*** (2)
水への憧憬はそのまま水の神様であるミズチにも繋がった。
私は学校や役場の図書館で借りてきた本をたくさん読んで勉強した。
ミズチ――『蛟』。あるいは神霊宿る水の意をこめて『水ツ霊』とも書くそうだ。
元は中国から伝わった龍の伝承が、日本では水神や龍神として崇められるようになった。特におばあちゃんの家のある青森や東北地方で古くから信仰され、土地神としての性格も強い。
ミズチは日照り続きに雨を呼び水害を防ぐ守り神であり、一方で大雨と嵐を招き人を水に引きこむ水魔としても恐れられる。神様はいい方ばかりじゃなくて、悪いことをすれば罰を与える存在でもあるんだ。
地域によっては、ミズチは龍の姿ではなく巨大な山椒魚や頭に皿のある魚のような姿で伝わっている。頭に皿って河童みたいで変なのって少し笑っちゃったけど、罰があたると怖いからすぐにごめんなさいって心の中でつぶやいた。
そうやって色々と学ぶうちに私はいつしか、ミズチの棲むという御山の竜ヶ淵にお参りに行きたいって強く思うようになっていた。
今年になって、少しだけ私の体は良くなっていたから。
発作もあまり起こらなくなっていたし、このままなら竜ヶ淵へお参りに連れて行ってもらえるかもしれないって思った。神様の棲む水はどんなにか綺麗なんだろうって想像して、それだけで嬉しかった。
けれど四月になったばかりのある日、おばあちゃんが倒れてしまった。
夜中にふと目が醒めて、水を飲みたくって台所に行ったら床に倒れているおばあちゃんを見つけた。泣きながらお母さんに電話して、すぐに救急車が来ておばあちゃんを病院に運んでいった。
次の日になってお父さんとお母さんが新幹線でやって来てくれたけど、二人だけで病院に出かけて行って、帰ってきた後も私には何も教えてくれなかった。夜になって二人がひそひそ話をしているのを見た。すごく嫌な予感がしたのを憶えている。もしかしたらおばあちゃんが死んでしまうんじゃないかって思った。
哀しかった。そして信じられなかった。死んじゃうのは私の方が先のはずだった。だって、私の体の中はめちゃくちゃで――心臓だけじゃない、肺も、その他も、なにもかもがぼろぼろのできそこないで、いつ死んでもおかしくないって言われながら、今日までたまたま生き残っていただけなんだから……。
優しいおばあちゃんが、大好きなおばあちゃんが死んじゃうなんて絶対に嫌だった。でも、どうすれば助けられるのかわからなかった。
そんな時、幼い頃に聞かされたお話のことを、ふっと思い出した。
――ミズチさまの卵はすごく栄養があって、食べるとどんな怪我も病気もあっという間に治るんだよ。だけど卵はなかなか見つからないところに隠してあるから見つけるのは大変さ
おばあちゃんはたしかにそう言っていた。どの本にも卵のことで具体的な場所は書いてなかったけど、私はおばあちゃんに教えてもらったはずだ。ミズチが卵を隠している場所を。
記憶の糸をたぐり寄せ、おばあちゃんの言葉の一つ一つを思い出す。いつかきっと掘り返しておばあちゃんと食べようって子供心に決めた思い出。
いつか――今がその時なんだって、確信した。
早朝、両親が病院へ出かけていったのを見計らって私はこっそりと家を抜け出した。
全部一人でやるつもりだった。大人はきっとこんな話を信じないだろうし、お父さんとお母さんに話しても私が御山に行くことを反対するに決まっていたから。
リュックサックに水筒とお菓子、それと納屋で見つけた小さなスコップを詰めこみ、庭から見える御山を目指して歩き始めた。
バスを乗り継ぎ御山の麓まで移動し、そこからは林道を徒歩で歩いた。
