6-1
数日後のよく晴れた昼下がり、俺は魅麻子の病室を訪れた。病室の扉の横には『mizuchi / L4』と書かれたプレートが刺さっていた。
病室は普通の個室サイズだ。内部は防弾ガラスで区切られていたが、さすがにガラス越しでお見舞いというのは味気ないという判断から玲子ちゃんが許可をくれたので内側に入ることができた。
俺はベッド脇の椅子に座り、慣れない手つきで林檎の皮を剥いている。中央病棟の売店で見つけて差し入れにもってきたのだ。
魅麻子はというと、ベッドに横になって分厚い本を開いていた。『世界の動物紀行』。
病室というのはだいたい殺風景なものだが、ここには女の子の部屋特有の空気があった。小さな本棚には少女漫画や児童文学、辞典類や図鑑などが綺麗に並んでいて、その上にたくさんのぬいぐるみが飾られている。小さなテーブルには俺がもってきた花束を活けた花瓶が置かれ、室内に彩りを添えていた。
「剥き終わったぞ。ほら、林檎くえ」
「……ありがとう」
本を閉じて皿を受け取る少女。
不揃いにカットされた林檎をフォークに刺して小さな口に運ぶ幼い姿を見て、まさか重度のD感染者だとは誰も思わないだろう。ミズチの及ぼしているという精神汚染も、知らなければ気づくようなものじゃない。
いつも湿り気を帯びて光沢のある黒髪は肩口で切り揃えられ、頭頂にはまるで猫耳みたいな大きなリボンを付けている。肌は透けるように白いというか病的に蒼白いのだが、今日は顔色も幾分マシに見えた。
「この本に書いてあったの。林檎を食べる動物はたくさんいるのよ。熊でしょ、猿でしょ、リス、鹿、それから狸もたまに食べるんだって。きっと栄養があって美味しいからね」
「そうなのか。動物に負けないよう魅麻子もたくさん食って早く良くなれよ。そんなガリガリだと大きくならないぞ」
「胸のこと言ってるの? 一郎のヘンタイ」
「勝手に胸に限定すんな!」
チビだし痩せてるから心配してやったのになんてガキだ。ちらっと確認するも、ぺったんこの胸元はたぶん将来的にもあまり期待できそうになかった。
しゃくしゃくと林檎を咀嚼しながら魅麻子がふと口を開いた。
「あのね。私のミズチは、おばあちゃんなの」
言葉の意味が理解に及ばず、俺は首をかしげた。
「ん? ばあちゃん?」
「そう。私はおばあちゃんに育てられたんだ」
魅麻子は視線をベッドのシーツに落としたまま、独白するように言葉を続けた。
「私は生まれた時からずっと体が弱かったの。友達なんていなかったし、お父さんとお母さんもたまにしか会いに来てくれなかったけど、おばあちゃんがいてくれたから寂しくなんてなかった。でも、おばあちゃんは死んじゃった。そして――水になったの」
水になった……?
最初は何かの比喩だろうかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。
「ミズチは水のケシンなんだっておばあちゃんが教えてくれたの。私はずっと水になりたいって思ってた。こんな不便な体を捨てて、綺麗な水になってどこまでも流れていきたかったんだ。でも夢の中で、おばあちゃんが生きなさいって言ってくれたの」
「…………」
「お父さんとお母さんも死んじゃったけど、おばあちゃんはミズチになってこれからもずっと一緒にいてくれる。結局私は水にはなれなかったけど、もういいんだ。私の『普通』はここにあって、つらくても、苦しくても、生きていける気がするから」
今の魅麻子の話はどこまでが真実でどこまでが作られた偽物なのか、俺にはわからない。
だが魅麻子がそれを受け入れ、生きることを前向きに捉えていることは、けして否定することはできないと思った。
「……いいばあちゃんだったんだな。まあ色々あるだろうけどな、人生なんてけっこうなんとかなるもんだ。これからも大変なことはあるだろうけど、きっとなんとかなる。ほら、友達だって案外簡単にできただろ? そんなもんだって」
我ながらちょっと頭が悪い感じだったかもしれないが、あんまり難しく考えたってしょうがない。少なくとも十歳やそこらのガキが自分の生き死にまであーだこーだと悩んだりするのは嫌だった。
すると魅麻子は俺の顔をじっと見つめながら、ふっと鼻で笑いやがった。うわ、ムカつく……。
「一郎はバカだけど優しいね」
「おい、バカって言うな!」
「一郎は○○だけど優しいね」
「可能性が広がった!?」
魅麻子はすると珍しく愉快そうに笑った。
小憎たらしいガキではあるが、その笑顔を見ているとなんだかまあいっかなんて思えて許せてしまうから不思議だ。
林檎を食べ終え、空になった皿とフォークを脇のサイドテーブルに置くと、魅麻子は小さな手をこちらに伸ばしてきた。
「水をちょうだい」
「はいはい。どーぞお嬢様」
水差しの水をグラスについで渡すと、一息にぐっと飲み干してもう一度差し出してきた。本当に水をよく飲む奴だった。俺が病室に来てからすでにかなりの水を飲んでいる。
グラス三杯の水を飲み干した後、魅麻子は意味ありげな目をこちらに向けてすっと視線を落とした。その目は俺の右手をじっと見つめていた。
「ねえ、一郎の右手ってどうなってるの?」
ギクリとして俺は思わず口ごもった。
「どうって……普通だろ」
見た感じでわかる異常は何もないはずだ。右手はただ右手で、感覚もあるし動作も問題ない。
魅麻子はしかし、ふるふるとかぶりを振って少し口調を強くした。
「嘘。私のミズチを消したでしょ。あれを見せて」
見せてと言われても、あんまり子供に見せていいようなものじゃないと思う。それにどうやら〝D〟は他の〝D〟に過敏に反応するらしいことがわかっている。どちらも顕現していなければ平気ぽいのだが、片方が近くに姿を現した時点で、もう片方は警戒のために強く反応してしまうのだ。それが魅麻子に悪影響を与えるかもしれないと思うとやはり心配だった。
「見せてくれないと怒るよ。ミズチでひっぱりだしてもいいんだからね」
「わ、わかったから物騒なこと言うな。……ちょっと離れるぞ」
俺は椅子から立ち上がって部屋の隅に移動した。
袖をまくって右腕をあらわにし、蛇の野郎に出てこいと念じる。右腕の感覚が一瞬遊離した後、むず痒いような感覚と共に右手の先がざらりとした黒い鱗に覆われた。続いて手の甲が瘤のように盛り上がって二つの赤い目が開く。……我ながら何度見ても気色の悪い光景だ。
魅麻子もぎょっとした様子で口をぽかんと開けていた。やっぱり見て後悔しただろ、と思ったのも束の間、
「……キモかわいい」
えええ? 意外な反応が返ってきた。
魅麻子はなぜかむふーと鼻息を荒くして目をきらきらさせていた。
その時、切り揃えた前髪からぽたりと水の雫が垂れてシーツに小さなシミを作ったかと思うと、そこからぐんっと水龍の首が立ち上がった。蛇に反応したミズチが主を守るために姿を現したのだ。
「ダメ。いい子にするの」
魅麻子が両手で包むように龍を抱き留めた。俺はホッと安堵しつつ自分の右手を見下ろし、おまえも暴れるなよ、と釘を刺しておいた。蛇の奴はわかってるのかいないのか、感情のまったく読み取れない真紅の目で魅麻子とミズチの方をじっと窺っていた。




