↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

たった一個の卵のせいで、婚約者にダークウェブに『0.01円』で売られた俺の末路

作者: 熾星
掲載日:2026/07/27


 海外での救出作戦に参加した俺たちは、赤外線に映りにくい熱遮蔽スーツを身につけていた。出発前、スマートフォンや温かい飲み物、食べ物など、熱を発するものはすべて準備区域に置いていくよう繰り返し警告していた。


わずかな異常熱源でも、チーム全員が露見する可能性があるからだ。


ところが、婚約者の義弟は言いつけを破り、茹でたての熱い卵をこっそり戦闘服に隠して持ち込んだ。作戦が始まる前に、その異常な熱源が敵の熱画像装置に捉えられ、一斉掃射を浴びることになった。


婚約者の頼みでしんがりを務めた俺は、彼女の義弟を守ろうとして腰に被弾した。


病室の入り口で、彼女の冷笑が聞こえてきた。


「卵一つ食べることさえ許さないの?許の家の犬が、主人の頭の上に座ろうってわけ?」


すぐに、俺の個人情報がダークウェブに出品された。価格は0.01元。


何度ページを更新しても変わらない。


胸の痛みは、銃創よりも深かった――彼女の目には、俺は飼い犬に過ぎなかったのだ。





1



「やっぱり美月姉さんが一番だよ」


 病室から聞こえる悠真の笑い声は、耳障りなほど楽しげだった。


「一円払うだけで、伝説の現場指揮官の個人情報が全部手に入るんだ。神代蓮がこれを見た時、どんな顔をするのか想像するだけで笑えるよ」


 美月の声には、ますます甘さが増していった。


「あなたを喜ばせられるなら、むしろ蓮にとっても光栄でしょう」


「あなたの顔を潰したのだから、今度は私があの人の顔を完全に潰してあげる。昔の敵に捕まったあと、あなたの前で跪いて謝らなければ、葛城家には二度と守ってもらえないと思い知らせるのよ」


 悠真は満足そうに鼻歌を歌い始めた。


 廊下の端に立っていた俺の心は、ゆっくりと底へ沈んでいった。


 この五年間、俺は美月を背中を預けられる相手だと信じてきた。彼女は俺の習慣も弱点も知っており、俺がどの武装組織や国際犯罪グループと敵対してきたのかも把握していた。


 俺は彼女に、一つの秘密も隠さなかった。


 最後に俺を刺したのは、その無条件の信頼だった。


 初めて悠真を作戦へ参加させた時も、彼は命令を無視した。


 任務地は山間部の密林だった。俺は全員に茂みを避けて進むよう明確に指示したが、悠真は誰よりも先に標的を発見しようと勝手に飛び込み、敵が仕掛けた感知装置を踏んだ。


 チーム全体が包囲されかけた。


 俺は悠真を連れ戻す途中で脚を撃たれ、一か月近く入院することになった。


 ところが事故調査の際、美月は悠真の責任を追及しなかった。それどころか、彼を臨時の副隊長へ昇格させた。


「悠真はこの業界に入ったばかりだけど、才能があるのは分かるでしょう?」


 美月は病床の横に座り、当然のことのように告げた。


「本当に能力のある人間は、いつまでも他人の下では働きたくないものよ。蓮は経験が豊富なのだから、もう少し面倒を見てあげて」


 当時の俺は全身に冷や汗を浮かべ、痛みに耐えるだけで精いっぱいだった。彼女と議論する力など残っていなかった。


 今回も悠真は、熱画像装置についての警告を無視し、熱い卵を持って作戦区域へ入った。その結果、三人の隊員が死亡し、俺も腰を撃たれた。


 葛城グループが提出した正式な報告書には、「敵が救出経路を事前に察知していた」としか書かれていなかった。


 悠真の名前は一文字も記されていない。


 そして俺が受け取った報酬は、一円で売られた完全な個人情報と、五千万円の懸賞金だった。


 俺には理解できなかった。


 悠真は、美月が外で知り合った年下の隊員にすぎない。血のつながりなど一切ないのに、なぜそこまで大切にするのか。


 悠真が初めて葛城グループへ来た日、仲間の一人が俺に意味ありげな視線を送ってきた。


「あの若い色男、隊長への宣戦布告に来たんじゃないですか?」


 俺はその場で、くだらないことを言うなと厳しく注意した。


 だが今になって振り返れば、過去の出来事のすべてが、俺に二人の関係を疑わせているように思えた。


 やがて俺は、美月が自分より優れた人間を好んでいたわけではないと気づいた。


 彼女が好きなのは、自分を頼り、崇拝し、決して疑問を口にしない人間だった。


 俺の能力が高まり、自分の判断で行動するようになるほど、美月は俺が支配から逃れようとしていると感じたのだろう。一方の悠真は、彼女を見上げて「姉さん」と呼び、成功はすべて美月のおかげだと褒めたたえ、失敗は他人の責任にした。


