なにをしようか
なにをしようか。
ゴロンとベットに寝っ転がっていた僕は天井に向かって、声には出さずに言ってみた。
でも答えなんて、天井のどこにも書いていなかった。
◇
ふとスマホを見ると、午前一時四十分だった。
五月の夜は、まだ少しだけ肌寒い。開けっぱなしの窓から、国道を走るトラックの音が、思い出したように流れこんでくる。
眠れないわけじゃない、と思う。眠くないだけだ。
明日は二限からで、レポートの締め切りは来週で、バイトは土曜。困っていることは、特に何もない。昼間は、それなりに楽しい。学食で友達とくだらない話をして、たまにサークルの飲み会にも顔を出す。
画面の上に、通知が一つ残っていた。
母さんからだった。
『授業ちゃんと出てる? ご飯はちゃんと食べてね。将来のことも、そろそろ考えておきなさいよ』
最後の一文で、親指が止まった。
将来のこと。
高校の三者面談でも、先生は同じことを言っていた。将来のことを考えたら、大学は出ておいた方がいい。だから大学に来た。みんなそうしていたし、母さんも喜んでいたし、何も間違っていなかった。なにも間違ってはいなかったんだけど、でも
ただ、あの頃からずっと、聞かれるのは「どこの大学に行くのか」だった。その次は「どんな会社に入りたいのか」だった。
あなたは「何がしたいの?」なんてことを聞かれたことは、たぶん一度もない。
聞かれても、困るだけだったけど。
『うん、出てる』
それだけ返して、スマホを伏せた。
母さんは悪くない。心配してくれているだけだ。
仕送りの段ボールには、毎回、僕の好きなレトルトのカレーが入っている。
僕は、ちゃんと愛されている。
それなのに、伏せた画面の下で、あの一文がまだ光っている気がした。
◇
とりあえず、外に出ることにした。
洗濯かごには、Tシャツが三枚と、バスタオルが一枚。わざわざ行くほどの量じゃない。でも、この部屋にいるよりはましだった。
サンダルをつっかけて、アパートの外階段を下りる。
コインランドリーは、モノレールの高架の下にある。歩いて三分。二十四時間、白い光がついていて、夜中に通りかかると、そこだけ水槽みたいに浮かんで見える。
自動ドアが開くと、洗剤と、乾いた熱のにおいがした。
誰もいなかった。
一番端の洗濯機に洗濯物を放りこんで、百円玉を四枚入れる。
ごうん ごうん
と低い音がして、ドラムがゆっくり回りはじめた。
ベンチに座る。
丸い窓の向こうで、僕のTシャツが、浮いたり沈んだりしている。ぐるぐる回って、また同じところに戻ってくる。
見ていると、少しだけ眠くなってくる。だから、ここに来るのかもしれない。
なにをしようか。
また、口の中で言ってみた。
ドラムは、答えずに回り続けた。
◇
ふと、向かいの乾燥機が目に入った。
一台だけ、扉の丸い窓の内側に、洗濯物が押しつけられている。表示は「終了」。いつ終わったのかは分からない。触ってみると、扉はもうすっかり冷たかった。
持ち主は、来ない。
壁の貼り紙には、「長時間放置された洗濯物は、店の判断で取り出す場合があります」と書いてある。
まあ、僕には関係ないだろうと思い
ベンチに戻って、何を見るでもなく、スマホの画面を指で流していた。
◇
自動ドアが開いた。
女の人が入ってきた。
僕と同じくらいの年に見えた。大きめの灰色のパーカーに、裸足にサンダル。手には何も持っていない。洗濯物も、かごも。
その人は店の中をぐるっと見回して、僕と目が合うと、にこっと笑った。
夜中の二時に、唐突に知らない人に向ける笑い方じゃなかった。昔からの友達を見つけたみたいな、遠慮のない笑顔だった。
つられて、軽く頭を下げる。
その人は、まっすぐ例の乾燥機の前に行った。そして、ためらいもなく扉を開けた。
「え」
思わず声が出た。
その人は、中の洗濯物をごっそり抱えて、作業台に広げた。それから、一枚ずつ、たたみはじめた。
「……それ、あなたのですか」
「ううん。知らない人の」
当たり前みたいに言って、黒い靴下を二つに折る。
「知らない人のを、たたんでるんですか」
「うん」
「なんで」
その人は手を止めずに、作業台の上を顎で指した。
「見て。靴下、全部同じ黒でしょ。それで、全部かかとが薄くなってる。一日中、立って働いてる人だよ。乾燥機を回して、取りに来ようと思って、そのまま寝ちゃったんだと思う」
ポロシャツが一枚、広げられる。胸のところに、どこかのお店のロゴが刺繍してあった。
「この人、たぶん今、すごく疲れてるんだよ」
だから、たたんでおいてあげるの。
そう言って、その人はポロシャツの袖を、きれいに背中の側へ折りこんだ。
僕は、何と言えばいいのか分からなかった。
すると、その人はバスタオルを一枚つかんで、僕の方に差し出した。
「はい」
「え」
「二人でやった方が、早いでしょ」
断る理由を探しているうちに、受け取ってしまっていた。
