7-1
右手に意識を集中し、メアリーの感覚に自分を近づける。
奴の現在位置を探ると、中央廊下を通り過ぎて向こう側の廊下に到着したところだった。
今がチャンスだ。紗羅さんとの密着シチュエーションが少し名残惜しくもあったが、俺はそっとロッカーを開けて室内に飛び出した。
「今なら途中で奴に出くわす心配はないと思います。急いで移動しましょう」
紗羅さんは返事もせずに先に走り出した。
半分取れかかったボロボロの扉を慎重に開け放ち、廊下の左右に人影がないことを確認してから移動開始。少し治まってきたとはいえ、股間が元気になったせいで歩きづらいことこの上ない。俺はがに股になりながらひょこひょこと走った。
メアリーの知覚では士堂は現在こちらのほぼ対角位置にいる。このまま行けば気づかれるまでに階段に到着できるだろう。
しかし何事もうまくいかないのが人生というか不幸の法則というか。
突然、士堂の気配が急速に移動を始めたことで息子が一気に縮み上がった。
「――っ!? やばい、奴が階段に向かって走り出しました!」
「ちっ! 足を止めるな。奴よりも先に階段へ出る!」
紗羅さんが大声で指示を飛ばした。こうなっては少しでも早く階段に辿り着くことが先決だ。
廊下の角を曲がりきった時、ほとんど同時に向かい側の角から鎧武者が姿を現した。
俺たちを階段に近づけさせまいと突進の構えを見せる鎧神。
しかし紗羅さんはスピードを緩めることなく疾走を続ける。走りながら銃を手に構え、相手に向けてでたらめに発砲した。
銃弾が相手に無効なのはわかりきっている。銃撃はダメージを狙ったものではなかった。いかに無敵の鎧を着ていようと、士堂本人の意識が残っている以上は人間の感覚があるということだ。発砲を受けたことで反射的に筋肉が硬直し、鎧の動きが鈍った。
結果、奴は間に合わなかった。紗羅さんの姿が階段の踊り場へと吸いこまれたのを確認し、俺はその場で足を止めた。
士堂が紗羅さんを追う素振りを見せれば後ろから襲いかかって邪魔してやるつもりだったが、奴は俺が残ったのを見てむしろ好都合とでもいうふうに軽く肩をすくめた。
「薄情な相棒だ。自分だけさっさと逃げやがった。おれが興味あったのはあんたの方だから、べつにいいけどさ」
紗羅さんの安全が確保できたことで少し安堵したが、それは同時に俺の生存率が劇的に下がったことを意味する。正直言ってかなり怖い。俺は内心の怯えを悟られないように口を開いた。
「……気づいてないだろうから教えてやるけど、今この建物の周りにはたくさんパトカーや警官隊が集まってきてるぞ」
「だから? おれとあんたが試合う邪魔さえしなければそれでいい」
「そんな場合じゃないってわからないのか? おまえの素性はもう割れてる。たとえうまく逃げおおせたとしても全国指名手配もんだぞ。おとなしく投降した方が身のためだと思うぜ?」
これは賭けではあったが、狗神の時とは違い人格が完全には失われてはいない士堂に対しては説得もそれなりに効果を発揮するだろうと考えたのだ。
「わかった。これが最後になるなら余計、悔いのない試合をしよう」
……説得失敗。こいつはただの戦闘狂だ。初めから戦うことしか頭にないのだから先のことなどどうでもいいのだろう。
こうなったら相手をして時間を稼ぐか、隙を見て逃げるしかない。相手の攻撃に備えて右手の蛇を呼び出そうとした、その時だった。
「なあ、あんた大学生? 少し話をしないか?」
士堂がふと刀を下ろして戦闘の中断を告げた。意外な申し出に俺は鼻白んだ。
「……話って、なんだよ?」
「おれのことを教えるから、あんたのことを聞かせてくれよ」
顔を覆っていた面頬がすっと消え失せたかと思うと、士堂は返事を待たずに語り始めた。
「うちはけっこう歴史のある家で、この辺りが逆白藩だった頃よりずっと昔から続く武士の家系だ。士堂流は実戦派剣術の道場も開いていて、そっちの歴史も三百年はくだらない。おれはそこの一八代目跡取りさ。こう見えても免許皆伝なんだぜ?」
相手が何のつもりかは知らないが、少し話を聞くことにした。時間稼ぎにはもってこいだし、人格が壊れてないこいつの話は〝D〟に関する重要な情報も含まれているかもしれない。……って、剣道三段にして実践派剣術のマスターだってのかよ。どんなスーパー高校生だ!