ハイキングコースと書かれた看板に竜ヶ淵までの道筋は書かれていたので、迷う心配はなかった。山道は斜面になっていたけれど、覚悟していたよりもずっとなだらかで歩きやすかった。途中誰ともすれ違うことなく私は黙々と歩き続けた。
目的の場所に辿り着いた時には額にうっすらと汗をかき、息も少しあがっていた。
山道から分岐した細い獣道を少しいくと、まばらに樹々の生えた台地になっていて、その先端に転落防止用の木の手すりがあった。手すりの向こうは崖になっていて、十メートルくらい下に青く煌めく水を湛えた神秘的な淵が広がっていた。
ここが竜ヶ淵――――
美しい景観に魅せられながら、感動と安堵がない交ぜになって胸がいっぱいになった。途中で力尽きてしまうことが一番心配だったけれど、私はここまで辿り着くことができたんだ。
淵に流れこむ水は御山のさらに奥から続く清流で、それが山の斜面に沿って流れ落ち、緑の樹々や美しく咲き誇る山桜に囲まれた深みに自然の淵を形成していた。
大きく深呼吸して息を整えながら私は、きらきらと輝く水面に心奪われた。
手すりの近くに立っていた案内の看板を見て、驚いた。淵の終端から麓へと続く川は、かつて私が初めて水遊びをした川と同じ名前だった。私はずっと昔にもう、竜ヶ淵とミズチの一部へと触れていたのだ。
きっと私が今日ここに来ることも運命だったのだろう。懐かしい想いが胸に蘇り、淵の水にこの手で触れたいと思った。
けれど竜ヶ淵の周りは切り立った崖になっていて、とてもじゃないけど下りることはできそうになかった。どこかに階段がないか探したけど、それらしきものもない。
途方に暮れてぼんやりと立ち竦んでいると、不意にどこからか鳥の鳴くような声が聞こえた。言葉にすると『ケェーッ』というような音だった。同時に一瞬だけ地面がぐらりと揺れた気がした。
不思議に思ってきょろきょろと辺りを見回した。そして足下に視線を落とした時、ハッと息を呑んだ。
よく見ると、崖の周りには全部草や木が生えているのに、私の立っている地面の辺りだけが円を描くように土肌が剥き出しになっていた。
――ミズチさまの卵は土の中にあるんだよ。竜ヶ淵の周りにはたくさん草が茂っているけれど、卵が埋まっているところには草も木も生えない。それが一番の目印さ。だけど気を付けるんだよ。卵に人が近づくと地鳴りが起きる。それは卵が孵る前兆なのさ。早く掘り出さないと、卵から孵ったミズチさまは巨大な地響きと共に天に昇り、雨になって淵に戻ってくる。その時には必ず雷が落ちて、強い嵐になると言われているんだよ。
胸の鼓動が早くなった。
状況のすべてが記憶の中の言葉に符号しているように感じた。地鳴りは卵が近くにある証拠で、ここがミズチの卵の埋まっている場所にちがいないって確信した。
私は円の中央に移動すると、スコップで土を掘り始めた。固そうに見えた地面は思ったよりもずっと軟らかくて掘りやすかった。
途中でまた地鳴りがして、先ほどよりも少し大きく地面が揺れたようだった。今度ははっきりとそれが鳴き声だとわかった。地面の下で何かが小さな声をあげて、そのたびに地面が揺れるのだと思った。
急がないと卵が孵ってしまう。私は夢中で手を動かし続けた。額を汗の雫が伝い落ち、すぐにスコップを握る指が痛くなったけど、構わずに地面を掘り続けた。
最初は白茶けていた土の色がだんだんと濃い茶色に変わり、三十センチくらいまで掘り進めた時、スコップの先が硬い何かに触れた。
スコップを脇に置いて、震える手で穴の底の土をゆっくりと払いのけた。細かい土に埋もれるように白っぽいものが見えた。
卵だ! やっぱりここに埋まってたんだ!
