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ナイトメアリー・ディオニュソス  作者: SOA
seven / another
35/50

3-2

 俺の右手がその時、みしりと軋みをあげた。

 慣れない痛みに顔をしかめる。そこに潜む蛇が敵の気配を敏感に捉え、再び姿を現そうとしていた。

 今はまずい……俺は左手で右手を隠すようにしながら一歩後退した。

 紗羅さんは水の龍を纏う少女を睨みつけながら果敢に対峙していた。

「閑崎魅麻子。貴様の退院手続きは済んでいない。すぐに病室へ戻れ。これは警告だ」

「あそこは嫌。退屈だもの」

 幼い声でそう言って、少女はその場でくるりと体を回転させた。龍がそれに合わせて舞い踊り、水飛沫がキラキラと光を反射しながら辺りに飛び散る。

 すたん、と華麗に足をついた少女は、まったく怯むことなく紗羅さんを見つめ返した。

「あら……あなた見たことがある。私をここに連れてきた人ね? 私はお外に出たいの。だから邪魔しないで?」

「悪いが、それはできない」

 耳をつんざく激音が廊下に響き渡った。少女の肩の辺りのパジャマの布地がはじけ飛び、衝撃で小さな体が傾いた。

 思わず目を疑った。いくら少女が異様な水の龍を出したとは言え、本当に撃つなんて信じられなかった。会話だって一応は成立しているのに……こんな子供相手に、あんた鬼かっ!?

「紗羅さん、ちょっと――」

「黙れ。貴様は最初から頭を撃ち抜くぞ。下がっていろ」

 こっちまで本気で撃たれかねない雰囲気だったので俺はそれ以上何も言えなくなる。

「痛い」

 呆然と撃たれた箇所を見つめていた少女がぽつりとつぶやいた。ミズチがうぞりと首を動かし、水でできた舌で少女の肩の傷口の血を舐めとると、銃創は魔法のようにすっと跡形もなく消え去った。

 少女が唐突に、狂ったような笑い声をあげた。

「あは、はは、ははっ。痛いよ。楽しいね。痛い。楽しいな。うふ、あはは。楽しいの好き。遊んでくれるんだ? いいよ、痛くしてあげる。痛めばいい。もっと痛め、いため、いためっ!」

 狂気じみた声に呼応して渦巻く水の龍が動いた。

 長細い体が目にも止まらぬスピードで少女の体を滑り落ち、床に触れる直前で直角に折れ曲がる。蛇のようにうねり、しなりながら高速で床を疾り抜ける水の龍が紗羅さんの足に触れ、獲物を捕らえる動きでぐるりと膝に巻き付いた。

 紗羅さんの顔が苦痛に歪んだ。帯状の水が凄まじい力で肉を締め付けていた。その先端に龍の顔が出現し、鋭い牙の並んだ顎を大きく開く。獲物の動きを封じたところで咬み破るつもりなのだ。

 紗羅さんが銃口を下に向け、脚に絡みつくミズチめがけて弾き鉄を絞った。銃声が連続し、龍の体が千切れ飛ぶ。

 戒めがとけたのと同時、紗羅さんは片足で後ろに跳んで距離を開いた。砕け散ったミズチの残骸は床に落ちて水溜まりとなったが、すぐに水が集まって再び元の龍の姿が復活した。――そのすべてが数秒の出来事だった。