「でも今年の五月だったかな。交通事故に遭って左肘をやっちまったんだ。医者には全治三ヶ月って診断されて、その間稽古はできなくなった。なあ、これがどういう意味かわかるか? 夏のインターハイだよ。高校最後の舞台に、おれは出場することすらできなかったんだ」
「…………」
「悔しかったよ。これまでずっと研鑽を積んできたのに、ちょっとした不幸ですべてが台無しだ。今でもあの頃を思い出すと気分が悪い……荒れまくってたからな。夏が終わりギプスは外れて左手も元通りになったけど、おれの心にはぽっかりと穴があいたままだった。そして秋頃だったかな――こいつと出逢ったんだ」
士堂は手甲に覆われた手で己の体を覆う武者鎧を指し示した。
「うちの土蔵には古い書物やら武器甲冑の類がたくさん残ってる。この刀も無銘だがかなりの業物さ。そしてこの鎧は、中でも家宝とされてる一品でね。なんでもご先祖がどこぞの大名から授かったものらしい」
俺には鎧の価値なんざまったくわからないが、たしかに博物館などに展示されていてもおかしくないくらいには立派な物に見えた。武将が着る鎧のような華美な装飾は皆無だが、実戦的な機能美を突き詰めたスタイリッシュさがある。実際、先の強靱な装甲を鑑みるに驚異的な性能を誇るのはまちがいない。
「ところがだ、こいつは一度も戦場に赴くことなく戦乱の世は終わりを告げた。それをありがたがって祖父さまなんかは天下泰平の象徴だとか言っていたけどな。おれに言わせりゃ、こいつは慚愧と切望の象徴さ」
少年の声はいつしか熱を帯び、まるで演説するような口調に変わっていた。
「戦場を駆けるために作られた鎧にとって、泰平の世なんて意味はない。こいつもおれと同じで己を試す場を与えられず、力を誇示することもそれを讃えられることもなかった。武を志す者にとってこれ以上の無念があると思うか? おれたちは戦場を求めた。戦いにしか己の存在意義を見出せなかった。おれにはこいつの声が聞こえたんだ。暗い土蔵の中で、何百年もずっとずっと待ち続けていたこいつの声が。そしてこいつと出逢った時、すべてが変わった。おれは鎧の力を使い、鎧はおれの力を使って無念を晴らす。試合だ。おれたちの前に立つ勇気のある者に存分に己をぶつける――それがおれたちの望んだものだからだ」
俺は話を聞きながら、ふと白鷺先生の言葉を思い出していた。
――〝D〟は感染者の潜在的な欲望や願いをより強く具現化させるやろ。元々の波長が合えば取り憑きやすくもなるし、そういう場合は特に欲望一直線になりやすいんや。
まさに士堂の場合がこれだ。奴の言葉は初めは大袈裟だと思っていたが、極限まで純化された想いは本物だ。憑かれたからこうなったのか、こうだったから憑かれたのか――その問いは意味をなさない。少年と鎧神は互いに呼び合い、望んで融合を果たしたのだから。
そして鎧武者が市内をうろつくようになった。秋頃という言葉は噂の始まった時期とぴったり一致する。
話に一段落ついたのか、士堂は俺を指さした。
「で、あんたは? 今度はそっちの右手のことを教えてくれよ」
「いや……けっこう長くなるからなあ」
そんなふうに言葉を濁してみたが、話すつもりなど最初からない。自分が話したのだから当然相手も話してくれるだろうなんて、高校生らしいガキの考えだ。俺は自分のことについて、特にこの右手にまつわる話はしたくないし、誰にもするつもりはなかった。
でも士堂の話は参考になったし、忘れないうちにメモして後日研究所に持って行こう。俺ってズルイ大人だろ?
「付き合うぜ。じつは興味あるんだ。おれ以外の能力者がどうやって目醒めたのかとか――」
初めて見る自分以外の〝D〟に興味津々らしく、士堂は完全にダベリモードに突入して隙だらけだった。だいぶん砕けた感じになってきたところで悪いが、もう時間稼ぎは充分だ。
「そうだな、あれは夏だったか……いや、元はと言えば春ぐらいから兆候はあった気がするなあ……」
思わせぶりな言葉を適当に口にしながらそろりそろりと階段に近づき――一気に走った。
この期に及んで逃走するとは思ってなかったのだろう、士堂は呆気に取られた様子だったが、すぐに怒声をあげて追いかけてきた。
「貴っ様ぁああああッ!! 待てっ! 卑怯だぞ!」
怒り狂う武者を無視して階段の前に出た俺は、小学生の頃の得意技だった階段全段飛ばしをじつに十年以上ぶりに披露。数秒の無重力を経て階下の踊り場に着地した。さすがに無茶だった。全体重を受け止めた両脚がじんと痛み、着地の勢いを殺しきれずにその場で転がった。いってえっ……!
涙目になりながらハッと上を見ると、面頬を憤怒の形相に歪ませた鎧武者が階段を駆け下りてくるところだった。その迫力は凄まじいなんてもんじゃない。
足の痛みがすっと引いたと同時に逃走再開。こんな時だけは己に宿るズバ抜けた回復力がありがたい。たとえ骨がイッてたとしても気にしてる場合じゃないけどな……まさに命懸けの鬼ごっこだ。
さすがに続けて全段飛ばしをするのはやめて、数段まとめて段差を飛び越えながら一気に階段を下った。
一方、鎧武者は重量の問題なのかバランスの問題なのか、段差のある場所ではスピードを出し切れないらしく、奴との距離が少しずつ開いていくのを右手で感じた。
一階の廊下に降り立つと同時に玄関目指して疾走した。呼吸が乱れ心臓がパンクしそうだった。命懸けのかくれんぼに続いて鬼ごっこまでさせられた体はとうに悲鳴をあげ、疲労は限界に達しようとしていた。俺はそれでも足を止めなかった。
外に出れば武装した大勢の警官隊と、対抗策を用意した紗羅さんが待機しているはずだ。
あと少しだ。すぐそこに終着点が見えている。早く、早く――もう少しで終わる。もう、ゴールしてもいいよね?
「――逃げ、きったああああああぁぁぁっッッ!!」
妙な高揚感に沸いた頭で絶叫しながら玄関をダッシュでくぐり抜けた俺は、清涼に澄んだ冬の空気を荒い呼吸のまま大きく吸いこんで、
「…………あれ?」
呆然とその場で立ち尽くした。