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なにをしようか

作者: nainain
掲載日:2026/10/30

なにをしようか。

 

 ゴロンとベットに寝っ転がっていた僕は天井に向かって、声には出さずに言ってみた。

 でも答えなんて、天井のどこにも書いていなかった。

◇

 ふとスマホを見ると、午前一時四十分だった。

 五月の夜は、まだ少しだけ肌寒い。開けっぱなしの窓から、国道を走るトラックの音が、思い出したように流れこんでくる。

 

眠れないわけじゃない、と思う。眠くないだけだ。

 明日は二限からで、レポートの締め切りは来週で、バイトは土曜。困っていることは、特に何もない。昼間は、それなりに楽しい。学食で友達とくだらない話をして、たまにサークルの飲み会にも顔を出す。

 

 画面の上に、通知が一つ残っていた。

 母さんからだった。

『授業ちゃんと出てる? ご飯はちゃんと食べてね。将来のことも、そろそろ考えておきなさいよ』

 最後の一文で、親指が止まった。

 

 将来のこと。

 

 高校の三者面談でも、先生は同じことを言っていた。将来のことを考えたら、大学は出ておいた方がいい。だから大学に来た。みんなそうしていたし、母さんも喜んでいたし、何も間違っていなかった。なにも間違ってはいなかったんだけど、でも

 

 ただ、あの頃からずっと、聞かれるのは「どこの大学に行くのか」だった。その次は「どんな会社に入りたいのか」だった。

 あなたは「何がしたいの?」なんてことを聞かれたことは、たぶん一度もない。

 聞かれても、困るだけだったけど。

 

『うん、出てる』

 それだけ返して、スマホを伏せた。

 母さんは悪くない。心配してくれているだけだ。

 仕送りの段ボールには、毎回、僕の好きなレトルトのカレーが入っている。

 

 僕は、ちゃんと愛されている。

 

 それなのに、伏せた画面の下で、あの一文がまだ光っている気がした。

◇

 とりあえず、外に出ることにした。

 洗濯かごには、Tシャツが三枚と、バスタオルが一枚。わざわざ行くほどの量じゃない。でも、この部屋にいるよりはましだった。

 サンダルをつっかけて、アパートの外階段を下りる。

 

 コインランドリーは、モノレールの高架の下にある。歩いて三分。二十四時間、白い光がついていて、夜中に通りかかると、そこだけ水槽みたいに浮かんで見える。

 自動ドアが開くと、洗剤と、乾いた熱のにおいがした。

 誰もいなかった。

 一番端の洗濯機に洗濯物を放りこんで、百円玉を四枚入れる。

 

  ごうん ごうん


 と低い音がして、ドラムがゆっくり回りはじめた。

 ベンチに座る。

 丸い窓の向こうで、僕のTシャツが、浮いたり沈んだりしている。ぐるぐる回って、また同じところに戻ってくる。

 見ていると、少しだけ眠くなってくる。だから、ここに来るのかもしれない。

 なにをしようか。

 

 また、口の中で言ってみた。

 ドラムは、答えずに回り続けた。

◇

 ふと、向かいの乾燥機が目に入った。

 一台だけ、扉の丸い窓の内側に、洗濯物が押しつけられている。表示は「終了」。いつ終わったのかは分からない。触ってみると、扉はもうすっかり冷たかった。

 持ち主は、来ない。

 

 壁の貼り紙には、「長時間放置された洗濯物は、店の判断で取り出す場合があります」と書いてある。

 まあ、僕には関係ないだろうと思い

 ベンチに戻って、何を見るでもなく、スマホの画面を指で流していた。

◇

 自動ドアが開いた。

 女の人が入ってきた。

 

 僕と同じくらいの年に見えた。大きめの灰色のパーカーに、裸足にサンダル。手には何も持っていない。洗濯物も、かごも。

 

その人は店の中をぐるっと見回して、僕と目が合うと、にこっと笑った。

 夜中の二時に、唐突に知らない人に向ける笑い方じゃなかった。昔からの友達を見つけたみたいな、遠慮のない笑顔だった。

 つられて、軽く頭を下げる。

 

 その人は、まっすぐ例の乾燥機の前に行った。そして、ためらいもなく扉を開けた。

「え」

 思わず声が出た。

 その人は、中の洗濯物をごっそり抱えて、作業台に広げた。それから、一枚ずつ、たたみはじめた。

「……それ、あなたのですか」

「ううん。知らない人の」

 当たり前みたいに言って、黒い靴下を二つに折る。

「知らない人のを、たたんでるんですか」

「うん」

「なんで」

 その人は手を止めずに、作業台の上を顎で指した。

「見て。靴下、全部同じ黒でしょ。それで、全部かかとが薄くなってる。一日中、立って働いてる人だよ。乾燥機を回して、取りに来ようと思って、そのまま寝ちゃったんだと思う」

 ポロシャツが一枚、広げられる。胸のところに、どこかのお店のロゴが刺繍してあった。

「この人、たぶん今、すごく疲れてるんだよ」

 