「くっ……化け物め!」

 紗羅さんが吐き捨てるように言って、再び銃口を相手に向ける。

「ねえ、どうして私をお部屋に閉じこめたりするの? どうして邪魔するの? 私はお外に出たいだけなのに」

 不思議そうに小首をかしげる少女の姿が、死闘の最中だからこそ異様に際だった。俺はその時なぜか、この子にはもしかしたら悪意はないんじゃないかと思った。

 ただ純粋のままに行動し、純粋のままに人外の力を振りかざす幼い悪魔――それは恐ろしくもある一方で、ひどく哀しくもあった。

 きっとこの子と戦っては駄目だ。

 紗羅さんはけれど、あくまで少女の望みを通すつもりはないらしい。たとえ勝ち目の薄い戦いであったとしても、彼女はけして信念を曲げない――この人はそういう人だ。

「言っただろう、貴様を外に出すことはできん。悲劇を繰り返すな。たとえ貴様自身が何も憶えていなくとも、罪は消えない」

「……ゆってることがわからないよ? うるさいし、もういい。あんたなんか死んじゃえ」

 幼い声が死の宣告を下した。黒髪から雫がぽたぽたと滴り、それを吸収してさらに倍近くまで巨大化した水龍が激しく咆哮した。

 紗羅さんは足がまだ使えないのか膝立ちのまま動かない。いや、たとえ万全だったとしても、人間の反射速度ではミズチの動きは捉えきれない。

 彼女は相討ち覚悟で銃口を本体である少女に向けていた。その狙いを遮るように水龍が少女の前に立ち塞がり、いましも獲物に飛びかからんとしてじりじりと間合いを詰める。

 両者の距離が五メートルを切った。場は一触即発……互いが必殺の間合いで最後の激突を繰り広げようとしていた。

 そして――俺はもう傍観することをやめていた。

 近くでずっとミズチの気配をびんびん感じていた右手は、すでに抑えきれないほどに感覚が研ぎ澄まされている。

 おい……もう我慢しなくていいんだぜ? と少し念じただけで右手の甲を突き破って黒い刃が先端を覗かせた。

 誰もまだこちらの動きに気づいていない。俺はもっと伸びろと静かに念じ続ける。刀はすぐに一メートルに達した。まだだ、もっと伸びろ。一〇〇、一五〇、二〇〇、二五〇……三〇〇。これくらいが限界か。この長さなら充分のはずだ。

 俺の位置からはちょうど両者を左右に見渡すことができる。絶好の位置取りで、俺は辛抱強くその時を待った。

 ――紗羅さんが先に仕掛けた。ワルサーが火を噴き銃声が連続で響き渡る。

 超音速で発射された銃弾に反応することなど何者にもできはしない。狙いに時間をかけたのは、龍のもっとも薄い部分と本体の重なる部分を探していたに過ぎないはずだ。ゆえに彼女の放つ魔弾は水の龍を容易たやすく貫通し、背後に守られた少女の体を確実に撃ち抜く――はずだった。

 信じられないことが起こった。銃弾が水龍に触れた瞬間、前進する動きを止めたのだ。

 被弾の衝撃に水の体がぶよんぶよんと震え、反動で押し戻された鉛の塊がころころと床に転がり落ちた。龍は見た目を変えないまま、抜群の弾力をもつゼリー状へと変化していた。

 紗羅さんが舌打ちを響かせて残り数発の銃弾を放つ。龍の隙間を狙ったそれも細長い体に塞がれ叩き落とされた。弾切れを告げるカチッという音が虚しく辺りに鳴り響いた。

「バカね。私の勝ち」

 魅麻子が勝利を確信した笑みを浮かべた。それに呼応してミズチが牙を剥き、無防備となった紗羅さんへと一直線に襲いかかる。

 ぐんと伸びた水龍の長い首が、あの時七奈に襲いかかった大蛇の姿と重なった。それを見た瞬間、頭が真っ白になるほどの強烈な感情が俺の脳を直撃した。

 ……ああ、わかってるさ。あんなのは二度とごめんだ。

 目の前の誰かを救えない悔しさを、やるせなさを――俺はもう絶対に味わいたくない!

 時は満ちた。

 ミズチはもう硬度を元に戻している。それは予感……いや、確信だ。ゼリーの牙じゃ人は殺せない。今の龍は撃てば砕ける。しかし紗羅さんの銃は弾切れ――ならば今こそ俺の出番だった。

 俺は大きく振りかぶった右手を、長大な漆黒の刀身を、全身全霊の力をこめて振り下ろした。

「せぃやぁああああっッッッ――――――――!!」

 狙いは首ではなく頭――今度こそ確実に潰す。

 遠心力でさらに刀の間合いが伸びた。天井の配管と電灯を紙のように切り裂き、奥の壁をも削り取りながら、漆黒の断頭台が水龍の頭を両断した。

 そこから先の光景は、まるでスローモーションがかかったようだった。

 今にも紗羅さんを飲みこもうとしていた龍の鼻ッ面が斜めに分断され、砕けるように中空で形を失った。

 変化は連鎖反応的に龍の体全体を崩壊させ、大量の水の塊となって勢いそのままに降り注いだ。

 バシャッ――と激しく水を叩きつける音が響き渡った。

 俺は刀を振り下ろした姿勢のまま、恐る恐る紗羅さんの方を見た。

 全身濡れ濡れのクールビューティが、そこにいた。髪といわず服といわずびしょ濡れで、真っ白なシャツがぺたりと肌に張り付き、大人っぽい黒のブラが透けて見えた。

 呆気にとられた様子の紗羅さんだったが、俺の視線に気づくとハッとした顔で胸元を手で隠し、視線だけで人を殺せそうな目で睨みつけてきた。すでに脳内HDDにばっちり保存済です、ごちそうさま。

 そんなことをしてる余裕があったのは、ミズチがすぐに再生することをすっかり失念していたからなのだが――しかし床に広がった水溜まりから水龍が復活する兆しはなかった。


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