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色のない世界。
一切が灰一色に塗り潰されたそこに俺は立っている。
切り取られた世界には何もない。誰もいない。ここは俺だけの領域だ。
けれどそれは過去の話で、今は違う。
変化は女の姿となって現れた。
黒い女だった。長い黒髪と漆黒の着物が女を縁取っている。その肌は浮き立つように白く、また両の目は赤く熟れた鬼灯のような真紅の色をしていた。
「おかえりなさい。また逢えて嬉しいわ」
女が妖しく微笑する。灰色の世界で唯一鮮やかな色彩をもつ女の姿はおぞましいほどに美しく、また蠱惑的なまでに艶めかしかった。
「……失せろ。俺はおまえに逢いたいなんて思ったことはない」
ここは俺の領域で、こいつは後から勝手に居着いた不法侵入者に過ぎない。ゆえにこいつを認めることはできなかった。
「優しくないのね。でも嬉しい。わたしとお話してくれるだけで嬉しいの」
心の底から楽しげに笑う女。その姿は痛々しいほどに無垢で――邪悪でもあった。
「あなたが望むならどんなことでもできるわ。ほら」
女が着物の前を小さくはだけた。ふくよかな胸の膨らみと白い素肌に視線が吸いこまれそうになって、俺は慌てて目を逸らした。
「全部あなたのものよ。欲しいものはすべて与えてあげる。ねえ、触って。その手で、抱いて」
「ふざけるな。戯れ言はやめて消えろよ。俺はもっと普通の夢が見たいんだ」
「わたしに一人きりになれと言うの?」
女が初めて寂しそうな声でつぶやいた。
俺は思わず女の方を見てしまい――そしてひどく後悔した。
白く細い女の首筋。そこに今、真一文字の黒い亀裂が浮かび上がっていた。
美しい女に刻まれた醜い傷痕。それは地獄の形を焼きつけた烙印だ。
「わたしはこんな姿になってしまったのに」
不意に――ずるり、と。
女の頭の位置がずれた。
美しいものが壊れる時、人は倒錯感にも似た強烈な違和を感じる。
頭がぽろりと首の上から滑り落ちて、白い両の手が中空で受け止めた。むせ返るほどの血臭が世界を満たし、俺は眩暈を覚える。
「あなたはわたしを救ってくれた。だから好きなの。そう、とても好きよ」
首だけになった女が妖しく笑い、口の端から鮮やかな赤い雫が滴り落ちた。
「……首ちょんぱな女に好きって言われて喜ぶ男はいないぞ」
「わたしはあなたが好き。だからここにいるの。ねえ、愛してる。ねえ、触れて欲しいな」
俺は会話を諦めた。これ以上話していても埒が明かないし、なによりも不快だ。
どうせこれはただの夢で、ただの極上の悪夢にすぎなくて――――
目が醒めたらまた悪夢の続きが始まるだけだ。