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4-2

 一通り話題も尽きたところで、そろそろおいとましようかなと考えて腕時計に目をやると、時刻は十時を回った頃だった。

 泊まっていけばいいとしつこい見鬼を振り切ってでも帰るつもりだったが、だらっとしてる時間が長かったせいで立ち上がるのが面倒でもあった。

 俺は畳に寝転がったまま、ふと自分の右手を顔の前にかざしてじっくりと見つめた。

 右手はただ普通に右手でしかなく、気になることは何もない。少なくとも今は。

「……結局〝D〟ってのは何なんだろうな」

 意識せずにつぶやいた言葉に耳ざとく反応し、見鬼が小首をかしげる。

「いや、阿呆らしいっつーか、今さらだけど本当、変な病気だと思ってな」

 べつに答えを求めていたわけじゃない――はずだ。俺は右手を元のように頭の下に置いてごろんと寝返りを打った。

 見鬼は瞳を閉じたままいやらしい笑みを浮かべていた。こいつのそれは邪悪さに満ちていても綺麗なもんだから余計にたちが悪いと思う。

「わからないフリをしてるだけじゃないの? 風間さんて鈍感なフリをするのが得意だから」

 いつものことだが、ほんとムカつくガキである。紗羅さんがこいつを苦手としているのも頷ける話だった。

「……どういう意味だよ?」

 一応訊ねると、見鬼はさらりと結論を口にした。

「〝D〟が何かって言えば答えは簡単だ。彼らは『神』と呼ばれた古からの存在さ」

「そんなわかりきったことは訊いてない。じゃあ神がなんで病気になって現れてんだよ?」

「病気、ねえ」

「病気だろ」

 見鬼はわざとらしく溜息をついて、やれやれといった様子で語り始めた。

「たとえばさ、望んだものが手に入らず、現実に打ちのめされて心の歪んでしまった人たちが大勢いる社会があるとするよね。望んでも叶わないことに慣れてしまって、現実に、社会に、自分に対して生きながらにして諦めている人たちは、たとえ医学的には健康体だったとしても、本当に病気じゃないって思う?」

「それは……病気じゃない、と思う」

 誰もが皆満たされない歪みを心に抱えて生きている――それが人だ。

 人間の欲望には際限がないなんてよく聞く話で、ある程度の抑圧はきっと必要だろう。そう答えると、見鬼はますます笑みを深くした。

「へえ。望みを諦めることは人が生きていく上で不可欠であり、そのせいで心に歪みができるのは当然だって言うんだ? 満たされない心の歪み――(けが)れとはそういう『隙間』にこそ溜まるものだよ。神も魔もそれは同じで、彼らは人の心の隙間に取り憑く。歪みの存在を肯定するのであれば、歪みに存在する〝D〟を否定するのは矛盾してるよ」

 思わず言葉に詰まった。見鬼は畳み掛けるように言葉を続ける。

「前に風間さんはぼくに質問したよね。狗神がどうして〝D〟になったのかって。ぼくはそんなこと知らない。神がどうして神になったのかなんて、人間がどうして生まれてきたのかって聞くようなものじゃない。じゃあ〝D〟がなぜ人に取り憑くのかって? そんなの簡単だよ。そこに隙間があって『入りこむ余地があった』からさ。人の心の歪みこそが〝D〟を『呼び寄せた』とも言えるし、その場合はむしろ『取り憑かされた』って方がしっくりくるよね」

「取り憑かされた……? それじゃ〝D〟の方がまるで被害者みたいじゃねーか」

「まず被害者・加害者っていう考え方自体がそぐわないと思うな。そもそも現代というこの時代に、本気で神を信奉している人間がいったいどれほど残っていると思う? 多くの神は存在すら忘れられ、祀られず、祟りを下したところで誰にもそれを認められない。存在を知られなければ何をしたって無効だからね。そういう意味じゃ彼らこそが被害者とも言えるよ」

 それはたしかにそうかもしれない。昔は何か悪いことがあれば祟りとされたことも、科学が席巻する現代ではすべてに合理的な解答が与えられ、そこに神の力が介在する余地はない。

「どこにでもいて、どこにもいない――古来より人々の共同幻想として存在し続けた神は、忘れられることで力と居場所を奪われた。彼らにはもう他に居場所がなかったんだ。だけどそれを恨んで人間に悪さをするって話じゃないよ。幻想を追い出された神はただ、水が高いところから低い方へ流れ落ちるように、群体としての人間ではなく個人の心の隙間に逃げこんだ――あるいは吸い寄せられた」

