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逆白市はかの有名な国際空港と東京都心部の中間辺りに位置するだだっ広いわりに半分以上が山と田んぼという、とても微妙な街だ。
市の中心部から南に離れた山間部の手前に古い城下町の残る一角があって、その近くに鬱蒼とした森に覆われた小高い丘が鎮座している。麓から丘の上に続く石段の手前には侵入を阻むようにぶっとい注連縄が巻かれた黒鳥居が建っているのだが、昔からこの辺りの住人たちはここを避けるように近寄ることも口にすることもしないそうだ。それが古い城下町に根付いた暗黙のルールであり、電車で二駅分しか離れていない同市内に長年暮らしていた俺が最近までここの存在を知らなかった理由でもある。
不気味な黒い鳥居があることから神社を連想する人も多いだろうが、ここにはべつに神様が祀られているわけでも神様にまつわる何かがあるわけでもない。
丘の頂上にある建物は 人社という。社とは屋代――屋は建物を表し、代は清め祓った場所を指す。本来は神様のために用意されるべき結界を占有する人間――それがこの人社の主である刑部見鬼だった。
「見鬼だ。姓はない。刑部というのは正しくは『ギョウブ』という昔の役職のことを指す言葉なんだ。だから呼ぶ時はただ見鬼でいいよ。風間一郎さん」
今年の秋に初めて会った時に奴はそう名乗り、以来俺は奴を見鬼と呼んでいる。俺たちはべつに友達同士ではないが、月に何回かは顔を付き合わせているうちに徐々に慣れて今ではだいぶ遠慮もなくなっていた。
けれど見鬼はどうやら俺が思っているよりも相当な曲者で、一般人の窺い知ることのできない裏の世界で昔から重用されてきた一族らしい。
人社の石段の下に超高級車やリムジンが横付けされていたり、帽子とグラサンで顔を隠しているが国会中継で見たような顔と境内ですれ違ったり、どう見てもヤのつくご職業の大親分としか思えない人物がいかにもな感じの護衛をたくさん引き連れて現れたり……そんな『お客様』たちの姿を目撃した例は枚挙にいとまがなく、そこからも金や権力をもってそうな人間ほど見鬼に会いにくるという図式が想像できてしまう。彼らが何を求めて見鬼に会いどれだけの報酬を支払っているのかは知らないが、見鬼が与える情報は金には換えがたい大きな意味をもつのだろう。
遙か昔からそんなことを続けているらしい見鬼の一族は、少なくとも俺なんかがヘラヘラと付き合っていいような家柄や身分じゃないことだけは確かで、見鬼本人の意向がなければ不敬罪を適用されて東京湾の底でお魚たちと戯れていたかもしれない。
実際、傍仕えの巫女さんたちは俺のことを無礼で不遜な奴と思っているようだが、見鬼本人がまったく気にしてないので表だって文句は言えないようだった。まあ本人が気にしてないならいいよね、たぶん。
色褪せた樹々に囲まれた古びた石段を登り、頂上の大きな黒鳥居を抜けると玉砂利の敷き詰められた境内が広がっている。正面奥の本殿の他には拝殿も社務所も手水舎すらもないがらんとした寂しい境内では、緋袴の巫女さんが一人、箒でせっせと砂利をならしていた。
石段を登ってきた俺の姿に気づいて巫女さんの手が止まる。無表情に一礼すると、すっと背を向けて本殿の方に歩き出した。ついてこいってことだろう。ここにはもう何度も足を運んだが、俺は彼女たちが無駄話をしたり感情を顔に出すところを一度も見たことがない。美人なのだけどけして笑わない巫女さんたちはまるで人形のようだった。
切妻屋根に立派な千木のついた本殿は本格的な神明造りの建物で、重々しく荘厳な佇まいは歴史を感じさせる風格がある。古びてはいるが、手入れが行き届いているので綺麗なものだ。
平入の戸をくぐると天井のやけに高い暗い木の廊下が続いている。一番奥まった一室の前で巫女さんが立ち止まり、同時に中から「風間さん?」と子供の声が聞こえてきた。
