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「……なにをしたの?」
驚きに彩られた声に振り向くと、閑崎魅麻子が困惑した様子でこちらを見つめていた。
床に半分くらいめりこんだままの黒い刀が俺の右手から伸びているのを見て、その瞳が大きく見開かれる。
「その手はなに? どうして私のミズチが消えちゃったの?」
「んっと……企業秘密。というより俺もよくわからないんだが」
俺は刀をゆっくりと持ち上げて右手にしまいこむよう念じた。手品のごとく手の中に吸いこまれていく黒い刃を見つめる幼い視線がこそばゆい。
やがて刃が完全に見えなくなると、魅麻子は胸の前でぬいぐるみをぎゅっと抱きしめたまま昂奮気味に口を開いた。
「もしかして、おじさんもここに閉じこめられてたの? 私と一緒にお外に出たい?」
「んにゃ、俺はちょっと違くて……ってゆーか『おじさん』って俺のことか!? まだそんな歳じゃねえから!」
「いくつなの? 私は十歳」
「二一だ」
「やっぱりおじさんじゃない」
「ちがう! お兄さんだ!」
思わずムキになってしまった。さすがにまだ学生なんだからおじさん扱いは勘弁してもらいたい。
「ったく、俺は風間一郎っていうんだ。一郎お兄ちゃんって呼んでいいぞ。妹がいるから呼ばれ慣れてるし」
妹という言葉にズキリとした痛みを胸に感じたが、それを押しこめて俺は無理に笑顔を浮かべた。
「……わかった。一郎って呼んであげる」
「呼び捨てかよ! じゃあ俺も魅麻子って呼ぶからな!」
最近の十歳はみんなこんな生意気なのか? 調子が狂ってしまったが、俺は努めて穏やかな口調で話を続けた。
「なあ魅麻子、今日のところはあのおねーさんの言うことを聞いて部屋に戻ろうぜ? この先にはもっと怖いおっさんたちがたくさんいると思うんだ。やめといた方がいいって。な?」
「嫌っ! そんなの全部殺してやるんだから。一郎も私の邪魔するの?」
魅麻子の雰囲気が変わった。俺を睨む幼い瞳に狂気の光が宿る。髪からぽたぽたと水が滴り落ち、中空で急に軌道を変えて鞭のようにしなったかと思うと無数の龍の顔を出現した。先ほどよりも小さな龍が幾つも牙を剥いて俺を威嚇した。
「ミズチはいくらでもあるんだから。この子たちがいれば私は負けないんだから!」
「――風間! そいつから離れろ!」
後ろで紗羅さんが叫んだ。すでに装填を終えた銃を魅麻子に向けている。
が、俺は返事をする代わりに肩をすくめてみせた。さっきから見ていて思ったんだが、紗羅さんは子供の扱いが致命的にヘタクソだ。ムキになっている子供に駄目を繰り返しても意味がない。
俺は魅麻子に優しい笑顔を向けた。こういう時はまずこちらに敵意がなく、安心させてやるのが一番だ。
「……なに? 不気味な顔しないで。バカにしてるの?」
「不気味って言うな! おまえ口悪いなあ……。とにかく、そんな物騒なのしまえって。俺はもう刀出してないだろ?」
少女が訝しげな顔に変わったところで一気に畳みかける。
「魅麻子の病気はまだ治ってないんだ。部屋で静かに寝てないといつまでも治らないぞ? 勝手に外に出てみんなに心配かけちゃ駄目だろ」
「そんなことわかってる。だけど退屈でつまらなかった。誰もお見舞いにきてくれないし、お部屋から出してもくれないのよ。だからお外に出たかったの。もう寂しいのは嫌なのっ!」
魅麻子は泣きそうな顔になって絞り出すような声をあげた。きっとそれは紛れもない少女の本心で、この子は純粋にただそれだけが望みだった。
俺の思った通りだ。だったら、話は簡単だよな?
