6-1
建物の中は外よりも暗かったが、夜目に慣れていたこともあり移動に問題はなかった。
廃墟内部は荒れ果て、内装はめちゃくちゃで壁にもひび割れが目立つ。空気はひどく澱んでいて異常に埃っぽい。元はカーペット敷きだったものが無惨に剥がされコンクリートが剥き出しになった床に瓦礫やガラスの破片、空き缶やゴミ袋が散乱していた。それらを蹴飛ばしながら薄暗い廊下を疾走し、目についた階段の方に向かうと一気に駆け上がった。
「おい、ちょっと待て! なぜ上に逃げるんだ?」
特に意味なんてなかった。階段の踊り場で立ち止まって思わず紗羅さんと顔を見合わせる。
「いいかげん手を放せ、きしょく悪い!」
強引に手を振り払われた。フヒヒ、サーセン。
「貴様、何も考えてないな? 上に逃げたところで袋の鼠だろうが!」
あ、そうか。どうせなら裏口を探して外に出てから表に回りこめば逃げられたんだ。素直に失敗を認め、さあ戻ろうとしたところに――がしゃん。鎧武者の足音がすぐ近くで聞こえた。
「ちっ! 戻れなくなったではないか! 仕方ない、上に行くぞっ」
二階だとすぐばれるので三階に上がり、そこで紗羅さんは少し考えてから足音を忍ばせつつ四階まで駆け上がった。
「三階の廊下はカーペットが剥がれてコンクリートが剥き出しだった。埃で足跡がまるわかりだ。上の階で足跡が残らない場所を探す」
俺はそこまで気が回らなかったのでさすがの観察力に感心してしまう。
好都合なことに四階はカーペット敷きが残ったままだった。フロアに侵入するとすぐに廊下が左右に伸びて、どちらも突き当たりの壁で建物奥に向かって折れ曲がっていた。
カーペットの上に足跡が残らないことを確認しながら右の廊下へ進む。ちょうど突き当たりの角を曲がった時、がしゃんがしゃんと足音が上ってくるのが聞こえた。あの野郎、もう上がってきやがった!
紗羅さんが曲がり角の壁に背中をつけ、そっと階段の方を窺いながら小声で指示する。
「外観からこの建物は五階建てのはずだ。カーペットがなければ足跡が残ることに気づいていれば、奴は五階の廊下がどうであるかも確認するかもしれん。もし奴が上に向かったら、我々はその隙に一階まで駆け下りる」
なるほど、やり過ごし方としては上々だと思う。いつも冷静沈着な判断に惚れそうだ。
「右手の蛇は表に出すなよ。貴様らは互いを探知するらしいが、片方が隠れてしまえばもう片方からは見えなくなるんだったな?」
言われるまでもなくすでにメアリーはしまってある。士堂は鎧を出したままなので俺には離れ過ぎない限り奴の現在位置が大まかにわかるが、向こうは俺を目で追うしかない。しかもこのハンデ――〝D〟が互いを探知するためのルールを奴は知らない。自分以外の〝D〟と遭遇したことがない相手だからこそ大きな差が出た形だ。
「おそらく奴の異常患部は皮膚か骨格だ。自らの肉体の一部を硬質化させて鎧武者として顕在化させることができるのだろう。人格は分離型――士堂拓真本人の人格はそのまま残っており、たまに鎧神の人格が現れる程度。精神汚染の度合いは不明だが、殺人に対する抵抗が消えているのは己の『試合がしたい』という欲望を最優先させているからだろうな」
これまでのやりとりから相手の情報をざっと見抜いて分析したらしい。こっちには紗羅さんという〝D〟対策のプロが一緒だし、ルーキーとはいえ俺だって彼女の元で何度か死線をくぐり抜けてきた。そう易々とやられてたまるかというきもちが湧き上がってくるのを感じた。
「しかし銃弾を弾き貴様の刀も通さんとは、想像以上に厄介な相手だぞ。くそ、こんなことならM72LAW(対戦車ロケットランチャー)をもってくればよかった」
そんなもん持ってんのかよ。あんた女ランボーか。
まあたしかに手強い相手だが、そろそろ車を降りて十分以上は経過しているし、しばらくすれば警官の増援がやってくるはずだ。そうなればよりこちらの有利になるだけでなく、相手の素性はわかっているのだから仕切り直しで士堂拓真の逮捕は時間の問題だろう。
そんな楽観的な考えを吹き飛ばすように、士堂の声が四階中に響き渡った。
「――無駄だ。埃は階段にも積もっている。あんたらの足跡はここまでしかない。四階のどこかにいることは丸わかりだ」
あ、作戦失敗……。紗羅さんが緊張の面持ちのまま顎でくいと廊下の奥を指した。静かに移動を再開するということらしい。