 美月が守っていたのは、悠真本人ではなかったのかもしれない。


 誰かから無条件に依存される感覚を守っていたのだ。


 悠真もまた、俺がチーム内で得ている地位を以前から妬んでいた。


 俺がいる限り、隊員たちは無意識に俺の判断を待つ。取引先が葛城グループで最も信頼できる現場要員について話す時も、思い浮かべる名前は神代蓮だけだった。


 悠真は、俺の地位を欲しがっていた。


 俺の名声も欲しがっていた。


 そして何より、葛城グループの伝説と呼ばれた男が、自分の足元に屈する姿を全員に見せたかったのだ。


 二人が男女の関係ではなかったとしても、美月の悠真に対する甘やかし方は、とうに正常な範囲を超えていた。


 悠真の自尊心を守るためなら、三人の隊員を犠牲にできる。


 彼の機嫌を直すためなら、俺の命を地下社会全体へ差し出せる。


 俺は拳を握り締め、病院の非常階段へ身を隠した。靴底の隠し場所から予備の携帯電話を取り出す。


 登録されている番号は、一つだけだった。


 電話がつながると同時に、焦った声が聞こえた。


「隊長、今どこにいるんですか?」


「あなたの情報がすべて流出しています。送信元を調べていますが、葛城グループの内部サーバーが使われていて、どの端末から投稿されたのか特定できません」


「今は絶対に、葛城グループの保護区域から出ないでください」


 俺は冷たい壁へ寄りかかり、苦笑した。


「調べなくていい」


「美月だ」


 電話の向こうが、長い間沈黙した。


 黒崎迅は、長年俺に付き従ってきた副隊長だ。この世界で俺が完全に信頼できる、数少ない人間でもあった。


「だから送信元が特定できないんですね」


 迅は声を低くした。


「葛城美月は、誰よりも隊長のことを知っています。あなたを殺そうと思えば、どんな敵より簡単にできる」


 俺は腰からにじみ続ける血を見下ろした。


「迅、今いる場所を特定してくれ」


「安全な場所へ移動させる方法を考えてほしい」


「美月については……」


 俺は少し言葉を止め、ゆっくり目を閉じた。


「ここまで来たら、互いの良心に任せるしかない」


「本当にその時が来たなら、武器を向け合うことになるだろう」



2



 迅の仲間は、俺を廃ビルの地下室へ移動させた。


 そこは特殊な改修が施され、一般的な通信電波の大半を遮断できるようになっていた。高い位置に細長い窓が一つだけあり、埃に覆われたガラスを通して、わずかな灰色の光が湿った床へ落ちていた。


