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次に目を醒ました時、ぼんやりとした視界いっぱいに玲子ちゃんの顔がドアップで映し出された。
横縛りにした栗色の髪。悪戯っぽい瞳。年齢のわりに幼い顔つき。いつも通りの白衣をまとった玲子ちゃんは、眼鏡の奥の目を何度かしばたたかせた後、少し照れたようにくすっと笑った。
「おはよう、一郎くん」
「……おはよう、ございます。あれ、玲子ちゃん……何してたんですか?」
「おしかったね、ちゅーする前に起きちゃった。いきなり目開けるからびっくりしたよ」
「え……?」
「薬は切れる頃なのにずっと寝てるから、ちゅーしたら起きるんじゃないかなって思って」
驚いたのはこちらの方だった。前にもこんなことがあったような気がするが、頭がぼーっとしてよく思い出せない。
俺から顔を離し、玲子ちゃんは枕元に近い位置に置いてあった椅子に腰かけた。
どうやら一般病棟にある俺の病室らしい。意識がだんだんとはっきりしてくるにつれ、気を失う前に起こったことが次々と思い出されてきて不安を感じた。
「えっと……今っていつですか?」
「あの日の二日後。一郎くんずっと眠ってたんだよ。紗羅ちゃんてば容赦ないから……ほんとごめんね。罰として一週間の自宅謹慎を言いつけたから、それで許してあげてくれるかな?」
紗羅さんが自宅謹慎? 俺にあのクスリを使ったから?
「許しますけど……もうあんなのは勘弁して欲しいです」
ゆっくりと上体を起こすと眩暈に似た感覚に襲われた。うえ、まだ気持ちわりぃ……。
「魅麻ちゃんの件は一郎くんの大手柄なのにあの扱いは酷いよねえ。しっかりお説教しといたから紗羅ちゃんも少しは懲りたと思うけど」
いや、あの人の性格上、懲りるとかないと思うんだ。何事も固い信念に基づいて行動してる人っぽいし……。
「そういや魅麻子は大丈夫だったんですか?」
「うん。記録は全部ビデオで見せてもらったけど、一郎くんて学校の先生になれるよね。紗羅ちゃんよりよっぽどうまく説得してたから驚いちゃったよ」
「そうじゃなくて、最後具合悪そうにしてたから」
「軽度の脱水症状を起こしてたけど、水分をたっぷり補給して休んだらすぐに回復したよ。今はおとなしくお部屋でお昼寝中。この二日間すごく素直で助かってる。でも少しそわそわしてる感じかな。今朝も『一郎はどうしてるの?』って訊かれたよ」
そっか、ちゃんと約束を守ってくれてるんだな。こっちもいつまでも寝てられない。約束は守らないと……って、そのことについて玲子ちゃんのお許しをいただかないといけないんだ。
「お見舞いの件はOKだよ。魅麻ちゃんの精神状態が良好に保てるんなら願ってもないよ。でも体調が戻ってからにしなね。どっちかって言うと一郎くんの方がよっぽど重症だったんだからさ。外に出たいっていうのはほんとはかなり難しいんだけど……見張りと一郎くんが付き添うっていう条件で、中庭になら出られるように申請しておくね」
さすが玲子ちゃんは話がわかる。大見得きって子供と約束を交わしてしまった手前、やっぱり無理でしたじゃかっこつかないもんな。ひとまず魅麻子のことはこれでなんとかなりそうだとして、俺の脳裏にもう一人の少女の顔が思い浮かんだ。
「……七奈は、どうなったんですか?」
「元気だよ。重度感染者に対してはH〇四もそんなに長持ちしないの。何回も使えば耐性も上がっちゃうから普段は使えないし。さっき見た時はベッドで本で読んでたよ」
それを聞いて少し安心したが、同時に嫌な気分がぶり返してきた。
「七奈ちゃんのことずっと黙っててごめんね。いつかは逢わせるつもりだったんだけど、一郎くんにとっても七奈ちゃんにとっても一番いいタイミングがいつなのか計りかねてたんだよ」
そういえば俺が七奈に再会できたのは玲子ちゃんの采配だった。そのことに対し少なからず責任を感じているようだった。
「一郎君は、七奈ちゃんに逢いたくなかった?」
「いえ、逢えてよかったです。良くなかったこともたくさんありますけど……知らないでいるよりは知ってよかったと思います。だから……ありがとうございます」
玲子ちゃんはホッとしたように軽く微笑んだ。俺もぎこちなく笑みを返した。
あいつはもう俺の知っている七奈じゃなかった。それでもあいつが生きていたことが嬉しいきもちも確かにあって……。やっぱりあいつは俺の妹で、俺はあいつの兄貴ってことなんだろうか。
「でも、もう逢いたくないです。次はまじで殺されると思うんで」
「あはは。今は落ち着いてるけど、薬が切れた直後の七奈ちゃんすごかったんだよ。殺す殺すってうるさいのなんの。すっごい兄妹愛だね。ちょっと妬けちゃうかも?」
そんな愛は嫌すぎる……。
落ち込む俺にまあまあと同情するように笑って、玲子ちゃんは改めてこう切り出した。
「もう少しお話しよっか。気分はどう? おなかすいてない?」
