5-2
まずい……まずいまずいまずいっ!!
恐怖よりも焦燥が勝った。地面に根を張ったように動かない足をむりやり引き剥がし、なけなしの勇気を総動員して走りだした。
急いで妹の元へ戻るために大蛇の群れを大きく迂回しようとした時、靴が何か硬いものを蹴り上げた。蹴り飛ばされたそれが石にでもぶつかったのか、カキンと硬い金属音がした。大蛇の一匹がその音に反応して振り向いた。
俺は思わず足を止め凍りついた。人間の頭ほどもある巨大な大蛇の頭部――まるで焼け爛れた金属のような真紅の目が二つ、じっとこちらを窺っていた。
きしゃあぁぁっ!!――大蛇が威嚇の声を上げ、同時に信じられないことが起こった。大蛇の額がぷくっと盛り上がったかと思うと、そこからズルズルと何かが伸びてきた。角だった。鈍く黒光りする刃物じみた角――その鋭利な先端を俺に狙い定めるように、大蛇が太い首をもたげた。
すべてが理解の範疇を大きく超えていた。理解できないものに対して、人は思考と行動を奪われる。
ただ俺にとって幸運であり、同時に不幸でもあったのは、そこに俺以外の守るべき者がいたことだ。妹を守らなければという強いきもちが心を奮い起こした。
俺はとっさに身を守る武器を探した。何か武器が欲しい。石でも棒でもいい、自分を、妹を守るための武器がっ……!!
思わず目を疑った。すぐ足下の地面に黒ずんだ刀のようなものが落ちていた。先程蹴り飛ばした時に硬い音をたてたのはこれだったのだろう。
なぜこんなところに刀があるのかわからないが、とにかく助かった。さっと右手を伸ばしてそれを拾いあげて――痛い。手のひらがすっぱりと切れて鮮血が滴った。慌てて拾おうとしたせいで刀の刃の部分を握りこんでしまったのだ。
焦るな、落ち着け。刀は柄を握るものだ。でも……なかった。その刀は刃の部分しかなかった。持ち上げてよく見てみると、本来なら柄があるはずのところに、拳くらいの大きさの黒くて丸いものがついていた。
切断された蛇の頭だった。
「うぇええええぇぇッ――!?」
驚嘆してそれを放り投げようとした瞬間、
沈黙していた蛇の頭がカッと瞼を見開いた。
燃え盛る緋色の双眸とまともに目が合った。それは俺を睨めつけながら、ガパッと口を大きく開いて鋭い牙を右手にめりこませた。
「いっ――いででででッ……!?」
手首に噛みついた蛇を引き剥がそうとぶんぶんと腕を振るったが、蛇はけして離すまいと噛みつく力を増し、めりこんだ牙がさらに深く肉を抉った。
メリメリっと骨が軋む音、ブツッと何かが千切れたような音がして傷口から真っ赤な血がドボドボと溢れ出した。意識が飛びそうになるほどの激痛が俺を襲い、泣き声に近い悲鳴が喉から迸った。
さらに事態に追い討ちをかけるように、じっとこちらを窺っていた大蛇が動き出した。そいつの頭の大きさは手に噛みついている奴の倍以上ある。巨大な牙がこちらに届く前に、額の角が俺を串刺しにする悲惨な未来の映像が浮かんだ。
大蛇が頭を旋回させ、勢いをつけて飛びかかってきた。俺はぎゅっと固く目を瞑り、何かよくわからないことを悲鳴じみた声で叫びながら右手を強く振るっていた。
ザシュッ――――!!
……奇妙な手応えがあって、続いて何か重いものがどすんっと地面に転がり落ちる音がした。
恐る恐る目を開けて下を見ると、サッカーボールほどもある大蛇の頭が転がっていた。
「ひッ……!!」
そいつはまだ生きていた。首から切断された頭だけの姿で、苦しげに喘鳴を洩らしながら、大きな赤い目で俺を口惜しげに睨んでいた。
お、俺がやったのか……?
右手に喰らいついた蛇の角が偶然、タイミング良く大蛇の首を切り落としたのだろう。凄まじい斬れ味という他なかった。
その時、再び悲鳴が辺りに響き渡った。
ハッと顔を上げた先で、残りの大蛇の群れが一斉に七奈へ襲いかかろうとしているのが見えた。角と牙を剥き出しにした幾つもの長い首が大きく旋回する動きを始める。考えている暇はなかった。
「七奈ああぁァ――――ッ!!」
俺は叫びながら地面を蹴り上げ、無数の蛇の死骸に覆われた黒い大地を駆った。すでに痛みを通り越して感覚すらない右腕を大きく振り上げ、地面を踏み切って跳躍する。
どうか――間に合えっ!!
宙を舞いながら、渾身の力をこめて右手を振り下ろした。
刹那、刃がぐんと伸びて、繰り出された黒い一閃が七奈に向けて直線に並んでいた大蛇たちの首をまとめて切り裂いた。
無様に転げ回りながら地面に着地したのと同時、上空から赤黒い血の雨が勢いよく降りそそいだ。
巨大な岩山のようだった大蛇の塊は、すべての首を失って半分の大きさになっていた。座りこんだまま荒い息でそれを確認した時、遅れて昂奮に似た感覚が湧き起こってきた。
「や、やった! やってやったぜ、こんちくしょうがっ!!」
思わず快哉を叫んだ俺の背後で、ふと――
めぎょり、という奇妙な音が聞こえた。
続いてぺきっと何かが折れたような音。
そしてじゅるじゅるっと何かを啜るような音。
「え……?」
俺は恐る恐る音のした方を振り返った。
そこに――首だけになった大蛇の群れにむさぼり食われる妹の姿があった。
「あれ……七、奈……?」
状況の認識に失敗し、俺はその場で阿呆のように座りこんでいた。
倒れこんだ七奈の体にまとわりついた大蛇の牙が、角が、七奈の両手に、両足に、腹に、首に、額に深く食いこみ、破壊と陵辱の限りを尽くしていた。
メキメキッと軋むような音がした。足に食らいついた奴が大腿骨を砕いたらしい。七奈の細い足がぐにゃりとありえない方向へ曲がった。
ぷしゅっと血が噴水のように吹き出した。首に食らいついた奴が頸動脈を破いたらしい。七奈の小さな体がびくんびくんと壊れたように痙攣した。
バリバリッと異様な音がした。額に食らいついた奴が頭蓋骨を粉砕したらしい。七奈はもうぴくりとも動かなかった。
もう、動かなかった――――




