5-1
数日後の二十二日、夜九時半。
俺は紗羅さんの運転するシルヴィアの助手席に座り、窓の外をゆっくりと流れる町並みをぼんやり眺めていた。
自殺事件の調査を一通り終えた彼女が今夜から夜警を始めるというので便乗して乗せてもらったのだ。さすがに毎晩歩いて見回りしてたら体がもたないのでかなり助かった。もちろん紗羅さんは俺の体を気遣ってくれたわけじゃなく、これまでにわかったことを話すついでに過ぎないのだろうが。
「この三日間、貴様の方でも特に発見はなかったということか」
「ええ。でもサボってませんよ? ちゃんと毎晩、怪しいところを見て回ってました」
鎧武者捜しの行動は空振りに終わっていた。元々ただの胡散臭い噂話の幽霊を捜すなんて雲を掴むような話なので、当然かもしれないが。
「ほう。近所のコンビニの監視カメラに雑誌を立ち読みしている貴様らしき人物が映っていたのだが、あれは人違いということか?」
ギクっ……!? そ、そこまでしたのかこのお方は!?
「い、いやそれは、寒かったから缶コーヒー買って、ついでに新刊のチェックをと……」
「まあいい。警察の方でも貴様の大学を中心とする半径五キロ以内を警戒区域内とし重点的に夜間の警邏を行ったが、収穫はなかった。パトロールに際し付近をうろついている不審者および歩行者に積極的に声をかけるよう指示していたのだが、そちらもふるわなかったようだ」
警察のパトロールでも駄目となると、いよいよどうしようもない気がしてくる。
ただ、と彼女が言葉を続けた。
「少し気になったこともある。一昨日の夜九時頃、警戒地域でランニングをしていた少年がいたそうだ。少年の名前は士堂拓真。市内の私立高校に通う三年生で、剣道部に所属しており三段の腕前、夜にランニングに出て近所の公園で竹刀の素振りをするのが日課となっているそうだ。警官の質問にもよどみなく答えているし、近所の者や剣道部の顧問に裏を取らせたが、夜間のランニングは少年が高校入学した頃から続けていることを周囲も認知していた。少なくとも噂が広まり始めた秋頃になって急に始めたということはないそうだ」
「んー、でもそいつけっこう怪しくないですか? 剣道着だって鎧みたいなもんでしょう?」
「私も少し考えたが、少年は学校指定のジャージ姿で竹刀以外は携帯していなかった。さすがに剣道着を装着してたらひどく目立つだろう。私の方で昨日、BとCから直接話を聞いたが、鎧武者とは戦国時代を彷彿とさせる本格的な具足姿だったらしく、剣道着と見間違えるはずがないと言っていた。面頬と兜を付けた頭部だけでも剣道の面とは大きく見た目が異なるからな」
たしかに大河ドラマとかで見る鎧武者と剣道着ではイメージがぜんぜん違う。物騒な鎧武者だからこそ幽霊なんて噂になるわけで、剣道着を着て町中を歩いてたらギャグにしかならない。
「別の場所に鎧や刀を隠していてその場で着替えるという方法もあるが、その場合は悪戯の可能性の方が高いだろう。だがもしも今回の件が〝D〟だとしたら常識はまったく通じんし、絶対という確証はどこにもない」
こちらを向いた視線が少し痛い。たしかに〝D〟なら何でもありだし、すべてがあの狗神憑きのように人間性を完全に喪失するわけではなく、そういう意味では擬態すら可能なのだから余計にたちが悪い。警官の職質には普通に答えても、その後で本性を現したという可能性は少年以外の誰にでも言えることだった。
「今回の件は長引くやもしれんな」
紗羅さんにそんなつもりはなかったのかもしれないが、その言葉は負い目のある俺にグサリときた。見鬼と末原が益体もない幽霊話を吹きこんできたせいとは言え、そこに〝D〟の可能性を見いだして紗羅さんにフライングで報告したのは俺だし……。
と、不意に車が急停車した。それほどスピードが出ていたわけではないが、慣性で前のめりになった体にシートベルトがくいこんだ。
何事かと思い運転席に目を向けると、紗羅さんはフロントガラスの向こうに鋭い目を向けていた。
「そこの廃墟はたしか噂の事件現場だったな? 一瞬だが、敷地の中で何かが光った。あの壁の跡切れた辺りだ」
明かりの少ない田舎の街らしく、雲一つない夜空には満天の星空が広がっている。その光に照らされ、ぼんやりと闇に浮かび上がる白いコンクリートの壁と巨大な建造物の影が夜を切り取っていた。
闇に沈む建物の窓はほとんど割れ、黒ずんだ壁にはひび割れと汚れが目立つ。言われた辺りに目を凝らしてみると、元は門があったと思われる辺りでコンクリートの壁が途切れて敷地内が見えていた。蔭になっているせいでかなり薄暗く、特に何かがあるわけでもない。紗羅さんの見間違えじゃないかとも思ったが、噂話の現場なのだから注意深くなるのは当然だろう。
紗羅さんは車を路肩に寄せてエンジンを切ると、車内無線機のマイクを手にとった。
「こちら紗羅だ。例の廃ビルにて不審なものを発見した。これより突入して確認する。付近のパトカーはビル周辺の警戒にあたれ。対D装備のない警官は絶対に前に出るなよ。二十分以内に私から再度連絡がない場合は応援部隊を要請する。以上」
ということらしい。この流れだと当然俺も突入部隊決定。むしろ最前衛を歩かされて後ろから味方誤射をくらうポジションなのは言うまでもない。ハハッ、笑えねえ!