 俺は壁際に座り込んだ。


 かび臭さと血のにおいが混じり、吐き気がする。時折、足元を鼠が通り過ぎたが、追い払う余力すら残っていなかった。


 傍らへ置いていた作戦用端末が震えた。


 葛城グループから支給された専用機器だった。一般回線につながっていなくても、再起動したり着信へ応答したりすれば、グループ内のシステムへ最後の位置情報が送信される。


 痛みと失血で、判断力が鈍っていた。


 画面に表示された名前を見た瞬間、俺は反射的に通話ボタンを押してしまった。


「蓮、どこにいるの?」


 美月の声には、焦りが満ちていた。


「あなたの情報がダークウェブに流れたと聞いたわ。心配で仕方がないの」


 一瞬だけ、彼女がまだ俺を愛しているような錯覚を覚えた。


 包帯の下から流れ続ける血と痛みが、すぐに俺を現実へ引き戻した。


「まだ死んではいない」


「何よ、その言い方」


 美月は傷ついたような声を出した。


「あなたを心配することまで間違いなの? 今のあなたはとても危険な状況なのよ。外に何人、あなたを捕まえようとしている人がいるか分からない。すぐに迎えに行くわ」


 通話が一方的に切れた。


 暗くなった画面を見つめ、俺は致命的な間違いを犯したことに気づいた。


 美月は、居場所を尋ねるために電話をかけたのではない。


 この端末を起動させることが目的だった。


 位置情報はすでに送信されている。


 俺は無表情で立ち上がり、端末を床へ投げ捨てた。何度も踏みつけ、完全に壊した。


 だが十分もたたないうちに、地下室の外から車が急停止する音が聞こえた。


 美月は重い鉄扉を開き、一人で階段を下りてきた。


 以前の俺なら、危険を冒して迎えに来てくれたことに感動していただろう。


 今は見慣れたその顔を見るだけで、見えない手に喉をつかまれているような息苦しさを感じた。屈辱が呼吸のたびに胸へ流れ込んでくる。


 彼女の前では、俺に尊厳などない。


 プライバシーさえ存在しなかった。


「蓮、早く一緒に来て」


 美月は俺の体を支えようとした。


「ダークウェブで懸賞をかけられているのよ。今のあなたを守れるのは葛城家だけ」


 俺は冷たく笑った。


「一円払えば、俺の情報がすべて買える」


「その情報を使って俺を捕まえれば、五千万円が手に入る」


「今さら、どこへ行こうと同じじゃないのか?」


 美月は返事に詰まったが、その目に後悔の色はなかった。


「葛城グループの防護体制を信じて」


「私があなたを守るから」


 俺は彼女の目を見つめた。


「信じる?」


「これ以上、何を信じろと言うんだ?」


 病院で聞いた言葉が、再び耳の奥によみがえった。


「悠真、安心して。姉さんがきちんと罰を与えるから」


「葛城家がなければ、自分には何の価値もないと思い知らせてあげる」


 胸の奥が、音もなく引きつった。


 美月は何も知らないふりをして、俺の腕を強く引き上げた。


「悠真は少し子供っぽいだけよ。どうして本気になって張り合うの?」


「まさか、本当に私にあの子を罰してほしいの?」


「こんな時にまで意地を張るのはやめて」


 無理に体を引かれたことで、腰の傷が再び裂けた。赤い血が、すぐに包帯を濡らしていく。


 俺は美月に半ば引きずられながら地下室を出て、防弾車へ乗せられた。


 一時間以上走ったあと、車は街から離れた古い訓練施設の前で止まった。


 美月は、葛城グループで最も安全性の高い避難施設だと説明した。


 外周を守る警備員と閉ざされた門を見た時、俺は密かに安堵した。


 心のどこかに、滑稽な期待まで生まれた。


 彼女はまだ、ほんの少しだけ俺を心配しているのかもしれない。


 本当に殺したいわけではなく、ただ少し懲らしめようとしただけなのかもしれない。


 車を降りる前、美月はハンカチを取り出し、俺の顔についた血と汗を優しく拭った。


「蓮、私を信じて」


「私は決して、本気であなたを傷つけたりしない」


 すぐそばにある彼女の顔を見て、俺の心は再び揺らいだ。


 俺はかすかに笑い返した。


 しかし門が開いた瞬間、自分が抱いた期待がどれほど愚かだったのかを思い知った。



3



「未来のお義兄さん、お帰りなさい」


 悠真は広い旧倉庫の中央で両腕を広げ、俺を迎えた。


 顔には、隠す気すらない悪意が浮かんでいる。


 彼の背後には、数十人の男が並んでいた。


 知らない顔は一つもない。


 俺が直接刑務所へ送った者もいれば、商売を潰され、国外へ逃げざるを得なくなった者もいる。最も恨みの浅い者でさえ、俺の追跡から逃れるために数年間も身を隠し、家族に会えなかった。


