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1-1

 八月も残すところわずかとなったその日、俺は例の取調室に呼ばれた。部屋には玲子ちゃんが一人で待っていた。

 小さな机に向かい合って座ると彼女はおもむろにこう切り出した。

「来月から一郎くんの退院の許可が正式に下りたよ」

「まじっすか!? ひゃっほい!」

 諸手を上げて喜ぶ俺を見て玲子ちゃんは頬をぶすっと膨らませた。

「ボクと離れるのがそんなに嬉しいわけ? けっこう寂しいんだぞ」

「え……あ、いや、その、すみません……」

 そんなふうに思ってくれてたなんてちょっと嬉し恥ずかしい気分だった。

「で、でもよくこんなに早く退院許可が下りましたね? 右手の件があったからてっきり伸びるもんだとばかり思ってました」

「もちろんボクもきみをいきなり一般社会の戻すのには抵抗がないわけじゃないんだよ。実際にきみの右手には〝D〟が憑いていて、人間を殺傷しうる武器をもってるってことだからね。感染者の社会復帰は慎重に慎重を重ねて行う必要があるんだ。まだ数もけして多くはないし、失敗は絶対に許されないから」

 それは当然だろう。だからこそ俺は当分退院できないかもなーなんて思ってたわけで。

「一郎くんの特殊性――重度感染者並に異常患部の顕在化と活動がみられるのに精神と人格が人間のままなんて、今まではありえなかった。そんな特殊な患者を退院させるってことはすごくリスキーなんだけど、いくつかの条件を課すことでリスクは軽減できるし、リスク以上のメリットが見こまれる部分もある。だから今回、特別に退院許可が下りたんだよ」

「条件って……見張り付きってことですか?」

「それが一つめの条件。四六時中ってわけじゃないけど、研究所の人間が一郎くんに異常がないか監視したり不定期に自宅を訪ねたりすることはあると思うよ。それと二つめは前も言ったように、週に一回は必ず通院すること。魅麻ちゃんのお見舞いはその時してあげるといいよ」

 監視されると聞いて少し微妙な感じもしたが、外に出られるなら多少のことは目をつむるしかない。条件としては常識の範囲内だろうし。

「最後に三つめの条件なんだけど――」

 と、その時だった。

 叩きつけるような凶悪なノックの音がしたかと思うと、ドガンッとぶち破る勢いでドアが開かれた。ぎょっとして顔を向けると、そこに立っていたのは――

「……紗羅さん?」

 突然の闖入者ちんにゅうしゃである彼女の姿を見て俺は二度驚いた。クスリでぶっ倒れてから今日に至るまで約一週間の間ご無沙汰していたわけだが、久しぶりに見た紗羅さんの様子は明らかにおかしかった。

「フゥー……フゥー……!!」

 荒い息、血走った目、乱れた髪――弱々しさと危うさの混在した姿は往事の彼女とは似ても似つかず、その表情はまるで追い詰められ傷ついた獣だ。わずかに開いた口許からは今にも涎を垂らさんばかりである。

「やあ紗羅ちゃん、謹慎お疲れさま。ちょうどいいところに来たね」

 玲子ちゃんはまったく気にしたふうもなくにこやかに挨拶を口にした。

「国木田、博士……!! これが、これがあなたの狙いだったのですか……!?」

 紗羅さんは肩を大きく上下させるほどに息を荒げ、喋ることすらつらそうに見えた。身だしなみを整える余裕もなかったのか、黒のスーツはよれよれでノータイのシャツのボタンも上から三つは空いている。だからというわけではないけども、俺はごくりと唾を飲みこんだ。

「紗羅ちゃんにしては気づくのが遅かったね。ま、そういうことだよ。謹慎だけじゃ罰としてはちょっと弱いじゃん? その様子じゃやっぱりずっと我慢してたみたいだね。もしかしたらどこかで栄養補給してくるかなーってちょっと思ったけど」

「冗談は――やめて下さい。博士……玲子……わかっているでしょう? 前回の摂取からもうずっと私はカプセルしか……」

「知ってるよ。酵素カプセルは紗羅ちゃんの発作を一時的に抑制する効果しかない。水が漏れるのを少し防ぐだけで、減った水そのものが増えるわけじゃないもんね。えーと、前回がたしかお盆明けの一六日だったかな? 今日でちょうど十日目だし、紗羅ちゃんがそろそろ限界だろーなーってことくらいわかるよ」