 見鬼の言葉はすでに俺の理解を超えていた。〝D〟は一方的に人間に取り憑くものであり、人間を狂わせる病原体でしかなくて……その認識が揺さぶられ、すべてが根本から音をたてて崩れさるような不安が胸をよぎった。

「そして新たな居場所を得た神――〝D〟は人の心の空白を満たすように存在し、その隙間を埋めることで『望みを叶える』」

「望みを、叶える……?」

「もう。風間さんだって初詣(はつもうで)くらい行くでしょ? 神社にお参りする時に人はお願い事をするじゃない。古来より人々は『そうあれかし』と神に願い続けた。たとえ共同幻想としての神は死んでも、〝D〟として再生した神が人に行うべきことは変わらない」


「願いを具現する『望みの結晶』――それが〝D〟の正体だよ」


 俺は唖然としながら見鬼をまじまじと見やった。

 背筋をぴんと伸ばして正座する姿は美しく整った人形のようで、その口から紡がれる言葉は異界のことわりだ。見鬼とは古代より連綿と連なる託宣(たくせん)の巫女の系譜でもある。

「ここで問題。二人の人間がいて、そこに〝D〟が現れたとするよね。さて〝D〟はどうしてそこに現れたのでしょうか? そしていったいどちらの人間に取り憑くでしょうか?」

 あ……。

 戦慄に似た感覚が全身を貫いた。

 なぜなら俺は……誰よりもその答えをよく知っていた。


 あの大蛇が――夜刀ノ神がなぜ俺と妹の前に現れたのか。

 そして大多数が俺ではなく七奈に狙いを定めたのか。

 あの場所が聖域であったかどうかは、おそらく関係ない。なぜなら神である〝D〟はどこにでもいて、どこにもいない。〝D〟の感染ルートはわかっていないと玲子ちゃんも言っていた。

 真に重要なのは、そこに『叶えるべき願いがあった』という事実――その一点に集約されるのではないか。

 あの場に俺たちという人間が現れたことこそが、神を召喚する引鉄ひきがねとなった。

 そしてより大きな願いを、叶えたい想いを抱えていたのは、きっと七奈の方だ。神の前で歪な心の隙間をさらけ出し、恐怖に打ち震えながら、あいつはさらに強く願い求めた。それ自体が奴らの『入り口』となるとは知らずに。


「もうわかったでしょう? 満たされない人々の心を埋めるために神が動き出した。けれど神を呼び寄せるのもまた人の心だ。妹さんや士堂拓真は言うに及ばず、ミズチの女の子は異常に病弱だった己を嫌い、異常を感知できなくなることで平穏を得た。それを否定するのは彼らの切実な想いをも否定することになる。そんな権利は誰にもないと思うけどな」

 思わず納得しかけたが、どうしても頷くことは嫌だった。それを肯定してしまうと、脆い足場が一気に崩壊してしまうような危ういものを感じたのだ。

 ……そうか、だから見鬼は俺がフリをしていると言ったのだろう。

 たしかにそうかもしれない。見てないフリ、知らないフリをして生きていくことの方が圧倒的に楽だから……俺はそうやって生きてきた卑怯者だから。

「風間さんは病気と言ったけど、感染者たちはそれぞれの願いを叶えようとしているだけじゃないか。〝D〟はその手助けをしてるに過ぎないよ。心の望むままに行動する彼らの姿はどこまでも純粋で、単純にして明快だ。複雑怪奇なのはむしろそれを見ている人の心で、あなたたちはその単純さをこそ病気や化け物と呼んでいるに過ぎない。そうでしょう?」

 見鬼はこの世のすべてを見下し、嘲笑するように笑う。(わら)う。

「……狗神イヌガミは? 山之内さんはただ暴れて色々ぶっ壊して人を殺してたじゃねーか」

「会社や上司に不満があるのはどんなサラリーマンにも共通してるんじゃないの?」

 なけなしの反論はただ一言でやりこめられてしまった。

 俺が無言でいると、閉ざされた瞼が薄く開かれた。

「でもね……ぼくにはもっと恐ろしいものがあるよ」

 新月の夜に消えた月のごとく輝きを失った蒼の双眸(そうぼう)が、まっすぐに俺を見つめていた。


「その身に『神』を宿しながら『彼女』に叶えるべき願い(それ)をすら与えない。そんなあなたこそが、ぼくにはなによりも恐ろしく――美しい〝バケモノ〟にみえるよ」


 人ならざる世界をる鬼はそして、夜に咲く花のように妖美に微笑(わら)った。

/ones -END-

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