「はあ。大丈夫ですけど。お話って?」
「一郎くんのこと、かな」
意味深な物言いをして玲子ちゃんは俺の手に目を落とした。ゆっくりと彼女の手が伸びてきて右手の上に重なる。温かな手のひらの感触に少しドキッとした。
「この子のこと……感じる?」
心臓が一瞬だけ動きを止めた。
完全に思い出した。俺の右手には、あの蛇がいた。そいつは化け物に取り憑かれた七奈の前で姿を現し、魅麻子のミズチに対しては俺の意志に従い水龍の頭を一撃で粉砕した。彼女らが異常だというのなら、俺の中にいる化け物もまた異常そのもので、だからこそ紗羅さんは確実な処理として俺にクスリを使った――――
「俺は……人間ですよね?」
質問に質問を返す形になってしまったが、玲子ちゃんは気にせず優しい微笑を浮かべた。
「前も言わなかったかな。きみの扱いがボクがきみを信用してる証だよ。それはきみが人間だっていう証。D症候群研究の第一人者であるボクがそれを与えてるんだから、安心していいよ」
その言葉だけでなんだかすごく安心した。実際、俺は今も元の自分の病室に寝かされていた。目を醒ましたら特別医療棟の檻の中という可能性だって充分にあったはずだ。彼女が俺を信用してくれているのは間違いないし、玲子ちゃんはやっぱり優しい人だと思った。
「右手はわりと普通です。七奈の時は感覚がなくなって勝手に動いたりもしたけど、右手のこいつ自体がびびって暴走したというか、身を守らなきゃって感じになってたんだと思います」
「魅麻ちゃんの時は? ビデオ見たけどすごいことしてたよね」
「あれは俺がそうしようって思って、念じた通りにこいつが動きました」
「なるほどね。右手の子、今出すことはできる?」
「……やってみます。危ないかもしれないから手離してもらっていいですか」
玲子ちゃんの手が離れたことを確認してから右手に意識を集中させた。
拳に力をこめたり念じたりと試してみると、すぐに親指の付け根あたりに小さな痛みを感じ、短い亀裂のような線が肌に浮かび上がった。それがゆっくりと開き、赤い宝石を埋めこんだような鮮やかな真紅の目玉がぎょろりと動いて俺を見た。
玲子ちゃんが隣で息を呑む気配が伝わってきた。俺も我が事ながら唖然としていた。それはあの蛇の目だった。角だけじゃなかったのだ。
「も、もうちょっと続けてみます」
右手に向けて出てこいと念を送り続けると、はたしてもう一つの目が開き、やがて手首の辺りから黒ずんだ細かい鱗が生え始めた。鱗が手の甲までを浸食したかと思うと目の辺りが瘤のように膨らんできて、額にあたる位置からずずっと黒い角が生えてきた。黒い蛇の頭の上半分が俺の右手に乗っかっているような感じといえばわかりやすいだろうか。なんとも気色の悪いショッキングな光景だった。
「これって……俺にも七奈に憑いてると同じ奴が憑いてるってことですよね……?」
「うん。しかも右手の異常患部がこれほどに顕在的だとすると、水準としては重度感染者に該当するかも」
「てことはやっぱり俺も特別医療棟入りですか!? いやだ! 絶対いやです!」
あんなとこに閉じこめられるとか死ぬより残酷だ。なによりもあそこには、あいつがいる。
「まだ説明途中だよ。大事なことだからちゃんと聞いてね。――前にD症候群っていうのは神様の祟りだって教えたよね。正式名称は『寄生性非同一型祟状症候群』。何に祟られるかによって起こる症状が違うからついた名前だよ。そして祟り――寄生には段階があってね。まず神様――寄生体が人間の中に入りこむ。すると肉体の特定部位が変化して、その右手みたいに通常ありえない器官が形成される。これを『異常患部』って呼んでるの。同時に『精神汚染』が進み、やがて別人格が現れたりする『人格変貌』が起こる。代謝異常の度合いは人によってじゃっかん異なりながらも、肉体と精神が連動するように異常を示すわけ。それらの異常レベルと病状の重さはほぼ正比例の関係なんだ」
玲子ちゃんは眼鏡の位置を調整しながら講義口調で続けた。
「ただし今説明した流れは必ずこうなるっていうものではなくてね。中には感染後、寄生体がまったく活動しない場合もあるし、その場合は異常患部も未発達のまま精神的にも比較的安定することが多い。彼らが軽度感染者……つい最近までボクは、一郎くんはそのタイプだと思ってたんだよ」
過去形ってことは、今は違うってことだ。玲子ちゃんは誤診だったことを認めたのだ。
「一郎くんは軽度感染者じゃなかった。異常患部がこれほど顕在的で活発な活動を行う以上、レベル4――重度感染者に分類されてしかるべきだと思う。だけどきみの場合はさらに特殊なんだよ。これまでの検査結果をみても精神汚染の形跡は皆無だし、人格変貌が起きてるふうには見えないし――この異常性がわかるかな?」
そして玲子ちゃんはきっぱりとこう言った。
「寄生体がこれほど活発なのに、どうしてきみはそんなにも人間のままなんだい?」