「わかった。じゃあさ、俺が魅麻子のお見舞いにいく」
少女はぽかんとした顔になって、まじまじとこちらを見返してきた。
「一郎が……?」
「うん。今から俺と友達になろうぜ。友達ならお見舞いに行くのも当たり前だ。俺もこの病院に入院中だから毎日は無理かもしれないけど、暇な時は逢いに行くって約束する。外に出るのもさ、お医者さんと話してちょっと散歩するくらいなら許してもらえるようにお願いしておくから、今日のところは部屋に戻ろうぜ?」
「…………」
「あ、おまえ俺のこと疑ってるだろ? ひっでーなあ、大人はすぐ嘘をつくとか思ってるだろうけど、俺はまだ若いお兄さんだからな」
戸惑ったように目をぱちくりとさせた後、魅麻子はぽつりとつぶやいた。
「……約束、破らない?」
「ああ、友達との約束は必ず守るもんだ。だから魅麻子も約束してくれよ。もう勝手に部屋を出ないって。な?」
「…………」
魅麻子はしばらくの間沈黙していたが、やがて胸の前でぬいぐるみをぎゅっと抱き締めながら、小さく頷いた。
「わかった。……嘘だったら、絶対に殺すから」
その言葉が合図だったようにミズチの群れがすっと消え去った。
ホッと安堵したのも束の間、魅麻子は体からふっと力が抜け落ちたように急にその場に頽れた。手放したぬいぐるみがどさりと床に落ちる。
「おい、どうした?」
びっくりして駆け寄ると、魅麻子は背を丸めてぜいぜいと荒い息を続けていた。元々顔色が悪かったのがさらに血の気を失って紙のようだった。
「ちょっと疲れただけ。……バカね、ミズチを消してしまったのは一郎じゃない」
その言葉でハッと背後を振り返った。床には紗羅さんをびしょ濡れにした大量の水が残ったままだった。あの水を体に戻せなくなったせいで魅麻子は苦しんでいるのか? 強がっていたくせにやけに聞き分けがよかったのは、本当はもう限界が近かったのかもしれない。
「バカはおまえだ! 子供が無理すんな、病気なんだぞ!」
「水が飲みたい……」
「わかった。すぐ用意するからな。――紗羅さん! 魅麻子の病室はどこですか? 俺が運びます。それと飲める水をなるべくたくさん用意してあげてください」
紗羅さんは驚いた顔をしたが、インカムから何か指示が飛んだのか、すぐにいつもの冷静さを取り戻すと俺と魅麻子を追い抜いてスタスタと歩き始めた。この様子なら足の具合は大丈夫そうだった。
「こっちだ、ついてこい。水はすぐに運ぶよう手配した」
立ち上がることすらできない様子の魅麻子に、俺はその場で腰をかがめて背を差し出した。
「ほら、オンブしてやるから。遠慮すんな、友達だろ?」
「……やだ。おしり触られたくない」
「さわらねーよ! それじゃお姫様ダッコしてやるから感激しろ!」
俺は魅麻子の膝裏と肩に腕を回して抱き上げた。見た目通り華奢な体はびっくりするほど軽かったが、十歳やそこらだとこんなものなのかもしれない。子供らしい手足は病的なまでに細く、ちょっと力を入れただけで壊れてしまいそうで緊張してしまう。息のかかりそうなほど近くに少女の顔があり、長い睫毛に覆われた目が俺を見上げてこう言った。
「なに意識してるの? ろりこんなの?」
「ちっげーよ! 病人は黙ってろ!」
階段の前で待っていた紗羅さんと合流し四階へ移動する。ミズチに破壊された元の病室ではなく、空室だった隣の病室へと魅麻子を運びこんだ。
荒い息を続けている少女をベッドに寝かしつけたタイミングで数名の看護士たちが現れて、ペットボトル入りの水がダースで届けられた。魅麻子はそれを四リットルも一気に飲み干してようやく一息ついたらしく、すぐに安らかな寝息をたて始めた。その寝顔を見て俺はようやく安心することができた。
この日起こった〝D〟脱走事件はこうして一応の収まりをみせたのだが……当然、これだけでは終わらなかった。
眠った魅麻子を部屋に残して廊下に出たところで、紗羅さんがおもむろに切り出した。
「風間。よくやったと誉めてやりたいところだが、その右手をこのまま放置しておくわけにはいかん。非常事態ゆえ先延ばしになっていたが、この場で貴様の身柄を拘束する」
「あ、やっぱり……?」
看護士たちが俺を両脇から固め、一人が先ほど見た拳銃型の注射器を取り出して俺の首に当てる。抵抗する間もなくプシュンとちゃっちい音がして、かすかな痛みを感じたと同時に脳内にお花畑が広がった。一瞬で意識はぶっ飛んでお空の向こう。思考は意味を成さず、ぐにゃりと世界が歪んで見えたのを最後に、俺の意識は真っ暗な穴の中を転がり落ちていった。




