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ともあれ、凍りついていた空気は溶解し、部屋に平穏が戻ったことで俺はホッと安堵した。
見鬼はすでに体を元の位置に戻しており、首を少し傾けながらにこっと笑った。
「そうだよね、ぼくよりも側女がいいなんて言うはずないし、おかしいなって思ってたんだよ。風間さんも人が悪いなあ。ぼくちょっと泣きそうだったんだからね?」
拗ねた感じでしおらしく言う姿は誰が見てもそそられる美少女そのものなんだけど、その実態を知る俺からすれば擬態ってレベルじゃない。泣きたいのはこっちの方だった。
もうわかってるだろうが、このえらく可愛らしい姿をした危険人物の性別は『男』である。見鬼自身の口から男だと聞かされた時の衝撃を俺は生涯忘れないだろう。
無論、脱がしてこの目で確かめたわけではないが、年齢的に危険なことに変わりはないので確かめる気はない。ゆえに俺の見鬼に対するスタンスは一貫して「ショタお断り!」で完結しているのだ。
一方で俺のことをいたく気に入ってくれているらしい見鬼の方は、自分は男だけど俺のことが好き、という身の毛もよだつアッー的な方向で一貫していた。また先のように『自分と比べて他の特定の相手の方が好き』という意味に取れる言動には敏感に反応し、逆鱗に触れてしまうのだ。まあそれさえ気をつけていれば、他のことでこいつが怒ったことはない。
「外の世界で風間さんが誰を好きでもいいよ。でもぼくといる時はぼくだけを見て。ぼく以外を愛することは許さない。ここにいる間はあなたはぼくのものだって約束してくれたでしょ?」
懇願するように迫られると、男とわかっていても心臓に悪い。俺はぐぐっと上半身を反らせて顔も背けながら謝罪の意を伝えた。
「……悪かったよ。誤解させるような言い方になったのは謝る。でもこれだけは譲らないぞ、野郎同士で風呂なんて入ってたまるか」
こんなふうな言い方ならば地雷は回避可能で、特定の誰かが絡まないという前提において、俺は自由に会話したり意志を貫くことができるのだ。
「ひどいなあ。風間さんと一緒に洗いっこしてみたかったのにな。全身隅々まで」
「気色悪いこと言うな!」
「風間さんならぼく恥ずかしくないよ。全部見せてもいいなって思ってるんだ」
「俺はナニも見たくねえよ!?」
ああ、こいつがもし女の子だったらこんなに慕われたらクラッときたかもしれない――なんてすでに軽く二百回は超えるほど思ってきたことなので、今さら惑わされる俺ではない。
「とにかく風呂には行かない。ここでいい」
「ここで? わかった、すぐに床の準備をさせるね」
「なんでだっ!? つーか、おまえ絶対わざとやってるだろ?」
「うん。覚悟はできてるよ」
「せんでいいわ! ったく……そんなに臭いが気になるなら外に出てもいいんだぞ。言っとくけど野外プレイのお誘いじゃないからなっ! 散歩だ散歩!」
「やがいぷれいって何? 外人の名前?」
「なんでもねーよ!」
つ、疲れる……。ツッコミ役はよくやるのにこいつが相手だとすごくエネルギーを消耗する。
「外には後で行こうよ。それよりも――」
と、見鬼は今までずっと閉じていた瞼をおもむろに開いた。
俺は茶菓子に手を伸ばしたまま硬直してしまい、魅入られたように奴の目を真正面から見てしまった。
青い――透き通るほどに蒼い瞳。
以前、見鬼はその目をもつ者にのみ代々受け継がれる名であり、この目こそが見鬼なのだと聞いたことがある。
蒼の瞳は俺を真正面に見据えながら、しかしどこにも焦点を合わせることなく静かに輝きを放っている。見鬼の目は光を、現実の世界を映さない。その目は見るためのものではなく『視る』ためのものだ。盲目の世界に住みながらもう一つの世界を視る者――それが見鬼だった。
