれ者の卑怯者には到底真似できないほど潔くてまっすぐだった。いつもなんとなく目を逸らしてしまうのはそのせいだ。
「いや、正直かなり厳しい。テストもぜんぜんわかんなかったし……。今年はずっと忙しくてな。今日は休みだけど、バイトとか色々あるんだ。一応、白鷺先生は事情知ってくれてる」
こいつには言えないが、先日の狗神みたいな急な呼び出しもあるし、見鬼の世話の他にも週に一回はわざわざ埼玉の奥地にある病院に片道三時間かけて通院しなくてはならない。とてもじゃないが落ち着いた学生ライフを満喫してる余裕はなく、同学年の奴らが就活やら研究やらにいそしんでるのを尻目に俺だけは逆走まっしぐらだ。加えて今は研究所からお情け程度のお手当が出るだけなので、いつも金欠だった。
「そうなのですか。見たところお蕎麦だけしか食べてないみたいですけども。それじゃ足りないのではないですか? そんなに生活が大変なのです?」
自分はデミグラスソースたっぷりのハンバーグをぱくぱく頬張って、目だけは真摯なふうにこちらを見つめてくる。くっ……肉が食いたい。注文する前はお金がなくて我慢できたが、目の前で食われるのは我慢ならなかった。
「あー、どっかに食べ物を分けてくれる心優しい女の子がいないかなー?」
べつに期待していたわけではないが、冗談混じりにそんなことを口にすると、末原はきょとんとした顔でまじまじと見返してきた。
「先輩ったら、こんな衆人環視の中で間接チューとアーンを求めてくるなんてすっごく大胆ですね。あたし的にはそういうところが萌えポイントなのですけどお、――だが断る」
「そこまで要求してねえ! おまえ『だが断る』って言いたかっただけだろ!?」
「先輩が女の子なんて言うから照れくさくって。お返しに先輩のこと男の娘って呼んじゃいますよ?」
「それ字も意味も違うだろ! 普通に男でいいよっ!」
その言葉はリアル男の娘を知ってる身には冗談になってないんだよ……。
「それだと普通過ぎませんか? あたし的にはもっとこう、漢とかいておとこって読んだりしたいじゃないですか」
「じゃあ漢でいい……」
「でも漢の娘って書くと、なんか毛深そうですよね?」
「知らねえよ!」
こいつと話すのは楽しいし見鬼よりも気は遣わないで済むのだが、いかんせん普段からほとんど人間同士のまっとうな会話のない生活を送っていると体力の消耗が激しい。というか、見鬼といいこいつといい、どんだけ俺にツッコミを要求してくるんだよ。
「あ、そういえば全然関係ないのですけれど」
「……今度は何だよ?」
小休止に無料の薄い茶に口をつける。次ボケやがったら全力でスルーするからな……。
「知ってます? うちの学校の近くに廃墟あるじゃないですか、あそこに出たらしいのですよ」
「化粧品会社か何かが潰れたビルだっけ? 何が出たんだよ?」
なにげなく聞き返すと、末原は声を潜めながらたしかにこう言った。
「鎧武者の幽霊です」