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目が醒めた時、まず目に入ったのは白い天井だった。
薬品の匂いの染みついたベッド。両手首に点滴の針と手錠。両足も紐みたいなのでベッドの脚に結びつけられ固定されている。
……はて、なんぞこれ?
起き抜けのぼんやりした頭にたくさんの疑問符を思い浮かべていると、間もなくして病室の扉が開き、ナースさんとやたら屈強な看護士を後ろに引き連れた白衣の女性が現れた。
その人はおはようの挨拶の後、国木田玲子と名乗り俺の担当医だと自己紹介した。やわらかなパーマのかかった栗色の髪、縁なし眼鏡をかけた理知的な感じに混じって、どこかくだけたようなゆるい雰囲気も漂っている小柄で可愛らしいお姉さんだ。
「ねえきみ、自分の名前言えるかな? 歳はいくつ? 本籍ってどこ? 今日は七月三一日なんだけど、旧暦だと何月何日だかわかる? 地球は丸いってじつは嘘だって知ってた?」
と幾つか立て続けに質問を受けて、それらの意味をよく考えないままに適当に答えた。日付の質問で、今が夏だということをぼんやりと思い出したりした。
女医さんは手元のカルテにすらすらと何かを書き取っていた。その間にナースが俺に繋がっている点滴とか何かの装置らしきものを調整して、やたらとでかい看護士のにーちゃんは突っ立ったまま俺のことを睨むようにじっと見つめていた。
「はい、OK。意識ははっきりしてるみたいだね。気分が悪いとかない?」
「普通です。少し腹が減りましたけど」
「食欲旺盛、と。他に何か要望ある?」
「玲子ちゃんって呼んでもいいですか?」
知り合って間もなくいきなりそんなことを言われたら普通引くだろうが、彼女は一瞬きょとんとした表情になった後、にっこりと破顔して「いいよー」と快諾してくれた。
「じゃあきみは一郎くんね、よろしく」
若くて可愛くて大らかな女医さんって最高だね! と感動にひたる間もなく、玲子ちゃんは看護士たちを引き連れてすぐに出て行ってしまった。
しばらくしてさっきのナースが食事を運んできた。俺はあのーと話しかけたがガン無視された。手錠されたままの俺にナースがわざわざ飯を口に運んでくれた。無言で食事介護されるのはけっこうつらいものがある。プラスチックのスプーンでおかゆみたいに柔らかい飯を一定のペースで俺の口に運ぶナースの手は少し、震えていた。
しょぼい昼飯を摂り終わってナースが退出すると、入れ替わりに玲子ちゃんと大男が戻ってきた。起きてから時間が経ったせいか、さっきよりは思考が働くようになっていた。
「やっほー一郎くん。さっきぶり。元気してた? 食事は美味しくいただけたかな?」
「ゲロマズかったです」
正直に答えると、玲子ちゃんは可笑しそうに笑った。
「だよねー。じゃあ一郎くんは何が食べたいかな? 血の滴るレアステーキなんていかが?」
「んと……ラーメンが食いたいです」
「ラーメン?」
「うちの近所に八風軒って小さな店があって、そこの醤油バターラーメンが格別なんです」
「へー、それは美味しそうだねえ!」
玲子ちゃんはまた何かを手元のカルテにささっと書きこんでから顔を上げた。
「ねえ一郎くん? これから足の拘束を取るけど、勝手に動き回らないでね。ゆっくり立ち上がってみて。自分の力で歩けなそうだったら車椅子を用意させるから」
大男が慎重な手つきで俺の両足首を固定していた器具を外した。俺はベッドの上で体の向きを変えて足を垂らし、言われた通りに床に立った。
一瞬ふらついたが、すぐに両脚で自重を支えた。玲子ちゃんと大男は生真面目な表情でこちらを観察しており、ただ立っただけなのに大仰に驚いた顔をした。今にも「立った! クララが立った!」とか言い出しそうな雰囲気だ。
玲子ちゃんは満足げに一つ頷くと「それじゃ、ついてきて」と言って病室を出た。少し足下が覚束ない気もするが、歩くことは問題なかったので二人について行った。
まだ新しい清潔な廊下をふらふらと移動して別の棟へと移り、エレベータで上へ昇る。その間、誰ともすれ違うことはなかった。
辿り着いたのは、何の変哲もない普通の扉の前だった。玲子ちゃんが扉を軽くノックした。
「きみはここまででいいから。戻って待機しといて」
大男が玲子ちゃんに一礼して去っていった。大きな背中が廊下の奥に消えていくのをぼんやり眺めていると、扉が内側から開いて促されるままに先に入室した。