「どうした? とっとと降りろ。言っておくが、相手が〝D〟だった場合、容赦するなよ」
紗羅さんは先に車を降りてもう銃のチェックを始めている。殺る気まんまんっすね! まあ容赦したとこなんて見たことない紗羅さんに言われずとも、俺だって自分が大切だ。気は進まないが行くしかない。
廃ビルの向かい側は一面が雑木林になっており、辺りはちょっと気味が悪いくらいの静寂に包まれていた。二人並んで冬の夜空の下を歩き出す。厚着してきたのにやっぱり寒い。すぐに耳が冷たくなって感覚がなくなった。
俺、この仕事が終わったらうちに帰って甘いココアを飲みながらこたつでヌクヌクするんだ……などと温かい我が家に思いを馳せながら、古びた門柱の間をくぐり抜けて敷地に足を踏み入れた時だった。
すぐ近くでかさりと草を踏みしめる音が聞こえた。俺たちは同時に音がした方を振り返った。
そこに――少年が立っていた。
色はよくわからないが暗めのジャージの上下に身を包む高校生くらいの男子で、短く刈った髪と細身ながら鍛えていることがわかる程度にしっかりとした体つきをしている。その手に竹刀が握られているのが見えた。
さっき車内で話してた奴かな? と俺が思い当たった頃には紗羅さんも当然気づいていたらしく、構えていた銃を下げながら口を開いた。
「士堂拓真だな? こんなところで何をしている?」
少年はこちらが自分の名前を知っていたことに驚いた顔をしたが、すぐに何を考えているのかわからない微妙な笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「こんばんは。もしかして警察の人たちですか? 先日もお話ししたようにランニングの途中ですよ。いつも同じルートじゃつまらないから、たまにこっちを通るんです」
妙に落ち着いた声で、何か後ろめたいことがあってそれを隠しているような素振りはない。同じ立場だったとしたら俺なら絶対こうはならず、しどろもどろに弁解みたいなことを口にして疑わしきは死刑とか言われて紗羅さんに撃ち殺されるエンドを迎えていただろう。
「廃墟の敷地で竹刀の素振りをしていたわけか。この辺りで何かが光ったように見えたのだが、まさか真剣など持ってはいまいな?」
「真剣? ご覧の通りただの竹刀ですよ」
少年が手にした竹刀をこちらに差し出して見せる。紗羅さんは警官だから剣道か柔道が必須科目だろうが、ことスポーツに関しては全滅の俺は竹刀の実物を見たことすらほとんどない。束ねた竹を布で覆って紐で止めたデザインは別段怪しいところもなく、普通の竹刀と言えばそれまでの代物に思えた。
やっぱりこいつは怪しくないんじゃないかな? と考えたその時、紗羅さんの気配が変わっていることに気づいた。
「ところで、そこに転がっている定礎石なんだが――最近の竹刀は石が斬れるのか?」
見ると、士堂の足下に転がっていた墓石を真っ二つにしたくらいの石の表面に『定』の字が掘られており、そのすぐ隣には『礎』の字が掘られた石が地面から生えていた。
乾いた笑い声が聞こえた。少年がさも可笑しそうに笑っていた。どこが笑うところだったのかまったくわからないが、異様なのはそれだけじゃなかった。その笑い声に混じって、明らかに別人の、もっと野太い感じの声が重なって聞こえたのだ。
「退屈しのぎだったんですよ。お巡りさんたちがうろついてるせいで人が来ないから暇だったんです。なんとなく石切りを試したらできた感じですね。今ならできる気がして」
どんな理屈だよ。さすがに竹刀じゃ虎眼先生でも無理だっつうの!
「風間。……どうやら当たりだったようだな」
緊迫した声と共に紗羅さんが銃を構えながら少年から距離をとり、俺も慌ててそれにならった。
異質な気配をまとう士堂が、慣れた手つきで竹刀を覆う布を結んでいた紐をほどき、一気にはぎ取った。かぶさっていた布と一緒に竹の束がまとめてはがれ、その下にギラリと冷たく光りを放つ刀身が姿を現した。
このガキ、真剣に竹をかぶせて竹刀に見せかけてたのか!
抜き身の真剣を手にした少年が、瞳の中に狂気の色を宿してこちらを見据える。
「本当は警察はまずいかなと思ってたんですけど、あなたたちからは何か強い力を感じる。どうですか? おれと戦ってくれませんか?」
「愚問だ。貴様はすでに銃刀法違反を犯している。戦ってでも貴様を捕らえるのが私の仕事だ」
紗羅さんが毅然と言い放つと、士堂はさも嬉しそうに顔を歪めて笑った。
「その意気やよし。ならば――立ち合おうぞ」
士堂の口から士堂以外の男の声が言って、そして変化が始まった。