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俺を押さえつけていた男たちがどよめきの声を上げた。
脱走……?
聞き間違いじゃないかと思って紗羅さんの顔をまじまじと見る。だって、特別医療棟って……ここじゃんか!
「この真上の階だが、まだ病室の第一壁が破られた段階だそうだ。奴が外に出るためにはまだ第二壁がある。ここに来るための階段は中央に一つきりだ。落ち着いて避難を開始すれば間に合う」
七奈の病室に入っていた男たちも出てきて合流し、紗羅さんの指示のおかげで全員が落ち着きを取り戻したようだった。非常事態にこそこういう冷静沈着な人が必要なのだということが身にしみてわかった。俺と男たちだけだったらパニックになっていたと思う。
「風間、貴様の処遇は後回しだ。行くぞ」
注射される前だったのが幸いした。クスリを打たれてラリラリだったら避難の邪魔になるし、そうなれば紗羅さんのことだから余裕でこの場に放置してくれていただろう。
七奈の病室の施錠を済ませ、全員で来た道を駆け足で戻り始める。
紗羅さんは一番前で注意深くインカムの音を拾いながら内容を俺たちに聞こえるように口に出していた。
「中央棟の職員と中軽度患者たちの避難誘導に合わせ、警察と警備隊が連絡通路のある三Fと一Fの連絡口に防衛線を展開中だ。貴様らの避難が済んだら私もそちらに合流する」
さすがこういう施設だけあって非常事態に対する対応も早い。思ったより心配することもなさそうだなーなんて脳天気なことを考えていた時、それは起こった。
「――なにっ!?」
イヤホンから何か指示があったのか、紗羅さんが急に足を止めて後ろを振り返った。全員が驚きの表情で立ち止まったのと同時に、紗羅さんが重々しく口を開いた。
「第二壁の損傷拡大……隙間から〝D〟が廊下へ出た。まっすぐに階段を目指して逃走中だ。すぐにここに来るぞ」
絶望的な内容を口にするその声は、震えてこそいないがそれまでにない緊張に満ちていた。
「私はここで奴の足止めをする。狭山、貴様が他の連中を先導して避難させろ」
信じられないことを口にして、紗羅さんは一人だけ体の向きを変えると銃を抜き放ちセーフティを解除した。
狭山と呼ばれた男は裏返った声で返事をして仲間と一緒に逃げるように走り出した。男たちはそのまま足を止めずに我先にと廊下を走り去っていく。紗羅さんを残して。……俺を残して。
耳障りな警報音がやっと止まった。辺りを赤いランプでくるくると照らす警告灯の光をぼんやりと見つめながら、俺はその場で立ち尽くしていた。
えーと……これでよかったのだろうか。俺はもともと紗羅さんにここに連れてこられたわけだし、当然紗羅さんについてここを出ていくことになると思っていたので、彼女が残ると言い出した以上は俺も自動的に残ることになるんだろうなと考えたわけだが。
「か、風間っ!? なんで貴様が残っているんだ!」
ようやく俺の存在に気づいて今までで一番驚いた顔をする紗羅さん。普段表情の変化が乏しい人だけに、こういう顔を見ることができたのはラッキーかもしれない。
「なんでって……置いてかれちゃったし」
俺がここにいるのがおかしいっていうなら、狭山がデカイ図体してるくせにびびって俺を忘れて行ったのが悪い。そう釈明しようとしたところすごい剣幕で怒鳴られた。
「このド低脳がっ! 私は防衛線が整うまで〝D〟の足止めをせねばならんのだぞ! 貴様がいたら邪魔なだけだ、すぐに消え失せろゴミ虫めっ!!」
荒れ狂う奔流のようにむちゃくちゃに罵声を浴びせられて、ちょっとすっきりした。こんだけ言われれば俺も心おきなくおさらばできるってもんだ。
「そんじゃお先に失礼します。でも紗羅さん、ほんとに気をつけて――」
最後にと振り返った時、本気で邪魔そうにこちらを睨みつけている紗羅さんの背後の廊下に、ぼんやりとした白い姿が見えた。
あれ……女の子、か?
ぼーっとそちらを見つめていると、俺の視線に気づいた紗羅さんがハッとしたように振り返った。
「閑崎、魅麻子……!!」
それは十歳くらいのあどけない少女だった。真っ白なネグリジェのようなパジャマ姿で、眉の高さと肩口でぱっつんと切り揃えられた黒髪と頭の上の大きな黒いリボンが印象的で可愛らしいのだが、その瞳は虚ろで肌の色も死人のように蒼白かった。
少女は片手で大きめのぬいぐるみを引きずりながら、素足のままぺたぺたと廊下を歩いてくる。奇妙なことに、衣服は濡れていないのに少女の髪からはぽたぽたと水滴が滴っていた。まるで水の中から上がってきたばかりのように、歩いてきた跡に小さな水溜まりが点々と廊下の先にまで続いていた。
「そこで止まれ。一歩でも動けば撃つ」
紗羅さんが油断なく銃を構えたところで、少女の足がぴたりと止まった。
虚ろな双眸は少し前の床の辺りを見つめたままで、その間も切り揃えた黒髪の先からは水が滴り落ちていた。
「止まりましたね。なんかわりあい素直だったり?」
「まだいたのか貴様……!! 見た目など関係ない。あの少女はレベル4――重度感染者だ!」
その言葉に反応したように初めて少女が顔を上げた。
虚ろな目が紗羅さんの姿を捉えた瞬間、髪から滴り落ちる水の雫が一滴、宙に浮かんだままピタリと静止した。まるで映像を一時停止したような不自然――次の刹那、宙に浮いた小さな雫が爆発的に増殖したかと思うと、水飛沫を上げながら『それ』が姿を現した。
「ミズチ……!!」
紗羅さんが小さく呻き、その隣で俺は絶句していた。
光を乱反射する透明な管のような細長い体、日本画に描かれた龍に似た頭部――それは水で再現された龍そのものだった。
まるでCGじみた水の龍が少女の小さな体に絡みつきながら、こちらを威嚇するように透明な牙の並ぶ顎をカチカチと鳴らした。




