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「……その後、貴様は妹を担いで自力で麓に戻ったのだな?」
「よく憶えてませんけど、そうだと思います」
取り調べはあの日のことを時系列順に説明する俺に、紗羅さんと玲子ちゃんが時折質問を挟んで内容を補完していく形で行われた。ひとまず殴られることなく大体話し終えたところだった。
「確認だが、妹に全身に噛みついていた奴――大蛇の群れは、全部殺したのか?」
「はい。それはもう間違いなく」
七奈の体に群がる大蛇の群れを引き剥がした後、俺は奴らをぶち殺した。ミンチになるほど切り刻んで、潰して、踏みにじって、粉微塵に虐殺し尽くした。
その後、壊れた人形みたいにぐったりとした妹を担いで来た道をひたすら逃げ戻った。麓まで辿り着いたところで、偶然通りがかった人が血まみれで倒れている俺らを発見して警察に通報したらしいのだが、その辺りになるともう記憶は全然残っていなかった。たぶん気を失ったのだろう。
玲子ちゃんがふっと声のトーンを落としてこう言った。
「一郎くん。もうわかってると思うけど、妹さん――風間七奈ちゃんね。うちに運ばれて来た時にはもう心肺停止状態で亡くなってたんだ。今のきみの証言によると、おそらく死因は脳挫傷による即死。それ以前に失血性のショック状態に陥っていた可能性もある。その時点で意識はほぼないから、痛みも苦しみもほとんどなかったんじゃないかな」
「…………」
言われなくとも俺はとっくにその現実を理解していたと思う。目醒めてからずっと考えないようにしていただけで、ちゃんとわかっていたから、今になってことさらに衝撃を受けることもなかった。
ただ……第三者から改めて妹の死を伝えられたことで、じんわりと哀しいきもちが胸の中に広がっていくのを止めることはできなかった。
充分すぎるほどの間を置いてから、玲子ちゃんがふとこう言った。
「ところで、一郎くんの右手に噛みついてた蛇はどうなったのかな?」
「……よく憶えてないです。いつの間にか消えてたような……たぶん刀を振り回してるうちに取れちゃったんじゃないですか?」
「じゃあ、その角――黒い刀はどこにやったの?」
「えーと、どうしたんだっけ……?」
邪魔になるから用が済んだら捨ててきたのかもしれないが、よく憶えていない。
「ちょっと自分の右手をよく見てくれるかな?」
言われた通りに手錠に繋がれた手に視線を落とし、俺はようやくおかしなことに気がついた。
「どこに蛇が噛みついた痕があるのか教えてくれる?」
……ない。傷がなかった。七奈を襲った奴ほどの大きさではないにしても、ソフトボールくらいある蛇の頭に噛みつかれて、あれほど血が吹き出たはずなのに。もしかして左手の間違いだったかとも思ったけれど、そちらにも傷はなかった。
「……ない、ですね。いやでも俺、嘘はついてませんよ? 全部本当ですよ?」
焦りがじわじわと湧き起こってくる。
なんだ? なにがどうなってんだ? 嘘はついてない。嘘じゃないのに、証拠がない。それってつまり、嘘を言ってると思われてもしょうがないってことだ。
周章狼狽する俺の目の前で、冷たい目をした警察官のおねーさんがじっとこちらを見つめていた。
「貴様が眠っている間に捜査隊を編成して件の山中を捜索したが、たしかに今の貴様の証言と一致する地形は存在した。ただし、貴様らの血痕とバックパック等の所持品以外に何の痕跡も見つからなかったがな。無数の蛇の死骸とやらは存在しなかった」
「え……? なかったって……」
何がなんだかわからなかった。あれだけたくさんあった蛇の死骸が消えるはずがない。それに俺が殺した大蛇もいる。あんな大きなものがどこに消えたっていうんだ?
