棘と深爪探し
還る愛しさと、巡る悲しみをなぞる白い指先を、喰む夜。君の微笑みをひたすら記憶し続ける。
ひとをうつくしいと思うとき。恋に落ちるのは実にたやすい。
そのこころを、ありのまま、咀嚼したくて。
- 棘 と 深 爪 探 し -
その日の朝はとりわけよく冷えたが、空は快晴であった。まるでふたりを祝福しているようだ、と帝国の民の誰かが口にした。本日はルミアとレノの結婚式典である。
都中が季節外れの花で彩られた。この日のために南の大陸から取り寄せられたのである。ひどく厳格な雰囲気を持っていた白の石の帝都は、慣れぬ花でめかし込んだせいか、どこか馴染まぬ、浮足だつような非日常性を孕んでいた。
花婿は沈黙していた。一週間ほどまえの、竜の剣についての話あいは、竜と娘の物語を語り終えると、ティナが口を閉ざしたことで終結した。質疑応答も許されぬ、果たしてあれは話あいと呼べたのだろうかと、レノは今更ながら思う。彼女によるとーー……、彼女の所有する2本の剣のうち、ひとつは黄竜の剣と呼ばれる剣。その剣は、竜が昔愛した女のために残した、竜の魂の欠片、であるという。
俄かに、信じがたい。
彼女がその剣を持つわけを問うても、彼女は、選ばれた、と言うのみであった。選ばれた、とは? 如何なることなのか。黄竜の剣は選ばれねば扱えないのか。選ばれるとは、どういうことなのか。なぜ彼女が選ばれたのか。疑問ばかりが生まれる。しかし肝心の彼女は黙した。ならばレノ含むユタの者たちも黙さねばならない。
思考する花婿は沈黙していた。
彼の周りの従者たちは誰もが、その張りつめ周りを寄せ付けない雰囲気に、彼が結婚式を目前に控え緊張しているのだろう、と思った。いつもしたたかなあのレノバルディアでさえ、緊張するのか、と珍しそうに言う者もいた。アミリアから来た花嫁の美しさたるや、あのレノバルディアが緊張するのも仕方ない、とも。
花嫁はえもいわれぬ焦燥にかられていた。
言葉にできぬ、理由のない不安が足元からまとわりつき心臓に絡みつくかのようだ。ルミアには理由はわからない。
快晴の空が不気味だ。ユタの帝国は曇天が似合うのだ……今日は曇り空でなくてはならなかったのに、と花嫁は思い悩む。
雲は隠してくれる。天から、わたしを隠してくれるのだ。雲ひとつない空はおそろしい。覆い隠してくれるものが何もないから。
真っ白な花嫁衣装を握りしめた。光沢のある素材のドレスは彼女によく似合っていた。着付けをした侍女たちは花嫁の姿にため息をもらしたほどだ。しかし花嫁の表情は、喜びや自信ではなく、憂いに満ちていた。侍女たちは、花嫁が緊張しているのだと、その儚げで今にも消えてしまいそうな美しさに嘆息した。
花嫁は目を閉じる。
冠についた、純白のきめ細かいレースのヴェールが下ろされる。
今はこのヴェールを、雲と思おう。わたしを、天から、隠してくれる。
「さすが、月の天使ってやつね」
いつも通りの灰色のコートを着た、彼女の騎士が現れる。顔は見えぬが、騎士が笑った気配をルミアは感じとる。
「その呼び名、ほんとうに恥ずかしいわ。私、そこまでロマンチストじゃないもの」
「いいじゃないか、月の天使。天の月から舞い降りる使い……。ぴったりだと思うけどね?」
「いじわる言わないでよ、ティナ。月なんてただ時節をはかるためのものだし、天の使い、なんて……第一、竜神さまは使いなど使わないっていってたの、あなたでしょう。そう思ってて言うのって、性格悪いわよ」
「まぁ、確かにその名付けのセンスの浅はかさには思うところもあるけれどーー……しかし、たかが通り名だ。今日のルミアが、一段とうつくしいことは本当だよ」
騎士は静かに跪き、ルミアの手を取って礼をした。彼女の物言いはまるで口説き文句。ルミアの心のなかになんとも言えぬ感情が広がる。
うつくしい、などと。
彼女に言われてしまっては、まるでそれが、ゆるがぬ真実のようで。
その言葉を素直に享受し、喜べたら、とそんな感情すべてを飲み込んで、花嫁は決意する。
わたしは、結婚する。アミリアの姫という鎧を脱ぎ捨てユタの皇太子姫という仮面をかぶる。
花嫁はヴェールの向こうを見据える。隣には彼女を守る騎士がいる。騎士は笑っている。彼女の餞を祝福してくれているのだ。
ーー……演じきってみせよう。すこし舞台と仮面が変わっただけだ。わたしには騎士がいる。わたしは守られている。わたしは、わたしを演じねばらならない。演じきらなければいけない。人生は、舞台だ。
花嫁は、静かに決意した。その瞳はとても危うく、淑やかに憂いと脆い強さをたたえていた。
花嫁の騎士は、ユタの帝国の婚約の慣習をよく知らない。しかし興味もなかったので、彼女は花嫁が着飾られ、控えの間に案内されるまで、ただぼんやりと、忙しそうに働く人々などを眺めていた。
竜の機嫌が良くない。
それはユタの帝国に入ってからずっとだった。しかしティナは竜に耳を傾けてみようなどとは思わなかったし、またご機嫌をとるなど以ての外であった。機嫌を損ねたいのなら損ねればよい。気がすむのなら、それでいい。どちらにせよ竜は今この世界に干渉できない。できたとしても他者から力を借りねばならない。無力である。そしてティナは彼女の都合でしか、竜に力をかさない。
彼女は第一大陸のほとんどの者のようには、竜を神と崇めてはいなかった。
