七
――その部屋は監獄さながらの様相を呈していた。
無機質な鋼鉄製の扉を抜けるとすぐに透明なガラスの壁が広い室内をさらに分断している。
透明な檻は銃弾も通さない特殊な障壁だ。けれどその強度をもってしても、此岸と彼岸とを分けるにはいささか心許なく感じられる。
その奥に幽閉された少女は、そう思わせるに足る強大な気配を滲ませていた。
患者氏名:風間七奈
識別名称:セヴン
レベル5(特重度感染者)
その存在は、この特別医療棟の中でも随一の危険性を孕む。重度感染者ですら有象無象と切って捨てるほどの存在を、こうして檻の中に封じることに成功しているだけで奇跡に近い所行だろう。
鷺乃宮白鷺が彼女の檻に入室してからすでに五分が経過していた。
臙脂色のセーラーカラーの制服を着た少女は、最初に白鷺が現れた時にちらりと一瞥して以来、まったく反応を返さなかった。白鷺をいないものとして扱うことに決めたらしく、話しかけられても無視して部屋の奥のベッドに腰かけたまま文庫本を読み続けている。
これでは対面している意味がない。困り果てた白鷺だが、持ち前の負けん気を総動員して独白という方法で揺さぶりをかけてみることにした。
「……少し勝手なこと話してええかな。うちの一人言やから聞いてなくてもええけどな」
少女の反応はない。白鷺は気にせずに言葉を続けた。
「じつはけっこう責任感じとるんや。あんたの兄貴な、うちのゼミ生なんよ。夏季休暇中の課題でフィールドワークやってレポート書けって指示したんはうちや。あんたらはその途中で事故に遭ったようなもんやろ。……ほんまはあいつの顔見るのもつらいんや。うち、あいつに何かしてあげたい。でも何もできへん。うちにできることなんて、こうしてあんたらと話して少しでも治療に役立つような手がかりを得ることだけや」
聞いているのかいないのか、ただ一定の間隔でぺらぺらとページをめくる音だけがかそけく響き渡る。
反応なしか、と白鷺が諦めかけた時、ぽつりとつぶやくような声が聞こえた。
「べつに。あなたには関係ないよ」
少女は本に視線を落としたままだったが、白鷺はこれを機にと話しかけた。
「うちのせいで自分や兄貴がこんなことになってんのに、気にしてないんか?」
「関係ないって言ったでしょ。あなたは他人なんだから」
突き放すように冷たく言って、少女は手にした本を脇に置いた。赤い双眸が白鷺の姿をまっすぐに捉える。
端正に整った美貌をもつ少女だからこそ、その瞳の色とそこから放たれる邪悪な気配が際立つ。その目に見つめられるだけで白鷺は背筋に冷たいものを感じた。
「勘違いしないでね。わたしはこうなったことがべつに嫌じゃないんだ。つらいことがあるとすれば一つだけ。ここにおにいちゃんがいないこと。わたしにはおにいちゃんが必要だし、おにいちゃんにもわたしが必要なの」
その言葉には切実さが滲み出ていた。兄のことになると少女は急に情緒不安定になるという国木田玲子の言葉を思い出し、白鷺は慎重に次の言葉を選んでから口にした。
「……一つ質問や。あんたら兄妹が御山に侵入した時、たくさんの夜刀ノ神が死んでたらしいな。それは誰の仕業や?」
「愚問ね。わたしの他に誰が百からいる眷属を殲滅できるっていうの? あれをやったのはわたし。全部綺麗さっぱり消してやろうと思ったの」
「なんでそんな仲間割れみたいなことしたんや? あんたらは群れで暮らしとったんやろ?」
「滅びを受け入れて日和った連中なんて仲間じゃないよ。忘れられ、力を失い、消え去ることを是とした――そんなの生きたまま死を選んだのと同じでしょ? だから殺してあげたの。一番強い力をもったわたしの手で終わらせたはずだったのに、一匹だけ生き残っていた」
それが偶然、風間一郎の右手に逃げこみ、暴走した夜刀ノ神の首を一本だけ殺すことに成功した。その時のことを思い出したのか、少女の顔が憤怒とも悲哀とも取れる色に染まる。
「でも結果的にはこれでよかったと思ってるよ。わたしの欠けたところを埋められるものがおにいちゃんの中にある――それってすごく素敵じゃない?」
少女はとても嬉しそうに、美しく壊れた笑みを浮かべた。
「あんたはどうあっても風間の右手の奴が欲しいみたいやな。そんなに七つじゃ足らんのか?」
