1-1
ハッと意識を取り戻した。
……まずい。白昼夢なんて見るようになったらおしまいだ。内容が鮮血滴るスプラッタ風味満載なのも致命的だろう。人に言ったら頭が狂ったと思われる。
瞼の裏にこびりついた残像を振り払うように軽く頭を振って、それから大きく息を吐き出す。白く凍りついた吐息が厚い曇天に覆われた灰色の空に吸いこまれていった。
とにかく寒い冬だった。年の瀬の一二月を迎えて早二週間、雪でも降り出しそうな寒空の下に俺は立っている。鳴らない携帯をジャンパーのポケットの中で握りしめたままボーっとしていたのがいけなかったらしい。危うく冬眠から凍死の必殺コンボをくらうところだった。
まだ連絡はないがここで待っているのは寒いし危険だ。肩を縮こまらせながらとぼとぼと通りをまたいで、くすんだ外壁の雑居ビルの前に移動した。
周囲にはパトカーやら救急車やら野次馬やらそれを通すまいと頑張ってる制服警官の姿があって騒々しい。俺は目立たないようにこそこそとビルとビルの間の狭い路地を抜けて裏口へ回り中に侵入した。
外より幾分ましとはいえ建物の中に漂う空気はひんやりと冷たかった。しんと静まり返った中に澱んだ気配が混じっている。避難はすでに完了しているらしく、エレベータを避けて階段を上り始めても誰ともすれ違うことはなかった。
たしか現場は三階にある旅行会社のテナントって言ってたっけ?
階段を上って三階のフロアに着くと、幸か不幸か目的のテナントはすぐ目の前だった。入り口は透明なガラスの自動ドアで、表面にべったりとついた血の手形から垂れ落ちる赤黒い雫がじつに生々しい。中はすぐに壁になって横に通路が延びているせいで、店内の様子はまったく見えない。ここまで来ておいて今さらだけど、嫌だなあと思い足が止まった。
ポケットの中でマナーモード中の携帯電話が振動した。ナイスタイミング。液晶画面に表示された名前を確認するまでもなく、相手は紗羅さんだった。
「――風間か。今どこだ?」
凛々しい声に車のエンジン音がかぶさる。ハンズフリーで通話しながら運転中なのだろう。
「もう現場の前です。三階のマーベラスツーリストってとこ。ここで待ってればいいですか?」
電話の向こうで急にパトカーのサイレン音が鳴り始めた。おそらく赤信号でつかまりそうになったので警光灯をつけたのだろう。少し間があってから返答がある。
「あと五分で到着する。先に中の様子を見ておけ。第一は生存者の救助、第二に〝D〟の確保、無理なら足止めだ。まあなんだ、死んだら焼香くらいしてやるから安心して先に逝け」
一方的に指示だけして通話が切れた。相変わらず冷血なお人だ。
俺は嘆息しつつ携帯をポケットにしまって、もう一度現場の入り口に目を戻す。
……まじで一人で入るの? そりゃ怪我人がいたら助けたいとは思うけどさ。生きてればいいけど。生きてるかなあ?
数秒間迷ったあげく、俺は腹を決めてマーベラスツーリストのドアの前に立った。
自動ドアがスライドして開き、頭の上でチャリラリラーと変なメロディが鳴った。舌打ち。これじゃばればれだ。余計な機能つけてんじゃねえよ。
立ち止まって奥の様子を窺うが、何かが飛び出してくる気配はない。今さら足音を忍ばせる意味はないので普通に中に足を踏み入れた。
入ってすぐの通路を左に折れると奥に長い空間が広がっていた。入り口に向けて銀行のカウンターに似た窓口が複数あって、その向こう側に事務机がたくさん並んでいる。
どうやらその辺りで超局地的な台風が発生したらしく、ほとんどの机と椅子は倒れて色とりどりのパンフや書類が床に散乱していた。倒壊したゴミ山と化した物品に混じって、二人の人間が倒れているのが見えた。スーツ姿の男と女。おそらく被害に遭った社員だろう。仰向けで倒れたまま目をカッと見開き、喉には食い破られたような無惨な傷口が見えた。
あー、ご愁傷様です……救命は間に合いそうにないんで、帰っていいですか?