左側の壁に扉が二つ並んで、階の中央を分断して交差する中央廊下を挟んでまた扉が二つ見えた。どうやら漢字の日という字に似た構造になっているようだ。
紗羅さんは中央廊下の手前、二つ目の扉の前で立ち止まり上を見上げた。ロッカールームと書かれた埃だらけの札が刺さっている。ノブを回すと鍵はかかっていなかった。
「ひとまず中に隠れるぞ。奴は我々を階段に近寄らせたくないはずだが、こちらに動きがなければ痺れを切らして各部屋を探しにくるはずだ。その隙に階段から外へ出る」
開閉音が響かないよう慎重にドアを空けて隙間から順番に身を滑りこませる。窓のない室内は真っ暗で、携帯のディスプレイの明かりで照らすと、左右正面にずらりとロッカーが並んでいるのが見えた。高校の頃教室にあった掃除道具入れのロッカーがちょうどこれくらいの大きさだったっけ。中に隠れて女子の着替えを覗いたのは青春のいい思い出だ。
のんびり回想している暇はなかった。がしゃんっと激しい衝撃音が隣の部屋から聞こえてきて俺は飛び上がった。どすん、ばたんと室内を荒らす音が断続的に聞こえてくる。きっと次はこの部屋にやってくるはずだ。
「ロッカーの中に隠れるぞ!」
紗羅さんが小声で叫んで奥に向かって走り出した。俺も慌てて後に続いた。
左端のロッカーを開いて身を滑りこませた彼女にならって隣のロッカーの扉に手をかける。が、鍵がかかっていて開かない。その横も同じだった。
ちょ……どうなってんだ?
いつの間にか隣の部屋の物音はやんで、士堂の気配が廊下を近づいてくるのを感じた。まずい!
慌てて次のロッカーを試すもダメ。その隣……やっぱりダメ。慌てふためきながら次々と開閉を試すも鍵がかかっているものばかりだ。なんでどれも開いてないんだよ!?
「風間っ!? 何をしてる、早くどこかに隠れろ!」
さすがに紗羅さんも焦った様子だったが、隠れる場所がないから困ってるんだってば!
俺は先にロッカーの扉を閉めようとしてしていた冷血女に駆け寄ると、閉まりかけた扉を手でガードして止めた。
「すいません、どこも満席みたいなんで、相席よろしいでしょうか!?」
「よ、よろしいはずがあるかっ! 一人で死ねっ!」
予想通り千尋の谷に全力で突き飛ばす勢いで拒否られたが、こっちだって命が懸かっている。俺はむりやり隙間から体をねじこませて強引にロッカー内に侵入した。
紗羅さんが愕然とした顔をすぐに怒りの形相に変えてなおも追い出そうとしてきたが、二人が暴れ回るには少々スペースが足りない。相手が全力で抵抗できないのをいいことにさらに体を奥へつっこんで、細心の注意を払いながら扉を閉めた。ガチャン、と音がして心臓が止まりかけたが、ほぼ同時に入り口のドアを蹴破ろうとする激しい轟音がそれをかき消した。ごつん、がすんっとドアが悲鳴を上げて、次の一撃でドアが蝶つがいごと外れた音がした。
狭苦しい暗闇の中で俺は息を止めた。紗羅さんも最後の抵抗とばかりにこちらに背を向けた後は微動だにせず息を殺している。端から見れば、ロッカー内の側壁に体の前半分をべったりと付けて固まる紗羅さんと、それに後ろから覆い被さる俺という構図だ。鼻の前にちょうど紗羅さんの髪があって良い香りが鼻腔をくすぐった。
しかし密着シチュエーションを堪能するにはあまりにデンジャラスな状況だ。さすがにロッカー扉一枚という距離では、潜っているメアリーが見つかる恐れすらある。奴が鈍感なタイプであることを祈るしかない。
気配がだんだんとこちらに近づいてくる。俺たちの隠れているロッカーのすぐ近くで足音が止まり、思わず身が竦んだ。と――
ドガンッと叩きつけるような衝撃が壁を震わせた。
ぶわっと嫌な汗が全身に浮かんだ。
一つ隣のロッカーの扉を殴ったか蹴ったかしたのだろう。今度はガチャガチャと音がしたが、そこは鍵付きだったところだ。再びロッカーを殴りつける音が何度か続き、それがやむと一つ向こうのロッカーをまたガチャガチャとやり始めた。
気配は徐々に離れていきながら三つ、四つと開閉を試していたようだが、結局どれも開かなかったらしい。急にすべての音が消えたと思うと、足音が遠ざかっていった。俺たちが隠れることはできないと判断したのだろう。
た、助かった……てゆーか、一発で鍵無しのロッカーを選ぶとは、紗羅さん幸運すぎる。