 全員、過去に俺が敵へ回した人間だった。


「これはこれは、葛城グループの伝説的な隊長じゃないか」


 顔に傷のある男が二歩ほど進み出て、俺を値踏みするように見回した。


「神代蓮。昔は随分と威張っていたのに、今じゃひどい有り様だな」


 別の男が床へ唾を吐いた。


「伝説だと? 葛城家に飼われている番犬じゃないか」


「俺は今日という日を三年間待っていたんだ」


 ある男が袖をまくった。目からは憎悪があふれそうになっている。


「こいつと話すことなんてないだろ」


「今すぐ殴り殺してやりたい」


 俺は背を向けようとしたが、美月が腕を強くつかんだ。


「蓮、逃げないで」


「あなたたちの間には、いろいろな誤解があるだけよ。きちんと話せば、きっと分かり合えるわ」


 あまりに馬鹿げた言葉に、思わず笑いが漏れた。


「誤解?」


「人を殺すことに何のためらいもない連中と、俺にどんな誤解があると言うんだ?」


 倉庫の中に大きな笑い声が響いた。


「聞いたか? 伝説のオペレーター様も怖いらしいぞ」


「尻尾を巻いて逃げようとしてやがる」


 言葉が終わる前に、背中へ強烈な蹴りを受けた。


 体が前へよろめき、腰の傷口が完全に開いた。服の下を血が流れ落ち、俺は傷口を押さえながら体を折り、必死に痛みに耐えた。


 美月は俺の前まで歩いてきて、ゆっくり腰をかがめた。


 指先で俺の頬を優しくなぞり、変わらず穏やかな声で話しかける。


「蓮、解決できない誤解なんてないわ」


「痛いなら、少し我慢して」


「言うことを聞いて」


 残っている力を振り絞り、俺は彼女の手を払いのけた。


 体の痛みなど、心の痛みの百分の一にも満たなかった。


 美月の表情が、目に見えて冷たくなった。


 悠真が近づき、ためらいなく俺の頬を打った。


「美月姉さんが優しくしてくれているのに、その態度は何だよ」


「恩知らずにもほどがある」


 美月は何も言わなかった。


 立ち上がって俺を見下ろし、バッグからスマートフォンを取り出した。懸賞ページを表示し、俺の顔の前へ突きつける。


 懸賞金はさらに上がっていた。


 五千万円から、六千万円になっている。


「まだ意地を張るつもり?」


 美月の目には、一切の温度がなかった。


「少なくともここにいれば、命だけは残してあげられるわ」


 悠真は俺の前へしゃがみ、笑いながら頬を軽く叩いた。


「お前がずっと俺の前にいることが、昔から気に入らなかったんだ」


「お前がいる限り、チームの全員がお前の命令しか聞かない。顧客が葛城グループについて話す時も、思い浮かべるのは神代蓮だけだ。誰も俺のことなんて覚えていない」


 悠真の笑顔は、少しずつ歪んでいった。


「お前が完全に使い物にならなくなれば、俺が葛城グループの新しいエースになれる」


 俺は美月を見た。


 彼女にも悠真の言葉は聞こえていたはずだが、何の反応も示さなかった。


 その瞬間、俺の心に長い雪が降り始めたような感覚がした。


 ようやく、すべてを理解した。


 美月にとって俺は、好きなように利用し、飼い慣らし、罰を与えられる道具にすぎない。


 悠真を不機嫌にさせただけで、彼女は俺を誰にでも差し出せる。


 美月はバッグから、りんご味のグミを一袋取り出した。


 袋を開け、一粒を俺の口元へ差し出す。


「蓮、昔あなたが教えてくれた言葉よ」


「甘い物を食べれば、つらい時も乗り越えられるんでしょう?」


 グミを見つめた瞬間、何年も前の光景がよみがえった。


 当時、美月はまだ葛城家の実権を握っていなかった。