十畳くらいの空間の中央に小さな机と椅子が置いてあり、その横にグレーのスーツをきっちり着こなした美少女が立っていた。鋭い眼光を放つ灰色の目がいかにもただ者ではないというオーラを放っている。見た目は十代半ばくらいだろうか、マット系の暗い色合いの髪を二つ結びにして、外国の血を引いているんだろうと思わせるほどに整った容貌――しかしその存在は幼さに似ず妙に大人びているというか、奇妙な違和感を漂わせていた。
「石動・紗羅・ベルヴァルトだ」
思っていた以上に流暢な日本語の発音だったが、その声は少女の視線以上に冷たく研ぎ澄まされている。緊張――というよりも警戒、あるいは敵意ともいうべきものをこちらに隠すつもりはないことが明白だった。
「風間一郎だな。これから貴様の取り調べを始める。最初に言っておくが、この取り調べは超法規的措置にのっとるもので、貴様に一切の黙秘権はない。また私には暴力に酷似した実力行使を取る権利が正当なものとして認められており、それに関して一切の加減を加えないことを前もって宣言しておく。これらを肝に銘じた上で聞かれたことには正直に答えろ。いいな?」
……すっげえ。何がすごいって、このセリフを真顔で澱みなくごく自然に言ってのけるところに全身が痺れたね。かっこよすぎるだろ、このドS少女。
突然の展開に唖然憮然呆然とする俺に向かって少女はスーツの内側に手を入れ、黒い手帳らしきものを取り出し開いて見せた。
それを見て俺は二度驚くことになる。本物の警察手帳を初めて目にしたことよりも、この少女――紗羅さんが警察官であること、階級が警部であることの方が衝撃だった。狐につままれたように目を白黒させていると、隣に立った玲子ちゃんが助言するようにこう言った。
「一応言っておくけど、紗羅ちゃんは本物の警察官だし、こう見えても一郎くんよりも歳上なんだからね?」
「この子が? いやいやいや――」
手帳に記載された生年月日は一九八四年……今が二〇一一年だから二七歳? たしか警部ってけっこう偉い階級だったと思うから、それでも充分若いはずだ。キャリアってやつだろうか。
しかしそれ以前の問題として、手帳の顔写真と眼前に立つ少女はどう見ても二七には見えない。一七歳ならば納得できないこともないが、雰囲気が大人びているだけで実際は見た目以上に若いかもしれなかった。それこそ俺の『妹』と同じくらいか……
ズキンッ――と胸が痛んだ。
そうだ、目が醒めてからずっと考えないようにしてきたが、俺は意識を失う前まで妹と一緒にいた。
妹――あいつは、どうなったのだろう?
いや、そんな問いかけは欺瞞だった。
俺は憶えている。忘れちゃいないし、忘れられるわけがない。だから今まであえて考えないようにしていたのだから。
なぜなら、あいつはきっともう――――
静かな、けれどはっきりとした強い声が俺の意識を現実へと引き戻した。
「老いを食われた」
「え……?」
「三年前、某所である事件が起こった。私はその場にいた唯一の生存者だ。命は助かったが……若返りという呪い――あるいは毒を受けた。まあ一種の病気をかけられたということだ」
呪い、毒、そして病気に「かかった」ではなく「かけられた」という言い回しの奇妙さに俺が呆然としていると、
「貴様には関係のない話だったな。私の見た目などどうでもいいことだ。私が取り調べをする権利をもち、貴様が重要参考人であるという事実に変わりはない。そこに座れ」
紗羅さんは言葉を切って自分から椅子にかけた。その隣に玲子ちゃんが座り、対面に座すよう俺を促した。
「ボクも担当医として同席はするけど、きみのこと助けたりしないからね。一応ボクからのアドバイス――紗羅ちゃんて怖いから、何でもハイハイ言った方が身のためだと思うな」
「ちょ、それって冤罪でも認めろってことですかっ!? しかもボクっ子!? 萌えっ!」
白衣の天使としか思ってなかった玲子ちゃんは小悪魔のようにキヒヒッと邪悪に笑った。
「人聞きの悪いことを言うな。こちらとしても冤罪を回避したいのは同じだ。貴様は聞かれたことを正確に答えればそれでいい。ただし、嘘を言っていると思ったら殴りとばす。嘘っぽくても蹴りとばす。完璧に嘘と判明したら――まあ一度目は小指の一本くらいで勘弁してやろう」
「なんか俺、ほとんど喋りたくない気がしますけど!!」
警察じゃなくてヤクザだろ、そのケジメのつけかた!
「黙秘したら撃ち殺す」
さらりと言って、紗羅さんはジャケットの左側の襟を引っ張って内側を見せた。細身のわりにふくよかなお胸の隣に、黒革のホルスターに収まった銃らしきものが見えた。
「コレを使うことにもさして制約はない。そして私は射撃が大っっっ好きだ。わかったか?」
俺はぴんと背筋を伸ばして力強くハイと答えた。
「ではそこにかけて話せ。貴様と、貴様の『妹』に何が起こったのかをな――」