「わたしの中のこの子はおにいちゃんの右手が欲しい。わたしはおにいちゃんが欲しい。だから早く逢いたい。逢って、満たされたい。わたしもこの子も幸せになりたいだけなの。誰だって幸せになりたいのは同じでしょう? だからわたしはおにいちゃんになら殺されてもいいんだ。ううん、殺したい。殺されて、殺してあげたい」
うっとりとした笑顔を浮かべる少女。まるで夢見る乙女のように可憐でありながら、その歪みは毒のようだ。
白鷺は毒気にあてられたように眩暈に似た感覚をおぼえる。〝D〟による精神汚染は宿主の潜在的な欲望を加速させるだけでなく、他の人間には到底理解のできない感情や欲求を感染者に植えこむことがあるが、この少女の場合もその一例かもしれないと思った。
「幸せか……。でもそれやとおかしいんちゃうか? そのわりに言ってることは殺すとか殺されるとか物騒やで。好きな相手や自分が死んでもうたら幸せにはなれへんやん?」
本人だけが当然と思いこんでいる認識に揺さぶりをかけることは本来話題にすべきではなかったが、白鷺はあえて口にした。少女の壊れた言動の中に、何かわからないがしっかりとした芯のようなものを感じる――その正体を見極めるためだった。
「だいたいあんたが風間を殺したり、逆にあんたが風間に殺されでもしたら――」
そこまで言ってから、白鷺はハッとして言葉を止めた。頭の中で、パズルのピースがかちりとはまるように繋がった。
「そっか……そうゆうことやったんか」
白鷺の脳裏に少女の抱く異界の幻想――幸せの意味が、一つになるという意味が、歪な像を結んでもう一つの答えを浮かび上がらせた。
「あんたは風間を殺して右手の一匹を奪いたいとばっかり思ってたけど、それは逆でもええんや。風間があんたの中の七つを奪っても同じことやもんな。七に一を足しても、一に七を足しても『正しく八つに戻す』ことに変わりないわけか」
ゆえに、少女にとってどちらが死んでどちらが生き残るかは関係ないし、興味もない。生き残った方の中で彼らは『一つ』になって想いを果たし、夜刀ノ神は『完成』する……。
「素敵でしょう? そうなったらわたしとおにいちゃんは永遠に一緒にいられる。おにいちゃん以外にわたしを殺せる奴なんていないんだから、誰にも邪魔はできない」
絶対なる自信をもって少女は嘯く。その膨大な狂気に白鷺は圧倒されそうになる。彼女は自分でも肝の据わった性格だと自負していたが、思わず身震いしてしまうほどに少女の放つ重圧感は異質であり、強大だった。
「そうだ。ちょっと退屈していたし、試してみようか?」
赤い――紅すぎる瞳が危険な光を放った。少女の長い黒髪がひとりでに動き、毛束の一つ一つが鋭い暗黒の刃の先端を覗かせる。〝D〟をも滅す七つの神剣がギラリと鈍く輝いた。
「ここにはわたしの他にもたくさん『神』がいるんでしょう? そいつらを皆殺しにしたら、おにいちゃんに逢わせてくれる?」
「あかん!」
白鷺は反射的に叫んでいた。少女が本気で言っているとは思えなかったが、その言葉は絶対に止めなければならないと思わせるほどに圧倒的だった。
「……そんなことしてみい、二度と風間には逢わせへんで」
「べつにあなたたちが逢わせてくれないなら、自分から逢いに行ってもいいんだけどね。でもいいわ、待つことにしてるの。その方がロマンチックだもん。おにいちゃんはきっとわたしに逢いに来てくれるはずだから」
殺気が薄らぎ、無数の刃が消えたと同時に白鷺は大きく安堵の溜息をついた。
少女の抱く望みの姿がはっきりした今、明らかになったことがある。風間一郎と彼の右手が完全に別個の存在であることを少女は知らないのだ。それは少女にとって自分と夜刀ノ神が分離しがたい存在であるがゆえに生じた誤認だろう。だがそのことを少女に告げるべきか否かは、今の時点で答えを出すことはできなかった。
話は終わったとばかりに再び文庫本に手を伸ばす少女の横顔に、白鷺は恐る恐る問いかけた。あと一つだけどうしても確認しておくべきことがある。
「なあ……今のあんたはどっちや? 風間七奈か? それとも取り憑いとる夜刀ノ神か?」
すると少女はさも可笑しそうにクスクスと笑いだした。
「どっちでもないよ。わたしもこの子もまだ足りないままだから。どっちも完全じゃなくて、だから今はまだどっちでもなくて……そうね」
白い美貌の口の端をつり上げ、少女はにぃっと微笑んだ。
「〝七刀ノ神〟――なんてどうかな?」
seven / another -end-