 だから、たたんでおいてあげるの。

 そう言って、その人はポロシャツの袖を、きれいに背中の側へ折りこんだ。

 僕は、何と言えばいいのか分からなかった。

 すると、その人はバスタオルを一枚つかんで、僕の方に差し出した。

「はい」

「え」

「二人でやった方が、早いでしょ」

 断る理由を探しているうちに、受け取ってしまっていた。

 タオルは、乾ききって、少しごわごわしていた。知らない誰かの家の、知らない洗剤のにおいがした。

 気づいたら僕は、顔も知らない人のバスタオルを、四つ折りにしていた。

◇

「名前は?」

 隣で、その人が聞いた。

「律です。りつ」

「どんな字?」

「法律の、律」

「決まりの律だ」

 その人は、Tシャツをたたみながら、少し考えるような顔をした。

「旋律の律でもあるね。音楽の」

「……そっちは、考えたことなかったです」

 自分の名前なのに、と思った。十九年、使ってきたのに。

 

「あなたは」

「ソラ」

「どんな字ですか」

「カタカナ」

 カタカナの名前の人には、初めて会った。苗字は言わなかった。どこの大学なのかも、そもそも大学生なのかも、聞かなかった。

 聞くほどのことでもない気がした。

 

「律は、なんでこんな時間にいるの」

 ソラが、手を動かしたまま聞いた。

「……なんとなく、です。眠くなくて」

 少し迷ってから、付け足した。

「母さんから、将来のこと考えなさいってLINEが来て。それで、なんか」

「いいなあ」

 ソラは、心から羨ましそうに言った。

「お母さん、律のこと大好きなんだね」

「いや、普通ですよ。うるさいだけで」

「……そっか」

 ソラは、少しだけ間をおいてから、笑った。

「そうだよね。親って、子どものこと、何があっても好きなんだもんね」

 たたんだTシャツの角を、指でそっとそろえる。

「絵本でも、映画でも、みんなそう言ってるもん」

 

 根拠、それなんだ。

 そう思って、僕は少しだけ笑った。

 ソラも、笑っていた。

◇

「でも、勝手に触ったら、怒られません?」

 二枚目のタオルを折りながら、僕は言った。

「怒らないよ」

「分かんないじゃないですか。知らない人に触られて、気持ち悪いって思う人もいると思いますけど」

「思わないよ」

 ソラは顔を上げて、笑った。

 

「悪い人なんて、いないんだから」

 

 さらっと、天気の話でもするみたいに言った。

 僕は、ちょっと笑いそうになった。小学生みたいなことを言う人だ。

「いや、いるでしょ。悪い人」

「どこに?」

「どこにって……ニュースとか、毎日」

「ニュースの人に、会ったことある?」

「ないですけど」

「じゃあ、律が会ったことある人の中で、本当に悪い人って、誰?」

 答えようとして、口が止まった。

 

 中学の時の、すぐ怒鳴る担任。部活の、口の悪い先輩。でも、悪い人かと言われると、違う気がした。担任は、卒業式の日に一人だけ泣いていた。先輩は、僕が試合でミスした日、何も言わずにスポーツドリンクを放ってよこした。

「……すぐには、思いつかないですけど」

「でしょ」

 ソラは、勝ち誇ったみたいに言った。

「人はね、悪いって分かってて、悪いことはしないんだよ。何か理由があるの。だから、悪い人なんていないの」

 言っていることは、無茶苦茶だった。

 

 でも、どこから言い返せばいいのか、分からなかった。

◇

 遠くで、サイレンが鳴った。

 国道の方だ。だんだん近づいてきて、店の前の道を、赤い光が通りすぎていく。

 ソラの手が、一瞬だけ止まった。

 

 タオルの端から離れた右手が、親指をほかの指の中にしまうみたいに、きゅっと丸くなる。

 サイレンが遠ざかると、その手はまた、何事もなかったようにタオルを折りはじめた。

 

 寒いのかな、と思った。裸足だし。

◇

 最後の靴下が、二つに折られた。

 ソラは、たたみ終えた洗濯物を、店の青いかごにきちんと積み上げた。一番上に、黒い靴下を二足ずつ並べる。全部が、同じ大きさの四角になっていた。

 知らない人の、知らない一日が、きれいな四角に収まっている。

 

 朝になって、ここに来たその人は、これを見て何と思うんだろう。

 ソラは、満足そうにかごを眺めた。

 それから、ぱん、と小さく手を叩いて、僕の方を振り向いた。

 

「さて、なにをしようか」

 

 僕は、自分の耳を疑った。

 さっき、天井に向かって言った言葉と、同じだった。

「……え、帰らないんですか」

「帰らないよ。まだ夜、こんなに残ってるのに」

 ソラは、僕の手首をつかんだ。

「行こ、律」

「いや、僕の洗濯、まだ終わってないんですけど」

「洗濯機は、待っててくれるよ」

 ぐい、と引っぱられる。思ったより、ずっと強い力だった。

◇

 自動ドアが開くと、外の空気は、店の中よりずっと冷たかった。

 頭の上を、モノレールの高架がまっすぐ伸びている。終電はとっくに終わっていて、レールの下は、何の音もしなかった。

 ソラは僕の手首をつかんだまま、どんどん歩いていく。サンダルの音が、ぺたぺたと、誰もいない道に響く。

 どこに行くんですか、と聞こうとして、やめた。

 たぶん、この人も知らない。

 

 知らないまま、こんなに楽しそうに歩いている。

 街灯の下で、ソラが振り向いて笑った。

「律、お腹すいてない?」

 

 午前二時半。

 

 僕の洗濯物は、まだ、あのドラムの中で回っている。

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