喜びと昂奮が体中を満たし、勢いこんで卵を掘り出そうとスコップを握り直して――だけどそこまでだった。
ドクンッと。
まるで体の中で何かが暴れ回るような嫌な感覚が不意に訪れた。
あ、まずいかも、と思った瞬間――心臓を鷲掴みにされたような激痛が胸を貫いていた。
発作だった。最近はずっと安定していたはずなのに、よりによってこんな時に……最低だった。
お薬は脇に置いたリュックの中に入っていた。地面にうずくまりながら必死に手を伸ばそうとしたけれど、それだけで胸が万力で締め付けられるようだった。
私はそのまま動けなくなった。
今は耐えるしかない……落ち着いて、ゆっくりと息を整えるんだ。発作は長くは続かない。痛みが引いたらお薬を飲んで、それできっと大丈夫だ……。
その時、再び地面が揺れた気がした。
まさかと思って穴の中に目を向けると、卵が静かに震えていた。地面が震えているのかもしれないし、両方だったのかもしれない。
揺れは断続的に続き、そのたびに鳥が激しく鳴き叫ぶような声が辺りに谺した。それは私の焦りを掻き立てるようだった。
ミズチが卵から孵る前兆にちがいないと思った。焦りは頂点に達し、放り投げていたスコップをつかむと、左手で心臓をかばいながら土を掘り始めた。
手を動かすたびに胸を突き刺すような激痛が疾り息が止まった。冷や汗が全身から吹き出し、体の中が燃えるように熱いのに、どうしようもないほどの寒けを感じた。歯を食いしばりながら、大きく振り上げたスコップを力いっぱい振り下ろした。
バキャッ――と異様な音がした。
私は目をむいた。卵の表面に黒いひびが入っていた。
なんてことだろう……あと少しだったのに、揺れで狙いがずれてしまったんだ。
涙が溢れてきてぼろぼろとこぼれた。……ダメだ、泣いちゃダメだ。涙を拭った両手を穴の中に伸ばして、冷たい殻の表面にそっと指で触れた。
その瞬間、大地の揺れがぴたりと止まった。不思議なことに、胸の痛みもすっと消え去った気がした。
少し力を入れると周りの土が崩れ、簡単に卵は持ち上がった。ずしりとした重さを感じたけれど、その重さが安心感と勇気を与えてくれるようだった。
ひび割れは思ったほどひどくないようで、これならゆっくり運べば大丈夫かもしれない。両手で卵を抱えて立ち上がった時、ようやく達成感が胸に去来し、私は涙ながらに微笑んでいた。
――不意に激しい地鳴りがした。
まるで恐ろしい獣が唸り声をあげたような不気味な音にビクリと身が竦んで、あっと思った時にはもう、巨大な振動が始まっていた。
大地を揺さぶるような縦揺れだった。周りの樹々までが激しく震えていた。鳥たちが驚いたように空へ飛び去っていく。
とても立っていられなかった。卵を落としちゃいけない――それだけが頭に浮かんで胸の中へぎゅっと抱えこんだ。同時に揺れに足を取られ、倒れこむように淵を覆う木の柵に体がぶつかった。それで完全にバランスを崩してしまった。
ふっと重力が消え失せた。
私は卵を抱いたまま、まるで示し合わせたように崖下の淵へと転落した。
――ぼちゃん、と水面に叩きつけられた時、もう痛みは感じなかった。
深い淵の底へと沈んでいく。冷たい水が口から、鼻から侵入して、私を暗い世界へと呑みこんでいく。
ずっと卵だけは離すまいとしていたけれど、限界だった。必死に両手を動かして浮上を試みた。手を離れた卵は嬉しそうに淵の底へと沈んでいった。
水面から一瞬だけ顔が出た。大きく息を吸いこもうとしたのに、すぐにまた沈んでしまって水を大量に飲みこんだ。それで頭がパニックになった。
苦しかった。恐ろしかった。前後左右、どこを探っても何も触れるものがない。水だけ。透き通る青の水だけが私を頭からつま先まですっぽりと包みこんでいた。
体の疲労が限界に達したのか、それとも壊れかけた心臓が完全に壊れてしまったのか、手足が動かなくなった。全身から力が抜け落ち、何もわからなくなった。そして私は水の一部となった。
息苦しさが消えた後は、ただただ心地良かった。全身を優しく水の手が包みこみ、やわらかく抱きしめてくれているようだった。卵から孵ったばかりの小さなミズチが私の周りを優雅に泳ぎ回っている気がした。
その時になって、やっと気づいたんだ。
私が本当に望んでいたものは、ここに在ったのだと。
私は水になりたかった。
水のように穢れない、濁りのない世界に生まれ変わる。
この果てしなく続く苦しみからの解放――それは私だけの祈り。
水がそれを教えてくれた。
さらさらと、流れていきたいと。
水がそれを叶えてくれた。
さらさらと、この体をとかして。
意識が途絶える瞬間、どこからかおばあちゃんの声が聞こえた気がした。