「そうだ、デジカメ! 俺のデジカメに証拠がちゃんと写ってるはずですよ」
「貴様のものらしきデジカメは回収されているが、落としたかぶつけたかで本体に強い衝撃が加わった形跡がありメディアが破損していた。どうしようもないな」
ガーン。あれ買ったばかりだったのに……ってそんなことはどうでもいい。
俺の傷はなく、大蛇の存在を証明するものもなく、俺は生きていて、七奈だけが死んでいる。……これってすごくマズイんじゃないのか? 焦りは増すばかりだった。
「落ち着け、風間。我々は今のところ貴様が虚偽の証言をしているとは考えていない。貴様がまだ殴られてないのはそういうことだ」
紗羅さんの口調は変わらないままだったが、その言葉は少しだけ優しげな響きを帯びていた。
「たしかに貴様がトチ狂って妹を殺害した挙げ句、蛇の化け物にやられたと演技していると考える方が客観的に見て自然ではある。今のところ証言を裏付ける物証もないのだからな。だが――それらは元々がそういうものなのだ。目に見えぬもの、本来見えてはならないものと言った方がよいか」
そして彼女は表情一つ変えずに、きっぱりとこう言った。
「貴様と貴様の妹は『神』と出くわし、そして祟られた」
いきなり何を言い出すのかと思って表情が緩みかけた。だけど笑えなかった。この人が冗談を言うタイプには見えないし、なによりも顔が恐ろしく真剣だったからだ。
玲子ちゃんが補足するように口を挟んだ。
「まあ神と言っても、たちの悪い病原体のようなものだよ。それに祟られることをボクらは〝D症候群〟と呼んでいるんだけど」
「D……症候群?」
「うん。人間を怪物に変えてしまう恐ろしい病気だよ。〝D〟に感染した人の大きな特徴として、代謝機能の劇的向上があってね。傷が異常なスピードで再生するようになるんだ」
玲子ちゃんは正体不明の笑みを浮かべながら俺をじっと見つめてきた。
「えっと……ちょっと待って下さい。それって……」
頭が混乱してきた。なんだ今の話? 何かがおかしい。蛇の化け物――神。D症候群。右手の傷がなくなった。俺は生きていた。七奈は死んだ。俺は……。
「待つ必要などない。貴様には供述と質問に答える以外の権利はない。そもそも――」
「貴様は自分がまだ人間だと思っているのか?」
氷のような声と視線に射貫かれて俺は言葉を失った。
「まあまあ、紗羅ちゃん。いきなり人間扱いやめちゃったら可哀想だよ。精密検査前の段階じゃはっきりとは判断できないんだし」
玲子ちゃんがフォローするように言った。
「一郎くんについては今のところ、右手を中心とした回復力の向上だけしか確認がとれてない。診断基準はカウンセリングの内容とボクの勘だけど、せいぜい軽度感染者に該当するレベルだよ」
「け、軽度……って、病気なのは間違いないんですか?」
恐る恐る聞いてみると、玲子ちゃんは何を今さらと言わんばかりの顔でこう答えた。
「そりゃそうだよ。ここに運ばれてきた三日前、きみの右手ぐっちゃぐちゃだったんだから。それが寝てる間に完治するなんて普通じゃありえないでしょ」
つまり、あれはやっぱり夢なんかじゃなかったということだ。俺は本当に右手を食い千切られかけて、その傷が跡形もなく消えていたのは、変な病気のせい……らしい。
「でも傷の異常再生力なんてオマケみたいなもので、D症候群の本当に怖いところは全然別なんだよ。重度感染者は誇張でも何でもなく化け物じみた存在なの。人間が人間でなくなるっていう表現がぴったりなくらいにね」
人間が人間でなくなる病気……。
そんなふうに言われても想像もつかないが、少なくとも俺の場合はまだ『傷がすごく早く治っちゃう人』ってだけで済みそうな感じなのだろうか。
「ふん、まだそうかもしれんという程度だ。今後の検査結果でいくらでも覆る」