「……びっくりさせんなよ。こっちはおまえに視られるとゾッとすんだぞ」
「ぼくもあなたを視るとゾクゾクッてするよ。……ねえ、またさわってもいい?」
俺は茶菓子を諦めて、返事をする代わりに見鬼の膝の上に揃えられた白い手を握った。
こいつには俺の姿が視えているらしいが、現実の俺を見ているわけではないので実際の距離や場所は教えてやらないとわからない。ゆっくりと導いてやると、小さな手が手探りで俺の顔に触れた。細い指先が顔の形を確かめるように初めはゆっくりと、徐々に大胆に好き勝手な動きでなぞり始める。
これはある種の儀式というか、見鬼の趣味のようなものだ。初めて会った時から毎回会うたびにこうされているため、顔をいじられることに今さら抵抗はない。
「これが風間さんのカタチ……」
陶然とした様子でつぶやく見鬼。吐く息も荒く頬を薄紅色に紅潮させて手つきもだんだん怪しくなってくる。だー、なんでこんなに色っぽいんだこのガキは……。
とても見てられないので目を閉じてじっと待つことにする。男の俺が好きだったり顔を撫でて興奮したりと、こいつのツボは本気でまったく理解できないのだけど、満足するまでは好きにさせてやらないとヘソを曲げるのでほっとくしかないのだ。ぼーっと終わるのを待ってたら顔以外の部分を触られたりキスされかけたことがあるので、けして油断はできないが。
やがて見鬼は自分から手を離すと、とろんとした目でほぉと甘い息を吐いた。
「やっぱりいいなあ。ありがとう、風間さん」
「……毎度のことながら聞くけど、こんなことして楽しいのか?」
我慢していた茶菓子の栗饅頭にぱくついた。うんまい。
「楽しいよ。ぼくから視たらほとんどの人は歪んでいるんだ。歪みの度合いは人それぞれで、中には醜い怪物みたいに視える人もいる。でも風間さんのカタチは、すごくぼくの好みだから」
そういえば前にも言ってたような気もする。見鬼の目に見える世界なんて俺には想像もつかないから、なんのこっちゃとすっかり忘れていた。
「ふふ。あなたのその姿を知っているのはこの世でぼくだけ。だからあなたはぼくだけの大切な人なんだ」
こいつはたまにドキッとするようなことを平然と口にする。恥ずかしい奴だ。言われる俺はもっと恥ずかしい。
「そいつはどーも。せめておまえが女だったら少しは喜んでたかもな」
「明かりをけして真っ暗にしたらきっとわからないと思うな。ぼく自信あるよ?」
「何の話だ!?」
「ぼくに対してまったく心乱さないのは風間さんくらいだよ。でも、ちょっと寂しいかな」
「おまえと話してると頭がおかしくなりそうだけど、過ちを犯すことだけは絶対にないな!」
「じつはぼくが女の子だったとしても?」
……思いっきり動揺してしまった。目が見えないはずの見鬼はそれを『視』逃さなかった。
「あ、ちょっと歪んだ。ふふふ、おもしろいなあ。こんなふうに歪むんだ」
「うるさい。たとえおまえが女でも俺は年増好きだから射程圏外だよ。というか、なんだろうと一緒だって。その、な……」
「あ、そうだったね。風間さんて今、できないんだっけ?」
人に言われるとちょっとグサッとくる。
ああそうですよ、どうせ不能ですよ!
二一歳健全男子としてはまったくもって恥ずかしい話なのだが、もう何ヶ月も前に始まったこれが現在も一向に改善なく続いており、その状態にすっかり慣れてしまった自分がいる。
「まあそれもあなたの在り方に一役買ってると思うし、結果的にはよかったんじゃない?」
「よくねーよ! 歪んでてけっこう、勃つ方が千倍嬉しいね!」
他人事だと思って勝手なこと言うなってんだよ、まったく……。