5-2
――最初は四肢だった。
ジャージ姿がみるみるうちに黒い何かに浸食されていき、それは暗い灰色の金属の篭手と手甲、脛当てへと変わった。胸から腹までを一枚の鉄板でできた胴が覆い、腰から膝にかけて垂れ下がるのは佩楯だ。変化はそれだけにとどまらず、人外の笑みを浮かべた少年の顔の下半分が黒の面頬に包まれ、頭全体を重々しい鉄兜が覆った。
一瞬にして全身鎧武者の姿へ変貌を遂げた少年が、兜から前に張り出した庇の奥の目を爛々と輝かせながら真剣を構え直した。
か、かっこいい……変身ヒーローかよこいつ?
男として思わず熱いものを感じずにはいられない衝撃的な光景だった。
そんな悠長なことを考えていたのも束の間、俺は右手が激しく疼きだすのを感じた。〝D〟が間近に顕現したことで、あいつがさっそく目を醒ましたらしい。
不意をうったように轟音が夜の静寂を引き裂いた。紗羅さんが発砲したのだ。銃弾が鎧武者に着弾し暗闇に火花が散った。本当に判断が早いというか躊躇がないというか、先制攻撃はお手の物な人だ。
両手を体の前に交差させて防御の姿勢をとっていた鎧武者が、すぐに何事もなかったように足を踏み出した。がしゃん、と重い足音が響き渡る。
この時点で鎧が銃弾を通さないことが確実になった。えーと……始まって数秒でこっちの戦力がいきなり半分って、どういうこと?
「撃たれたのは初めてだけど、こいつには効かないってことがわかった。まあ自信はあったよ。マンションの四階から飛び降りてもぜんぜん平気だったしね。この鎧は無敵だ。誰もおれを傷つけることはできない」
その言葉に含まれた違和に反応し、紗羅さんが声を荒げた。
「Aの切腹自殺は、やはり貴様の仕業だったのか?」
「A? ああ、あの大学生の人ね。そうだよ、あいつらが逃げ出した後を追って部屋を突き止めたんだ。次の日の夜に訪ねて引っ越しの挨拶ですって言ったら簡単に鍵を開けてくれたからね。彼には醜態をさらした罰として、腹を切ってもらった」
……なんてことだ。やっぱり密室トリックもクソもなかったわけだ。こいつは普通に人間の姿のままAのところへ行き、殺した後は無敵の鎧をつけてベランダから下の空き地に飛び降りて逃げた。人間じゃないなら人間らしい論法で考えること自体ナンセンスだった。末原が正しかったと認めるのは癪だが、密室はただの結果でしかなかったのだ。
「さあ試合おう。ずっと待ってたんだ。ずっとずっとずっとずっと、試合がしたかった」
がしゃん――鎧武者がさらに距離を詰める。奴の剣の間合いに入った瞬間、空気が凍てついたように感じた。これが死の間合いの緊迫感ってやつか。
だがそれは、俺にとっても絶対的な距離だった。
限界線は破られ、右手を抑える意味はもはや消失――ゆえに、ここに獣の覚醒を認め、醒めない悪夢を再開しよう。
ふっと右手の感覚が遊離して自身の制御を離れるのを感じた。
右手首の辺りから黒い斑点のような細かい鱗が現れ、徐々に皮膚を浸食し始める。それが指先から肘の手前くらいまでをびっしりと覆い尽くし、手の甲が半球体の形に盛り上がった。つるりとした表面に二つの亀裂が生じ、それは禍々しい真紅の目を開いた。
おはよう、くそったれのファッキン蛇め。
俺は本当に心の底からおまえなんて大嫌いなんだぜ?