「とにかく現時点では一郎くんはグレーってことで、最低限の人権はボクが保証するよ」
にっこりと微笑む玲子ちゃんが天使に見えた。一方で紗羅さんはどうしても俺を異常認定したいらしい。たぶん微妙におかしな人間よりも化け物って割り切った方が色々と楽なのだろう。
「私的には白以外は黒です。悪即斬」
「かっこいい! けどそこは即断しないで下さいよ!」
「はいはい、二人ともそこまでだよ。わかってると思うけど、一郎くんにはこれからこの研究所の一般病棟に入院してもらうね。検査は山ほどあるよ。うふふ、たっぷり可愛がってあげるね。まあ軽度のまま安定してるようだったら案外早く退院できるかもだし、一緒にがんばろ!」
入院なんて生まれて初めての経験だった。再び暗鬱な気分がぶり返してくる。本当に大丈夫なんだろうか、俺……。
「まあそんなに落ちこまないで。ボクの見た感じ一郎くんは大丈夫だよ。きみへの扱いがボクがきみを信用してる証なの。だから安心していいよ」
「博士は不用心過ぎます。護衛も付けずにこいつを連れて来た時は目を疑いました。せめて拘束衣くらい着せておくべきです」
紗羅さんがたしなめるように言ったが、玲子ちゃんはあっけらかんとしたものだ。
「ボクは自分で下した診断結果を信用してるからね。今はどれも必要ないって判断したの」
「博士を疑うわけではありません。しかし軽度と思われるとはいえ――」
「ね、一郎くん、ラーメン食べたいんだよね? 八風軒の醤油バターラーメン」
急に話題を振られて驚いたが、おずおずと首肯した。
「はい。あれは旨いです。機会があったら玲子ちゃんと紗羅さんも食べてみて下さいよ。かなりオススメですから」
紗羅さんの顔つきが憮然から唖然としたものに変化して、玲子ちゃんが心底楽しげにケラケラと声をあげて笑った。
「ね? びっくりでしょ紗羅ちゃん? ラーメンだよ、ラーメン! こんなD感染者なかなかいないって! あー、おかしい!」
……ああ、それも一種の診断基準だったわけですか。
めちゃくちゃに笑われてるのは理不尽な気もするけど、それが玲子ちゃんの信用を勝ち取る決定打となったのならもうけもんだ。ありがとう、八風軒のオヤジ! あんたの味が俺の人権をかろうじて守ってくれた!
「ちょっと手洗いに行ってもいいですか」
病室に戻る途中で通りかかったトイレの前で俺は立ち止まった。
「あ、うん。手伝ってあげようか? けっこう大変かもよ?」
ニンマリと笑いながら怪しい手つきで迫ってくる女医さんの提案を丁寧に固辞し、一人で男子トイレの中へ入った。
なるほど、たしかに大変な作業だった。
たかが排泄行為と侮るなかれ。ずっと眠っていた間に溜まりに溜まっていた尿は濃い黄土色で、勢いも匂いもかなり強烈だった。しかも放出と共になぜか腰が抜けそうになって、途中立ってるのもつらかった。小便器で用を足そうとしたことが失敗だったらしい。
普段していることが普通にできなくなって初めて、人は自分がいつもと違う状態にあるのだと理解するのだろう。俺もそうだった。病気とか入院とか別の世界の話みたいだと思ってたけど、これはすべて紛れもない現実なのだ。
小用を済ませ、手洗い場の鏡をふと覗きこむと、そこに映った男の顔はひどく痩せこけて憔悴していた。
何日も意識を失った状態のまま、点滴だけで生命を繋いでいたのだから当然か。生きていただけマシかもしれない。
そう、俺は生きていた。これも現実だ。
けれど――――
「……そっか。七奈、死んじゃったんだな……」
とうに受け入れていたはずの現実をぽつりと口にして、俺はその時初めて泣いた。
俺が妹にしてやれることはもう何もないのだと気づいて、それが哀しくて、泣いた。
かくして平穏な日常は唐突に終わりを告げ、地獄の夏に始まった悪夢の物語が動き始めた。
/seven -end-