タオルは、乾ききって、少しごわごわしていた。知らない誰かの家の、知らない洗剤のにおいがした。
気づいたら僕は、顔も知らない人のバスタオルを、四つ折りにしていた。
◇
「名前は?」
隣で、その人が聞いた。
「律です。りつ」
「どんな字?」
「法律の、律」
「決まりの律だ」
その人は、Tシャツをたたみながら、少し考えるような顔をした。
「旋律の律でもあるね。音楽の」
「……そっちは、考えたことなかったです」
自分の名前なのに、と思った。十九年、使ってきたのに。
「あなたは」
「ソラ」
「どんな字ですか」
「カタカナ」
カタカナの名前の人には、初めて会った。苗字は言わなかった。どこの大学なのかも、そもそも大学生なのかも、聞かなかった。
聞くほどのことでもない気がした。
「律は、なんでこんな時間にいるの」
ソラが、手を動かしたまま聞いた。
「……なんとなく、です。眠くなくて」
少し迷ってから、付け足した。
「母さんから、将来のこと考えなさいってLINEが来て。それで、なんか」
「いいなあ」
ソラは、心から羨ましそうに言った。
「お母さん、律のこと大好きなんだね」
「いや、普通ですよ。うるさいだけで」
「……そっか」
ソラは、少しだけ間をおいてから、笑った。
「そうだよね。親って、子どものこと、何があっても好きなんだもんね」
たたんだTシャツの角を、指でそっとそろえる。
「絵本でも、映画でも、みんなそう言ってるもん」
根拠、それなんだ。
そう思って、僕は少しだけ笑った。
ソラも、笑っていた。
◇
「でも、勝手に触ったら、怒られません?」
二枚目のタオルを折りながら、僕は言った。
「怒らないよ」
「分かんないじゃないですか。知らない人に触られて、気持ち悪いって思う人もいると思いますけど」
「思わないよ」
ソラは顔を上げて、笑った。
「悪い人なんて、いないんだから」
さらっと、天気の話でもするみたいに言った。
僕は、ちょっと笑いそうになった。小学生みたいなことを言う人だ。
「いや、いるでしょ。悪い人」
「どこに?」
「どこにって……ニュースとか、毎日」
「ニュースの人に、会ったことある?」
「ないですけど」
「じゃあ、律が会ったことある人の中で、本当に悪い人って、誰?」
答えようとして、口が止まった。
中学の時の、すぐ怒鳴る担任。部活の、口の悪い先輩。でも、悪い人かと言われると、違う気がした。担任は、卒業式の日に一人だけ泣いていた。先輩は、僕が試合でミスした日、何も言わずにスポーツドリンクを放ってよこした。
「……すぐには、思いつかないですけど」
「でしょ」
ソラは、勝ち誇ったみたいに言った。
「人はね、悪いって分かってて、悪いことはしないんだよ。何か理由があるの。だから、悪い人なんていないの」
言っていることは、無茶苦茶だった。
でも、どこから言い返せばいいのか、分からなかった。
◇
遠くで、サイレンが鳴った。
国道の方だ。だんだん近づいてきて、店の前の道を、赤い光が通りすぎていく。
ソラの手が、一瞬だけ止まった。
タオルの端から離れた右手が、親指をほかの指の中にしまうみたいに、きゅっと丸くなる。
サイレンが遠ざかると、その手はまた、何事もなかったようにタオルを折りはじめた。
寒いのかな、と思った。裸足だし。
◇
最後の靴下が、二つに折られた。
ソラは、たたみ終えた洗濯物を、店の青いかごにきちんと積み上げた。一番上に、黒い靴下を二足ずつ並べる。全部が、同じ大きさの四角になっていた。
知らない人の、知らない一日が、きれいな四角に収まっている。
朝になって、ここに来たその人は、これを見て何と思うんだろう。
ソラは、満足そうにかごを眺めた。
それから、ぱん、と小さく手を叩いて、僕の方を振り向いた。
「さて、なにをしようか」
僕は、自分の耳を疑った。
さっき、天井に向かって言った言葉と、同じだった。
「……え、帰らないんですか」
「帰らないよ。まだ夜、こんなに残ってるのに」
ソラは、僕の手首をつかんだ。
「行こ、律」
「いや、僕の洗濯、まだ終わってないんですけど」
「洗濯機は、待っててくれるよ」
ぐい、と引っぱられる。思ったより、ずっと強い力だった。
◇
自動ドアが開くと、外の空気は、店の中よりずっと冷たかった。
頭の上を、モノレールの高架がまっすぐ伸びている。終電はとっくに終わっていて、レールの下は、何の音もしなかった。
ソラは僕の手首をつかんだまま、どんどん歩いていく。サンダルの音が、ぺたぺたと、誰もいない道に響く。
どこに行くんですか、と聞こうとして、やめた。
たぶん、この人も知らない。
知らないまま、こんなに楽しそうに歩いている。
街灯の下で、ソラが振り向いて笑った。
「律、お腹すいてない?」
午前二時半。
僕の洗濯物は、まだ、あのドラムの中で回っている。




