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そもそも俺が妹の七奈と再会したのは春先のことだった。
うちは元々がけっこう特殊な家庭環境で、おふくろは十年以上前にとっくに他界しており、親父は俺が高校に進学した時からずっとタイのバンコクに単身赴任中だ。
親父が日本を去った時、五つ違いの妹の七奈は当時十歳。通っていた小中高一貫のお嬢様学校の寮に入ることになったのでまだよかったが、凡人の俺はそうはいかなかった。親父が赴任前に購入した郊外にある小さなマンションの一室が俺に与えられた住まいで、放任主義というか放任そのものの生活が俺のデフォルトだったわけだ。
毎月のギリギリの仕送りでやりくりする才能が俺には欠如していたので、高校に通いながらあれやこれやとバイトをしつつ糊口をしのいでなんとか生き延びてきた。
卒業後は志望していた地元の公立大学入学にこぎ着けたので結果オーライ。ここまではまあ、俺の人生は大きな問題もなくわりと順調に運んでいたように思う。
だが進級して三回生になる直前の今年、この三月――隣町にあるお嬢様学校の高等部二年生になる七奈が、なぜか寮を出てうちに戻ってきたことだけは、ちょっと計算外の出来事だった。
七奈はその日の朝、何の前触れもなくいきなりタクシーでマンションの前に乗り付けてうちのインターホンを叩いた。春休みの最初は寝て過ごすと決めて万全の態勢で惰眠を貪っていた俺が、やかましく鳴り響くインターホンに起こされ苛立ちながらドアカメラの画像を見ると、そこにはまばゆいセーラー服姿の見知らぬ美少女が写っているわけで。
引っ越しの挨拶か何かだろうかと訝しみつつドアを開けると、美少女は最初、無精髭を生やした俺の顔を見てギョッとした様子だったが、すぐに気を取り直した様子でにっこりと花のように微笑んだ。
「ただいま。おにいちゃん、元気してた?」
「…………は? えっ……七奈?」
この時の俺の驚きは筆舌に尽くしがたいものがある。最後に見たのは中学に入学したばかりだったから、あれから数年経過しているとはいえ、最初それが自分の妹だとはとても信じられなかった。
さらさらの黒髪は背にかかるくらい長くて、化粧気のないのに目鼻立ちのくっきりした可愛らしい顔はどう見ても俺や親父と血の繋がった形跡がない。もしかして誰か知らない美少女が妹のフリをした新手の詐欺なんじゃないかと疑ったくらいだ。
しかし少女のふとした仕草や表情の中には、どこか懐かしい面影がかすかにちらついて見えた。俺の脳裏に死んだ母親の淡い記憶が甦り、七奈は母親似なんだなとその時理解した。親父や俺に似ないで本当に心の底から良かったと思う。
七奈がやって来た日の夜、娘が勝手に寮を出たことを後から知った親父がぶちキレて「仕送りは増やさんぞ! 嫌なら七奈を寮に戻せ!」と俺に脅迫めいたことを国際電話で言ってきた。
「……親父、超怒ってるけど。正直なところなんで寮出たの? いじめられたとか?」
夕飯時、コンビニ弁当を居間の食卓で向き合って食べながらそのことについて妹に聞くと、
「んーん。飽きたのあそこ。いいでしょべつに、学校はここからでも通えるんだしさ」
と当の本人はこんな感じである。まあ小学校の途中から五年以上も同じ寮で過ごせば飽きることもあるかもしれない。俺としてはいいとも悪いとも言えない立場だったし、深く追求せず逆に親父の説得も行わないという中途半端なスタンスのまま七奈の受け入れを容認することにした。いや、面倒くさいってのが本音ではあるんだけど。
身一つで来訪した七奈に遅れて荷物は翌日に業者がまとめて送ってきた。七奈の持ち物は少ない私服や学校で使うものだけらしく段ボール三つ分しかなかった。
うちには使ってない物置部屋が二つも余ってたので生活空間の問題はないものの、当面の問題は生活費である。一人が二人になれば当然その分金がかかることからも頭の痛い問題だった。
親父は頼りにできない、というか怒って仕送り止められなかっただけでもマシな方だし、校則でアルバイト絶対禁止が徹底されている世間知らずな箱入りお嬢様に育った七奈にどうにかしてもらおうと考えるほど俺も頭の中がお花畑ではない。必然的に俺がバイトを増やして稼ぐ必要があった。
「ちなみに七奈、おまえ料理とかできる?」
もしも妹が見た目通りおしとやかで家庭的な美少女だとしたら、自炊で少しでも食費を浮かせられると思ったわけだが、果たしてこの妹様はきょとんとした表情でこうのたまった。
「この家には料理人はいないの? わたし寮の食事じゃフレンチのコースが好きだったな」
「いるわけねーだろ! 目を醒ませ、おまえの級友たちはどうか知らないが、うちはきっぱりと庶民だ!」
「えー。昨日食べたお弁当はちょっと薬っぽい変な味がしたから好きじゃないかも」
「コンビニ弁当なんてそんなもんだ。保存料とか着色料とかたっぷり入ってるからな」
「なんか体に悪そう。そんなものばっかり食べてたんだ? おにいちゃん、召使いもいないのに今までどうやって暮らしてきたの?」
「普通にだ! おまえな……うちで暮らし始めるからには覚悟しとけよ。最初に言っとくが、無理だと感じたらいつでも寮に逃げ帰っていいんだからな?」
少々意地悪な言い方になってしまったのもしょうがない。だって俺の仕送り額がギリギリなのって、絶対こいつの学費やら寮費が莫大だからに違いないって今わかったんだもん!
だが、この時点で俺はまだ妹のことを見くびっていたと思う。
「帰らないよ。やっと家族で暮らせるようになって、すごく嬉しいんだよ。ほんとはずっと寂しかったの。わたしもここでおにいちゃんと一緒にパパが帰ってくるのを待ちたい。それともおにいちゃん、わたしのこと邪魔かな……?」
前言撤回。ちょっと顔をうつむかせて哀しそうにする可憐な仕草が、こっちの保護欲というのか守ってあげなくちゃというきもちを刺激しまくってくる。反則すぎるだろ……こんな姿見せられてこんなこと言われたら、俺じゃなくても男なら絶対ポキンと折れる。そうだ、コンビニ弁当が駄目なら、明日はちょっと歩いてホモ弁にすればいいじゃないか!
「俺が悪かった。ずっと一緒に暮らそうな。よーしお兄ちゃん、もう七奈を離さないぞー」
と自分でも反吐が出るほどあっさりと満面の笑顔で迎合する俺だった。