「だ、だったら早く――」

「カプセルで騙し騙し発作を先延ばしにしてきたんだもんね、次の発作はきっとかなり強烈だよ? もしかしたら一気に魅麻ちゃんくらいになっちゃうかも?」

「――!? れ、玲子っ!!」

 焦りに満ちた紗羅さんとは対照に、玲子ちゃんはあくまでマイペースを崩さない。わざと相手を焦らして楽しんでいるようにも見えた。

「だからそうなっちゃう前にこうして呼び戻してあげたじゃん。何も問題はないでしょ? 問題があるとすれば、それは紗羅ちゃん自身のわがままだよ」

 そこで玲子ちゃんはすっと眼鏡の奥の目を細め、有無を言わさぬ口調で冷たく言い放った。

「もうわかってると思うけど、ボクはダメだよ。これは命令。ボクに指一本でも触れたらまた謹慎を言いつけるからね。今度は二週間いっとく?」

「ぐっ……!!」

 苦しげに呻いた紗羅さんを無視して、玲子ちゃんは席を立つと俺の後ろに回った。

「一郎くん、ちょっとこっちに来て」

 俺はよくわからないままに紗羅さんと向かい合う位置に移動させられた。いったい何が始まるのか予想もつかなかったが、二人の間に流れる怖い雰囲気に気圧されて口を挟むのもはばかられた。

「ほら、どうしたの紗羅ちゃん? 選り好みしてる場合じゃないのはわかってるはずだけど?」

 紗羅さんは渋面になってちらりと俺の方に視線を向けたが、すぐにそっぽを向いてしまう。

「……誰が、そんな手に……!!」

「あっそ。なら仕方ないね。それじゃ早めにスーツ新調しなくっちゃ。でも小学生サイズになっちゃうとオーダーするの難しいかもしれないよ?」

 紗羅さんは焦りを通り越して顔面蒼白になった。あぅあぅと何か言いかけたが言葉にならないようで、救いを求めるように俺と玲子ちゃんを見る目は少し涙ぐんでいた。

 玲子ちゃんも見た目はかなり若いのだが、紗羅さんの外見はそれを遥かに下回る十代の少女なわけで、端から見ると大人が子供をいじめているようにしか見えない。

「あ、あの……いったい何事なんですかこれ?」

 空気の重さに耐え切れなくなって思わず口を開いた時、紗羅さんがこちらをキッと睨みつけて怒号をあげた。

「黙れッ! 風間……貴様、一歩でもそこを動いたらぶち殺すぞっ!!」

 恫喝どうかつされて完全に動きを封じられる俺。困り果てて玲子ちゃんを振り返るが、彼女は腕を組んだままニヤニヤしているだけだった。

「来るな……私に近寄るな……!!」

 譫言うわごとのように繰り返し、紗羅さんが両手で自分の体を抱き締めるようにしながらゆっくりと足を踏み出した。来るなと言いつつじわりじわりと俺に近づいてくる。その鬼気迫る形相に圧倒され俺は後ずさることもできない。まさに蛇に睨まれた蛙状態だ。

「フゥー……フゥゥー……ッ!!」

 いや、まじで怖ぇって! なにこのバツゲーム!?

 ついに紗羅さんが手を伸ばせば触れられるほどの距離にまで到達した。俺はパニックになる寸前の頭の片隅で「ああ、これはちょっと死ぬな……」と思った。

 刹那、紗羅さんが動いた。

 武道めいた動きで襟を引き寄せられると同時に足を払われ、俺は無様に床に転がった。背中に激しい衝撃を受けて鈍痛に顔をしかめたところで、胸の上にどさっと覆い被さってくる柔らかな重さと体温を感じた。

 息が止まった。紗羅さんが倒れこんだ俺に抱き重なるように体を密着させていた。

 な、なんだこのシチュエーション……?

 それまでとは違う焦りと昂奮が沸き起こり、胸の鼓動が早鐘を打つように激しさを増した。

 俺の上にのしかかる小さな獣――紗羅さんが顔をあげ、至近距離で目と目が合った。

「風間……見るな……」

 絶え絶えに言うその吐息を首筋に感じ、えもいわれぬ感覚が全身に広がった。見るなと言われても、乱れた髪、潤んだ瞳、濡れた口唇――そのすべてに目が釘付けになってしまう。いましも彼女の頬は紅潮し、妖艶な響きを帯びた喘ぐような囁きが俺の耳朶じだをくすぐった。

「お願い……もう、ダメ……少しだ、け――」


 そして彼女はおもむろに口唇を俺の口に重ね合わせた。


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