彼女にとって、竜は協力者、それだけであった。仲間と呼ぶには生温く、易しすぎた。
……我慢して。
彼女は心の中で、竜に言う。伝わっているかなど、わからないし、確かめるつもりもない。おそらく伝わっているだろう。そうでなければ、それまでである。
「おいおい。今日はお前の大事な姫サマの晴れの舞台だっていうのに、その格好か? 」
振り返るとユノが居た。ユタの国の正装だろうか。普段より着飾っている様が、ティナにもわかった。ティナはいつも通り、灰色の外套で頭まで覆っていた。
「……わたしにはこれでいい」
「ドレスは着ないのか」
「持っていない。それに、わたしは着飾るような身分ではない。わたしは騎士だから」
「ふーん」
ユノはしばし黙り、何が考えているようだった。ティナはルミアの控えの間の外の扉の前に居たので、ユノが何故こんなところにいるのか疑問に思った。しかし問うのも面倒なので彼女も黙った。おおかた皇子としての公務、挨拶などをすっぽかし、然るべき場所から逃げ出してきたのだろう。
「お前はお前の婚姻では、ドレスを着るんだよな? 」
「は? 」
ティナは驚いてユノをみた。何か、冗談でもいっているのだろうと。しかし彼の目は、本気で言ったことを物語る。だから彼女は困惑した。
「おまえ、わたしが、婚姻するとでも?」
「え、しないのか」
「そこは察しろ。性にあわないだろうどう考えても。おまえ、この一週間、わたしの修行を勝手に邪魔したりでわたしと関わる間に、察しなかったのか? 」
「いや、灰色の騎士とはいえ、女だし」
「女ならば婚姻する、など古い考え方だ。まずわたしは女である前にルミアの騎士だ。能天気な男だと薄々感じていたが能天気なだけでなくその目は節穴なのか……」
「もったいないな」
「は? 」
「綺麗だろうに」
ユノの視線が彼女を真っ直ぐにとらえる。彼女はその目隠しごしに、男の視線を受け止めた。身勝手で危ういまでの、純粋な真剣さを秘めた男の目と、言葉。おそろしくさえある。本気なのか、と。問うことすら、ゆるさないような真っ直ぐさで以って、彼女をとらえて離さない。
ティナは初めて、自身の目隠しを恨んだ。目隠しをしていても、その特別な布は、布越しの景色が見える。しかし色までは鮮明にはわからず、それは曖昧である。
彼女は、男の瞳の色をよくみたいとおもったのだ。
彼の兄は空色の瞳だが、彼は、水色というより青に近い翠の瞳を持っていた。深い深い翠だ。
「……綺麗、か」
「ああ。きっと綺麗だろう」
「女の格好で着飾ったことはあまりない。わたしは作法を知らない。きっと、見苦しいだろう」
「そうは思わないが……」
「綺麗だとか、うつくしさ、だとかって一体何なんだろうな」
彼女は、ユノの視線から逃れバルコニーに向かった。彼も後から着いて来た。
「どういう意味だ?」
「何故人間はうつくしさだとかに、拘るのだろう」
バルコニーにでると城前の大広場が見えた。婚姻に際して、広場には大陸中から集まった各国の使節などの来賓や、そしてユタの帝国民が集まっていた。
彼女は先ほど、自身がルミアに言った言葉を思い出す。わたしは、ルミアに、うつくしいと言った。どこか不安げな面持ちをしていたルミアにかける言葉があまり見つからなかった。それに、自分はあまり言葉が上手ではないから。うつくしいと言う事に逃げてしまったのかもしれない。彼女の不安を取り除きたくて。それでもルミアをうつくしいと感じるのは事実で。
しかし、うつくしいとはどのような状態をいうのか?
高級な衣服で着飾る? 宝石を身につける?
違う気がした。しかし明確には、彼女にはわからない。
ルミアはうつくしい。しかしそれも己にとって、だ。ルミアは特別だから。己にとって特別な人間は、うつくしく感じるものなのだろうか。では男が女をうつくしいという時は? それが、己自身がルミアに感じる感情と同じには、思えない。彼女にとって、ルミア以外は、
「皮をはげば、みんな同じ。うつくしさなど無意味だ」
そう吐き捨てた彼女の横顔は、確かにうつくしかった。顔は半分もみえないが、男は確信した。男は答える。
「人間が人間らしくあるためにはうつくしさを感じる心が 必要だ。俺は、戦場で、人間の骨も皮も肉も血も見てきた。綺麗事と嘲笑ってもいい。うつくしいものを、うつくしいと感じられるから、俺は人間でいられる」
「…………」
「そして、そう感じられたとき、俺はじぶんが生きている、ってわかるんだ。だからうつくしさには、意味も価値もある」
風が男の髪をゆらした。大広場は喧騒がやまない。それでも男の声、言葉ははっきりと彼女の心深くまで届いた。
彼女は、隣にいる男が、うつくしい、そんな気がしてしまって。
ざわめきが止むように、願った。
「お前は、ユノ、きっと……正直者なんだろうな。馬鹿なほどに」
「なんだと。馬鹿は余計だ」
「馬鹿正直というのだな。お前のような奴を」
「だから馬鹿というな」
彼女はいままで、うつくしさだとか綺麗さだとかは、生々しい真実と対極にある、高貴な人間のためだけのものと思っていた。しかし、この男がそう言うのなら。面白いかもしれない。そう思う。
本物の、心震えるほどのうつくしさというもの。生きてる、そう思わせてくれるもの。
いつかわかるだろうか。
「ルミア様、参りましょう」
控えの間にいるルミアを呼ぶ声がした。いよいよ婚姻の儀がはじまる。