 屋敷の裏口にある階段へ座り、家族の中に自分の居場所がないと泣いていた。叔父たちは彼女を排除しようとし、取締役会も若い女性にグループを継ぐ資格はないと考えていた。


 俺は彼女へ、りんご味のグミを一粒差し出した。


「甘い物を食べれば、つらいことを少しだけ忘れられる」


 美月は涙で濡れた顔を上げ、嘘だと言った。


 俺は彼女の頭を撫でた。


「本当だよ」


「今日さえ乗り切れば、明日はまた別の方法を考えられる」


 それ以来、俺は美月が持つ最も鋭い刃となった。


 彼女の計画へ協力し、内部の障害を取り除き、危険な任務を何度もこなした。そうして美月を、葛城グループの頂点へ押し上げた。


 思い出すと、苦笑しか出てこなかった。


 俺たちの関係が、りんご味のグミから始まったのなら、同じ物ですべてを終わらせよう。


 俺は口を開き、グミを飲み込んだ。


 甘さを感じる間もなく、手足から急速に力が抜けていった。


 俺は床へ崩れ落ち、指一本動かせなくなった。


「美月……」


「このグミに、薬を入れたのか?」


 二人の始まりを象徴する物を使って、美月が俺を陥れるとは夢にも思わなかった。


 胸が一瞬で引き裂かれたように感じた。


 痛みにも、段階があるらしい。


 これ以上は苦しめないと思った場所のさらに下に、絶望と呼ばれる深淵があった。



4



 倉庫に集まっていた男たちが、一斉に押し寄せてきた。


 拳と足が、容赦なく体へ降り注いだ。冷たい床に倒れた俺は、身動きもできず、頭を守るために腕を上げる力さえ残されていなかった。


 彼らは俺を取り囲み、長年ため込んできた憎しみをぶつけた。


 悠真は少し離れた場所に立ち、スマートフォンで撮影している。


「神代隊長、そんな怖い顔をしないでよ」


「久しぶりにみんなと会えたんだから、少しくらい協力してくれないと」


 誰かが髪をつかみ、無理やり顔を上げさせた。


「犬みたいに鳴いてみろよ」


「葛城家で飼われている犬が、犬の鳴き方も知らないのか?」


 再び笑い声が広がった。


 彼らは命のない球でも扱うように、俺を蹴って転がした。股の下をくぐれと命じる者もいれば、靴底で顔を踏みつけ、悠真へ謝罪するよう要求する者もいた。


 美月は、少し離れた場所へ座っていた。


 一度も目をそらさない。


 止めることもしなかった。


 ぼやけた視界の中で彼女を見つめ、俺は最後に残っていた尊厳を、自分の手で美月の足元へ差し出した。


「美月……」


「頼む……」


「もう、許してくれ……」


 彼女がまだ俺を愛しているなどと、期待することはできなかった。


 ただ、最低限の良心だけは残っていると信じたかった。


 美月は悠真の腕へ自分の腕を絡ませ、顔を背けた。


 その瞬間、俺の中に残っていた最後の何かが死んだ。


 俺は目を閉じ、彼らの暴力に身を任せた。


 痛みが体の限界を超え、意識が遠のき始めた頃、美月の声が遠くから聞こえた気がした。


「もう十分でしょう」


「その人の命は、まだ使い道があるから」


 彼女は、俺が死ぬことを惜しんだのではない。


 最も使いやすい道具を失いたくなかっただけだ。


 次に意識を取り戻した時、俺は病院のベッドに横たわっていた。


 全身のどこを動かしても痛み、息をするたび、体の内側を刃物で切られているようだった。目覚めずにいられたなら、その方が幸せだったのかもしれない。


 医師から、全身に十二か所の骨折があると告げられた。


 内臓にも損傷があり、腰の銃創は再び裂けている。命が助かったとしても、長期的な後遺症が残る可能性が高いという。


「生きているだけでも、奇跡に近い状態です」


 視界の焦点が定まらず、医師の顔をはっきり見ることができなかった。


