6-2
「その子の名前はなんていうの?」
先日の対面で白鷺先生から教わったばかりのこいつの名前を口にすると、魅麻子はふるふると首を横に振った。
「そうじゃなくて、一郎はその子をなんて呼んでるの? 私は一人の時はミズチをおばあちゃんて呼ぶの」
「こっちは呼び名なんてねえよ」
「どうして? 名前つけてあげようよ」
「いらないって。俺こいつ嫌いだし」
俺は魅麻子と違って自分に取り憑いてる奴に愛着なんてないし、こんな可愛くないペットを飼ったつもりもない。呼び名なんてこいつとか蛇野郎とかクソッタレで充分だ。
すると魅麻子はムッとしたように口を尖らせた。
「ひどいこと言わないで。その子が可哀相よ」
「ひどくない。魅麻子のミズチは優しいおばあちゃんだからいいけどな、こいつはそんなんじゃないんだよ。俺にとっちゃ……悪夢みたいなもんだ」
ついムキになって言い返すと、魅麻子はきょとんとした顔になった。この少女の場合、記憶をいじられてミズチを祖母だと思い溺愛しているのだから〝D〟を悪く言う俺を理解できないのだろう。そのことは俺にある不安を呼び起こした。
まずい……これで魅麻子が変に違和感を覚えたら、宿主から『異常』を消し去るミズチを刺激することになりかねない。この程度の認識の差異どうってことない気もするが、注意しておくに越したことはないだろう。
「いや……ちょっとこいつとは喧嘩中なんだよ。うん、少し言い過ぎたかもしれない」
と慌てて取り繕うと、魅麻子は得心した様子でこう言った。
「そうなんだ。でもその子は一郎のことを守ってくれるでしょ? 名前くらいつけてあげようよ」
「……わかったよ」
好きになることも認めることもできないが、呼び名一つで魅麻子が納得してくれるなら安いもんか。これ以上言い合いになるのは避けた方がいいし、俺の方が大人なんだからそれくらいは譲歩してやるべきだ。
「その子、きっと女の子だよ」
は……? 意外な指摘に俺は右手を顔の前にもってきて黒蛇をまじまじと見た。が、どこで判別したのかまったくわからない。
「うん。絶対そう。だってそんな気がするもの」
「勘かよ!?」
「女の勘は当たるのよ?」
魅麻子はなぜか勝ち誇ったように艶然と微笑んだ。こ、この小娘ったら……。
「だから女の子の名前じゃないとダメ。何かない?」
「えーと……蛇子、ニョロ美とか? ちょっとひねってスネー子。あ、黒いからブラッ子」
「最っ低。なにそれセンスなさすぎ。ばかなの? しぬの? てゆーかなんで生きてるの?」
ぐっ……!! なんで十歳の小娘に思いきり見下された目で罵倒されなきゃいかんのだ。
魅麻子はわざとらしく嘆息すると同情するような目を俺の右手に向けた。
「私が名前を考えてあげるから安心して。もう少し待っててね」
「へーへー。なんでもいいよもう」
元々どうでもいいことだし好きに呼べばいいと思った。
「うーん、悪夢か……。そうだ!」
もう閃いたらしい。魅麻子は生き生きとした顔をこちらに向けた。
「悪夢を英語でナイトメアっていうでしょ? だから〝ナイトメアリー〟ってどう?」
「えー……」
なんか微妙に小っ恥ずかしいんですけど。まあメアリーならたしかに女の名前ではあるけど。
「ね、メアリー? あなたは気に入った?」
すると蛇の奴がむくりと顔を上げて魅麻子を見た。え、おまえもしかして言葉わかるの?
「ほら気に入ったって! 決まりね、よろしくナイトメアリー」
「おい蛇、ニョロ美じゃダメか?」
キシャー!! めっちゃ威嚇された。って自分の手にもセンス否定されちゃったよ!
「……〝悪夢ちゃん〟ね」
まあ蛇自身はともかく魅麻子が気に入ったのならしょうがない。俺はメアリーの奴にもう引っこめと八つ当たり気味に念じた。
「……っと、話は変わるんだがな」
すっかり忘れていたが、魅麻子に伝えておくことがあったんだ。俺は元のようにベッド脇の椅子にかけながら、なにげない口ぶりで言葉を続けた。
「俺、近いうちに退院するかもしれない」
魅麻子が弾かれたように顔を上げた。
その瞳の中に不安の色を感じ取り、俺はニッと笑って頭にぽんと手をのせて軽く撫でてやった。
「そんな寂しそうな顔するなよ。退院しても毎週通院することになってるんだ。その時にちゃんとお見舞いに来るからさ」
「べ、べつに寂しくなんてない。急に退院なんて言うからびっくりしただけよ」
魅麻子は乱暴に俺の手を振り払うとつんとそっぽを向いてしまった。ほんと素直じゃないのな。
「でも一郎がそんなに言うなら、またお見舞いに来てもいいわ。待っててあげる」
さっそくデレ入りました。てか可愛いなおい。
「そいつはどーも。おみやげ持ってくるから楽しみにしとけよ」
何をみやげにすれば喜ぶだろうかと頭の中で色々考えていると、魅麻子はうつむきながらそっとこちらに手を伸ばし上着のすそをぎゅっと握りしめてきた。
「……ちゃんと約束して」
強がっていても本当は不安なのだろう。その小さな肩が、伸ばした手が、声が――かすかに震えていた。
俺は少女の小さな手に自分の手を重ねた。
「ああ、約束だ。だから魅麻子もいい子にして待ってろよ。そうだ、次は中庭を散歩しようぜ。玲子ちゃん知ってるだろ? 眼鏡の女医さん。あの人に頼んで今調整してもらってるんだ」
外に出られるかもしれないと聞いて、魅麻子がハッとしたように顔を上げた。頬に赤みが差し、表情も目に見えて生き生きとし始める。
「約束! 絶対に絶対だよ? 嘘ついたら殺すからねっ」
こんなに楽しみにされちゃ裏切るわけにはいかないよな。まだ死にたくないし。
「わかったって。ほら、指きりしようぜ」
俺は右手を差し出してから、ちょっと思い直して左手の小指を差し出した。魅麻子の細すぎる白木のような指がおずおずとそれに絡まり、ひんやりとした感触を伝えた。
自分から言い出しといてなんだけど、指切りなんてしたのはいったい何年ぶりだろうか。遙か昔のガキの頃以来であろう行為に対して妙に気恥ずかしいものを感じてしまう。
「なに意識してるの? やっぱりろりこんなの?」
「違うわ! 俺を意識させるなんざ一五年は早いっつーの」
「二五歳になったらいいの?」
「まあそれくらいが俺のストライクゾーンだ」
ってこんなガキに何言ってんだろうな俺。
「あと一五年……」
魅麻子は少し考えこむ素振りをした後、じっと俺の顔を覗きこみながら言った。
「どうすればろりこんに目覚めるの?」
「目覚めさせようとすんな!」
それから十分ほどどうでもいいような話をして、迎えの職員が次の検査の時間になったことを知らせにきたタイミングで別れの挨拶をして病室を出た。
いつも陰鬱な雰囲気漂う特別医療棟を出て、中央病棟に続く連絡通路の途中で俺はふと立ち止まり、窓の外に広がる晴れ渡る空と陽光の眩しさに目を細めた。この暖かな光を早く魅麻子に見せてあげられるといいな、なんて思いながら再び歩き出した。