巫女さんが恭しく障子を開いて脇に身を引く。部屋の中は温かい空気と香の薫りが漂っていた。隅にレトロな火鉢が置いてあるだけの殺風景な畳敷きの間の中央に小さな人影が一つちょこんと正座していて、それが見鬼だった。ちょうど暇だったようで待っててくれたらしい。
「こんにちは。遅かったね、待ちくたびれちゃったよ」
いかにも上質な素材の真白な狩衣姿である。漆黒の髪は床の上に広がるほどに長く、前髪を結わえておでこを出しているのがえらく可愛らしい。こちらを見上げる美貌は見るたびにドキッとさせられるほどに整っているのだが、その瞼は伏せられ長い睫毛がぴたりと合わさっていた。
「よお。仕事帰りに冷血なおねーさんに置き去りにされたから歩いて来たんだよ」
俺は見鬼の正面に置かれた座布団に胡座をかいて座った。いつもこんな感じで俺たちは話す。
「ん……狗の匂いがするね。風間さんちょっと臭いかも」
「人のこと犬臭いとか言うな」
右手の傷はもう元通りだし水で流してきたから血の臭いはしないはずだけど、匂いまでは気が回らなかった。まあこいつの場合、実際に匂うというよりも感じるのだろうけれど。
「臭いなあ。低級の狗神なんて相手してたらキリがないよ?」
「そんなこと言ったって、ほっとくわけにもいかないんだよ」
狗神っていうのかアレ。そういえば犬がどうこう言ってたもんな、山之内ナントカさん。
「そうだ、禊のついでに一緒にお風呂に入ろうか?」
いいこと思いついたというふうに見鬼はにっこりと笑った。その笑顔はとびっきりの極上品だ。傍仕えの巫女さんたちも皆綺麗どころではあるが、見鬼のそれはレベルが違う。まだ十代前半くらいのくせに、その様はあまりに妖艶で、蠱惑的で、破滅的に美しい。今日まで何度も対面している俺だからころりと騙されたりはしないが、こいつにまつわる黒い噂を伝え聞く限り、その姿に魅了されて身を滅ぼした人間は大勢いる。
「嫌だね。おまえと入るくらいなら巫女さんと入る方がいい」
俺はすげなく断った。たとえ誰に何と言われようと、俺はこいつとだけはそういう気には一切ならない。理由は簡単なのだが――さすがに今のは失言だった。やべっと思った時にはもう遅い。見鬼の美麗な笑顔は一瞬で消え去っていた。
「……へえ。どれか気に入ったのがいるんだ。どれのこと? 風間さんはどれが好きなの?」
小さな体をこちらに乗り出して執拗に訊き出そうとしてくる。人間を指して『誰』ではなく『どれ』という言葉を選んで使う時点でこいつが他者をどう見ているかが伺い知れる。声のトーンは変わらないが、表情の消えた美貌には殺意と呼んでも過言ではないほどに強力な感情が宿っていた。ああ……事態は俺の恐れていた通りになってしまったようだ。
「ぼくよりも風間さんの心をとらえた側女がいるなんて許せない。ねえ、早く教えてよ。そいつ殺すから。一鬼? 二鬼? 三鬼? 四鬼? 五鬼かな? 六鬼でしょ? それとも七鬼? 八鬼かもしれないね? もしかして九鬼? やっぱり十鬼なんだ?」
「お、落ち着けよ、俺はべつにその中の誰がいいなんて……」
そもそも誰が誰かなんて知らないし。てゆーか彼女たちってそんな名前だったの?
「教えてくれないならいいよ、ぜんぶ殺すから」
空気が急速に冷えこみ、背筋を冷たいものが流れ落ちた。俺には見鬼が本気だということがわかる。こいつの嫉妬深さが常軌を逸していることをよく知っている。殺すと言ったならどんな手を使ってでも殺すだろう。ゆえに早くこの馬鹿げた誤解をといてやる必要があった。
「聞けって! 俺はそいつらの誰のことも好きじゃないって言ってるだろ! 俺は女が好きなだけだ、女がっ! あー、女となら一緒に風呂入りたいぜっ!!」
なかばやけくそになって叫んだ瞬間、障子が音もなく開いた。お茶を盆にのせた先程の巫女さんがそこにいた。
巫女さんは絶句したようにその場で固まっていたが、表情一つ変えずに茶と菓子を俺達の前に置くと、軽く一礼して何事もなかったように退出していった。
……絶対聞かれてたよな今の。彼女の中で俺は確実にお風呂プレイマニアの好色変態男の烙印が押されてしまったに違いなかった。