 それでも病室の扉が開いた瞬間、美月と悠真の姿だけはすぐに分かった。


 美月はベッドへ近づき、心配そうに布団を掛け直した。


「目が覚めたのね」


「何か食べたい物はある? 誰かに買ってこさせるわ」


 悠真は笑いながら、果物の籠をベッド脇へ置いた。


「美月姉さん、俺は北京ダックが食べたいな」


 美月は困ったように笑い、悠真の額を指先で軽くつついた。


「これは蓮へのお見舞いなのに、病人から食べ物を奪うつもり?」


「仕方ないわね。あとで買ってきてもらうから」


 俺は目を閉じ、二人の顔を見ないようにした。


 一秒でも長く見ていれば、昨夜の光景が頭の中で繰り返される。


「未来のお義兄さん、昨日は少しやりすぎたよ」


 悠真は形だけの謝罪を口にし、水をコップへ注いで差し出した。


「心の広い人なんだから、本気で怒ってはいないよね?」


 俺にはコップを受け取る力がなかった。


 美月がすぐに眉を寄せる。


「悠真はもう謝ったでしょう」


「あの人たちのことも私が処理したわ。二度とあなたの前には現れない。もう終わったことなのだから、いつまでも責めるのはやめて」


 その後も何かを言っていたが、俺の耳には入らなかった。


 二人が病室を出る前、美月は扉の前で振り返った。


「一人でよく考えて」


「ここは葛城グループが出資している医療センターよ。必要な物があれば、何でも医師に伝えて」


 ようやく病室に俺一人だけが残った。


 必死に上体を起こし、泣こうとした。しかし体の中にあった水分は、昨夜すべて血となって流れ出てしまったようだった。


 ベッド脇のスマートフォンへ手を伸ばす。


 画面が明るくなった瞬間、頭の中で激しい音が鳴った。


 昨夜の動画が、すでにダークウェブへ投稿されていた。


『かつての伝説的隊長、跪いて犬のまねをする――完全版』


『葛城家の番犬・神代蓮を辱める映像――ノーカット版』


 赤く強調された題名が、目へ突き刺さった。


 小さなスマートフォンを持っていられないほど、手が震えた。


 画面に二件の暗号化メッセージが届いた。


「準備はすべて整いました。すぐに迎えに行きます」


「隊長……本当につらい思いをさせてしまいました」


 俺はスマートフォンを強く握った。


 一滴の涙が、ようやく画面へ落ちた。


 すべてを終わらせる時が来た。



5



 担当医はすぐに、俺の傷が通常の作戦事故で生じたものではないと気づいた。


 俺は詳しい説明をしなかった。医師も深く問いただそうとはせず、検査中に、葛城グループの関係者が病室を管理し、一般の医療従事者が接触することまで制限していると教えてくれた。


 それは通常の医療管理を明らかに超えていた。


 医師は密かに迅へ連絡した。


 内臓損傷の治療には、さらに高度な設備が必要だという理由で、正式な転院を申し出てくれた。迅は正規の許可を持つ民間救急車を手配し、別の一般病院にも受け入れ手続きを済ませた。


 数分後、医療搬送用の制服を着た者たちが、担架を押して病室へ入ってきた。


 その中の一人は俺の姿を見るなり、目を赤くした。


「隊長、俺たちは絶対に葛城家を許しません」


「必ず責任を取らせます」


 長年一緒に戦ってきた隊員の声だった。


 医療スタッフは慎重に俺を担架へ移した。


 俺が痕跡もなく消えたわけではない。


 書類上、俺は設備の整った別の病院へ転院しただけだった。


 しかし救急車は葛城医療センターを出たあと、あらかじめ決めていた場所で車両を変更した。美月の部下が受け入れ先の病院へ到着した時には、俺は別の経路でカルディア共和国を出ていた。