永遠に眠ってて欲しかったくらいだよ。
なあ、俺の〝悪夢ちゃん〟。
心の声に呼応するかのように、蛇の額をぶつりと突き破ってどす黒い角が生えてきた。月明かりに照らされ鈍く黒光りするそれは、刀に酷似していた。
「――――」
士堂の動きは完全に止まっていた。面頬のせいで表情は見えないが、兜の下で目を見開き驚きまくっているだろうことは想像がつく。
どう考えてもおまえの変身シーンの方がインパクト的にすごいと思うけどな。まあ気色悪さではこっちの圧勝かもしれないけど。
「……本当に、なんて夜だ。まさかおれ以外の能力者がいたなんて……」
能力者? 違和感むき出しの言葉に俺はやれやれと肩を竦めた。
「おまえなんか勘違いしてるだろ。そういうの中二病っていうんだぜ? 俺のこれもおまえのそれもただの病気で、俺らは病人なんだよ。俺よりおまえの方が重症みたいだけどな」
たまにこういう〝D〟を特別視する輩がいることは知っていたが、いざ目の前にすると気持ち悪くて鳥肌が立つ。いわく神に選ばれた者、いわく力に目醒めた聖者、いわく祟りの代行者――クソくらえだ。
これはただの現実で、けして醒めない悪夢だ。普通に楽しく生きた後で普通に楽に死にたいなんて思いながら適当に暮らしていた俺の日常をめちゃくちゃに破壊しフルスイングで雲の彼方まで投擲してくれやがったクソ野郎共を『神』などと呼ぶのも躊躇われる。こいつは、こいつらは人間の手によって駆逐されるべき病原体でしかない。
「病気? まあ何だろうとおれたちはもうただの人間じゃない。あんたのそれは剣――いや、刀か? なんてこった、おれが鎧で、あんたが刀か! はははははっ! すごい符号だと思わないか? おもしろい……さあやろう。存分に試合おうっ!」
狂笑する鎧武者がだんっと地面を蹴った。上段に構えた真剣が月に煌めく。その瞬間俺は、面頬の口許がぐにゃりと歪み、鎧神が不気味に笑うのを見た。
生きた鎧――そんなもんはこの世にあってはならないものだ。俺の右手がそうであるように、存在することすら許されないものだ。それを理解できないならば、せめて世間様の迷惑にならないように病院のベッドでおとなしくしてろってんだ。そのために俺は嫌々ながらもおまえらを狩る手伝いをしてやってるんだぜ。ちっとは感謝しろっつーんだよ!
俺は右手の刀を引き気味に半歩だけ後退し、相手に対して体を横に向けた。剣道の有段者相手にまともにチャンバラするつもりはない。こっちは型にはまらないやり方でやるだけだ。
銀光が振り下ろされ空を切り裂いた。
紙一重どころか充分すぎる距離をとって攻撃を避け、刀を振り切った無防備な姿勢に向けて右手の角を振り下ろす。
大嫌いと言いつつも、俺は自分の右腕に宿る蛇をある意味で信頼している。いかに銃弾を弾く装甲であろうと、こいつなら切り裂けると思っていた。感染者の異常再生力を思えば腕の一本や二本落としたところで死にはしないから容赦する必要もない。
メアリーの斬撃は狙い通りに奴の右腕を切断する勢いで肩の袖へと吸いこまれ――そこで止まった。
ガキンッと金属同士のぶつかる音と共に闇に火花が舞う。黒い刀身は肩当てに弾かれ、傷一つつけられなかった。
おいおい、嘘だろ……?
「あんた、なにしてんの? 今おれが下から切り上げたらどうなると思う?」
真横から呆れた声がかかり、慌てて後退して相手から距離をとる。明らかに敵に助けられた感じでかなり恥ずかしい。
「チッ、刀の扱いはド素人かよ。まあ同じか。どんな達人でもこの鎧を斬ることはできない!」
再び上段から鋭い斬撃が襲いかかる。間一髪、メアリーの刃を交差する形で防いだが、腕全体が痺れるほどの衝撃と痛みに膝が抜け落ちそうになった。
まずい……こんな攻撃を何度も受け切る自信はない。鍔競りになって必死で相手の刀を押し返しながら、額に冷や汗が滲んだ。
士堂がふっと刀を戻して距離を取った。あのまま鍔競りを続けるだけで楽に勝てたかもしれないのに……と疑問に思ったところでククッと小さく笑う声が聞こえた。どうやら遊ばれているらしい。
むかつくが余裕ぶっていても奴の動きには一切隙がない。下手に斬りかかろうものならあっさりと切り伏せられるだろう。それくらい彼我の実力差は開いていた。技量の差だけでなく、こちらの攻撃を無効化するほどの鉄壁の鎧だ。攻守共に完敗……どうやったって勝てるはずないじゃん!
「――風間っ! いったん退くぞっ」
後ろで見ていた紗羅さんが叫んだが、先回りする形で鎧武者が動いた。俊敏な動きで回りこんで正門跡の前に立ちはだかる。
「おれの正体を知ったあんたたちを生かしておくつもりはない。生き残りたかったら、おれを倒してみるんだな」
もろ悪役の口上をのたまう相手に気圧され、俺と紗羅さんは後ずさるしかなかった。じりじりと後退するうちに背後に建物の壁が迫った。
本気でやばいかもしれない……銃もメアリーも効かない相手なんて完全に想定外だ。逆転の手を考えようにも、思いつく前に斬り殺されるのがオチだろう。
こうなったら最後の手段しかない。俺は紗羅さんの手を掴んで叫んだ。
「とりあえず建物の中に逃げましょう!」
目を白黒させている紗羅さんの手を引いて一目散に逆走する俺。超かっこ悪いけど、しょうがないじゃん!
都合のいいことに建物の玄関扉のガラスは割られ侵入は容易だった。張り巡らされた立ち入り禁止の札付きロープをメアリーの刃で切り裂きながら、俺たちは廃ビルの中へと駆けこんだ。