わりと本気だったのだけどそうもいかなかった。死と破壊と混沌に彩られた災厄の中心に、まるで世界から一人だけ取り残されてしまって呆然とするように立ち竦んでいる男がいた。
避難した社員の証言にあった加害者――『山之内ナントカ』さんに間違いないだろう。冴えない感じの鼠色のスーツを着た三五歳前後の普通のおっさんだった。
俺はカウンターの前まで移動して立ち止まった。本当に嫌だけど、紗羅さんに足止めしろって言われてるしなあ。
「えーと……こんにちは。山之内さん? 俺は怪しい者じゃない。だからいきなり襲いかかってくるのはなしにしてくれるとすっごく助かる。OK?」
「…………」
男がゆっくりと顔を上げた。虚ろな目が俺の姿を捉える。土気色の肌、病的なまでに扱けた頬が何かを伝えようと力なく動いたが、声は聞こえなかった。
こっちの言葉をちゃんとわかってくれてるのかものすごく不安だが、意思疎通ができて戦わずに済むならそれが一番だ。俺は辛抱強く相手の反応を待った。
「……誰……だ? 何しに、きた……?」
お、喋った! 少し希望が見えてきたのでもう一歩相手に近づきながら、俺はやや大げさな口ぶりで続けた。
「病院から迎えにきた者です。どうやら山之内さん『病気』になってしまったみたいなんで」
「病……気……?」
「そうそう! 最近ちょっとおかしいなって思ったことあるよね? なんてゆーかほら……『変なのに取り憑かれちゃった』みたいな」
その言葉に反応したように、男が急に両手で顔を覆い悲鳴じみた声をあげた。
「ああああ、ま、ただ……!! また、聞こえる!」
「な、何が?」
「犬の遠吠えが……苦しそうに、鳴いてる……!!」
犬……? ちょっとビビりながら見ていると、男の息づかいはどんどん荒くなっていった。
「鳴いてる、泣いてるんだ。苦しい、苦じぃ……!! 憎い憎い憎い、にぐぃいいッ……!!」
男が急に背筋を限界までぴんと伸ばし、喉を反らして獣じみた咆哮を上げた。
ゆっくりと顔が元の位置に戻った時、その形相は別人のように変わり果てていた。黄色く濁った目で俺をギロリと睨みつけ、獣のようにグルルルッと喉を鳴らす。……あちゃー、完全に裏返ったみたいだ。
背後でチャリラリラーと聞き覚えのあるメロディが鳴った。
ハッと振り向いた瞬間、ダッシュで駆けこんできた小さな人影が俺の隣をすり抜けつつ銃の弾き鉄を立て続けに引き絞った。
爆音が連続し、男が血煙をあげながら後ろに吹き飛んだ。
びっくりした……。いきなり至近距離で銃声を聞いて鼓膜が破れるかと思った。
倒れこんだまま動かない男に硝煙のあがる銃口を向けたまま、きっちりとしたダークスーツに身を包んだ美少女――紗羅さんが凛然と立っていた。
かつて彼女のことを『剃刀のような美人』と喩えた知人がいるが、これほど端的にこの人を表す言葉は他に見つからない。ドイツだっけかのクォーターらしく、本名は石動・紗羅・ベルヴァルトさんという。冷静冷酷冷淡の三拍子が揃った恐怖と憧れの象徴であるところの冷え冷え雪女さんである。
どう見ても一五、六歳といった幼い外見だが、これでも実年齢は俺より上だというからびっくりだ。歳上のおねーさん好きの俺としてはなんとも微妙な心持ちである。いや、好きだけど。
マットな色合いの髪を二つ結びにした頭が揺れてこちらを振り返った。切れ長の目の中央、色素の薄い灰色の瞳が鋭く俺を一瞥する。
「風間、なにをぼーっとしている? 早くあいつを拘束しろ」
命令されるのに慣れきった俺は口答えなどせず、慎重にカウンターを乗り越えた。
ほぼ同時に男が急にむくりと上半身を起こした。ぎゃっ。心臓に悪いからそういうゾンビみたいなのはやめてほしい。
紗羅さんの撃った弾は男の腹二箇所と左膝を撃ち抜き、その部分が血だらけになっていたが、銃弾の貫いた傷はもう塞がりかけていた。やれやれ、いつ見ても〝D〟の超回復力には驚かされる。
「うぎば、いがじにまれ。ぜんじにま……!! ぜんじがに……!!」
とうとう日本語も忘れてしまったらしい男が俊敏に飛び跳ねて後ろへ下がった。こちらを憎悪に充ち満ちた目で睨みながら、顎が外れるんじゃないかってくらいに口を大きく開き、身をかがめて両腕を地面に突き出す。まるで獣が獲物に飛びかからんとする構えそのものだ。
「風間。貴様が取り押さえろ。なんなら腕の一本や二本落としても構わん」
物騒なことを言いながら紗羅さんが銃を構え直した。
え? まじで俺がやんの……? って、やらなきゃ俺がこの人に殺されるってーの!
銃声がスタートの合図だった。俺は同時に床を蹴った。
銃弾が相手の腕と肩に命中し、ギャッと悲鳴を上げて男がのけ反る。が、今度はダウンせずにすぐさま体勢を立て直すと、接近する俺を迎え撃つように後ろ足が離れた。開きすぎた口の両端が裂け、猛獣そのものの形相になってこちらの喉笛を狙って飛びかかってくる。
怯む心を全力で抑えつけ、俺はスピードを緩めないまま拳をぎゅっと握りしめた。
瞬間、右手が自分の感覚を離れてゆくのを感じた。
……おいおい、頼むからこのタイミングで出てくるんじゃないぞ?
一瞬の迷いを振り切って右の拳を放つ。
カウンターのパンチが男の口の中にすっぽりと収まり、強靱な顎によって拳が噛み砕かれるその前に、抵抗を全力で押し切って腕を振り抜いた。
どんっ――と強い衝撃が腕を伝って肩まで届いた。頭から床に叩きつけられた男がグエッと潰れたような声をあげ、白目を剥いて手足をピクピクと痙攣させた。脳震盪確定だ。傷口はすぐに塞がる特異な体であっても、意識が途絶えれば関係ない。
口の中から唾液まみれの拳を引き抜くと、折れた歯がポロポロと床に転がった。当然、俺の右手も無傷で済むはずがなく、皮膚がずたずたに裂けて血だらけだった。
俺は倒れこんだままの男を見下ろしながら心の中で語りかける。お互い普通の体じゃないとは言え、やっぱり痛いものは痛いよなあ……。
紗羅さんが失神している男の両手と両脚に手錠をかけ、クスリを注射して一丁上がりだ。
その間に右手の痛みはすぅっと引いて、痒みに似た感覚が肌を刺激しながら傷が塞がっていく。すっかり元通りになった腕を軽く振りながら、俺は長い溜息をついた。
あー、手洗いたい……。