 美月が連絡を受けて病院へ駆けつけた時、病室はすでに空になっていた。


 医療センター内の監視映像をすべて確認し、受け入れ先の病院へも人を送ったが、本当の移動先を見つけることはできなかった。


 最後には、正気を失ったように葛城グループ全体へ命令した。


「捜して!」


「全員で捜しなさい!」


「もう一度懸賞を出してでも、神代蓮を必ず連れ戻して!」


 迅たちに守られ、俺はようやく何も心配せずに眠ることができた。


 次に目を覚ました時、窓の外には見知らぬ湖が広がっていた。


 太陽の光が水面へ落ち、遠くには薄い雪をかぶった山々が見える。


 迅はベッドの横へ座っていた。何日も眠っていないのか、目の下には濃い隈ができている。


「隊長、目が覚めたんですね」


 俺が起き上がろうとすると、迅はすぐに枕を背中へ入れた。


「ここはどこだ?」


「ノルヴィアです」


「葛城家は再び捜索命令を出しました。日本もカルディアも安全ではありません。ここはベルナ湖畔リハビリセンターです。院長は、以前隊長が救ったことのある医師です」


 俺は苦笑した。


 ここまでしても、美月はまだ俺を手放さないらしい。


 迅は俺の考えを察したように、話を続けた。


「ダークウェブ上の元動画は削除しました。最初に映像を広めた複数のアカウントも封鎖しています」


「ですが、すでにダウンロードや複製が行われていて、完全に消すことはできません」


「隊長……申し訳ありません」


 俺は目を閉じた。


 本当は分かっていた。


 一度インターネットへ流れた物を、完全に取り戻すことなどできない。


 迅の声がさらに沈んだ。


「隊長と一緒に葛城家を離れた者は、全員グループとの関係を断つと決めています」


「亡くなった三人の家族にも真相を知らせました。美月は作戦報告書を書き換え、悠真が熱源を持ち込んだ証拠も隠していた」


「必ず葛城家に代償を払わせます」


 俺は首を横に振った。


「葛城グループの力は大きすぎる」


「今、正面から争っても勝てない」


 しばらく考えたあと、俺は続けた。


「ダークウェブと国際警備業界に、俺が重傷で死亡したという情報を流してくれ」


「この業界の中だけで通用する、偽の事故報告書を作る。日本の公的な記録には手を出すな」


「法律上、俺は生きている。ただ美月と、俺を狙っている連中に死んだと思わせればいい」


 迅はうなずいた。


「分かりました」


「隊長が死んだと思えば、葛城家も懸賞を取り下げるかもしれません」


 迅が出ていくと、病室は再び静かになった。


 目を閉じた俺の頭に浮かんだのは、美月や倉庫の光景だけではなかった。


 あの作戦で死んだ、三人の隊員。


 何度も、彼らが銃撃の中へ倒れる姿を思い出した。


 彼らは死ぬ必要などなかった。


 悠真が作戦要員に向いていないことも、命令に従う人間ではないことも、俺は最初から分かっていた。それでも美月から悠真を守るよう言われるたび、俺は妥協を選び続けた。


 自分が十分に強ければ、悠真が犯す間違いをすべて処理できると思っていた。


 最後に代償を支払ったのは、何の罪もない三人だった。


 俺が訓練を止められない理由は、屈辱的な動画だけではなかった。


 生き残った者としての罪悪感もあった。


 なぜ俺が生きているのか。


 あの時、悠真を作戦へ参加させることを拒否していれば、三人は家へ帰れたのではないか。


 俺は何度も、美月が悠真をかばうことを黙認した。


 悪意がなかったとしても、自分の責任から完全に逃れることはできない。


 回復には、想像以上の時間が必要だった。


 最初の数か月は、自力でベッドから立ち上がることすらできなかった。体を動かすたびに医療スタッフの助けが必要で、腰の傷も何度か炎症を起こした。


 半年後、ようやく器具を使って歩けるようになった。


 基礎的な体力訓練を再開できたのは、一年が過ぎてからだった。


 複数の骨折は永久的な影響を残し、天候が崩れると腰に激痛が走った。医師からも、以前と同じ身体能力へ戻ることはできず、最前線で高強度の作戦を続けるのは不可能だと告げられた。


 ダークウェブ上では、俺が死亡したという噂が少しずつ受け入れられていった。


 葛城グループも、ついに懸賞を取り下げた。


 迅によれば、美月は俺の死亡を聞いたあと、数日間部屋へ閉じこもり、泣き続けたという。


 俺は何も感じなかった。


 彼女は昔から演技が得意だった。


 巧妙に作られた優しさがなければ、俺も五年間、喜んで彼女のために命をかけたりしなかっただろう。


 外の情報には興味を持たなくなった。


 毎日、リハビリと訓練だけを続けた。


 一日の予定を、わずかな空白もないほど詰め込んだ。


 迅は何度も休むよう勧めたが、俺には止まることができなかった。


 静かになると、倉庫での光景がよみがえる。


 男たちが俺の顔を踏みつける。


 悠真がスマートフォンを構えて笑う。


 美月が隣へ座り、俺が犬の鳴きまねを強要される姿を平然と見ている。


 そして、作戦区域へ倒れた三人の隊員。


 体はすでにあの場所を離れていた。


 それでも意識だけは、今もそこへ閉じ込められていた。



6



 迅と元隊員たちは相談し、俺にトラウマ支援コーディネーターを紹介した。


 名前は白石澪。


 澪は、俺の担当心理師ではなかった。


 正式な治療は、リハビリセンターに所属する精神科医と公認心理師が行う。澪はリハビリ活動や生活再建、トラウマ支援グループを担当しており、彼女自身も過去に深刻な心的外傷から回復した経験を持っていた。


 初めて会った時、声は穏やかだったが、目には強い意志があった。


「神代さん、過去について話すことがつらいのは分かっています」


「今日、あの日に何が起きたのかを話す必要はありません」


「まずは、一晩続けて眠れるようになる方法から考えてみませんか?」


 俺は何も答えず、彼女を見つめた。


 澪は俺の冷たい態度を気にすることなく、簡単なリハビリ計画を机へ置いた。明日も来ると告げ、その日は部屋を出ていった。


 それから彼女は、毎日リハビリエリアへ現れた。


 最初に話したのは、訓練、食事、睡眠のことだけだった。


 ある日、澪が腕を上げて器具を整えた時、袖口がずれ、手首に残る大きなやけどの痕が見えた。


 俺の視線に気づいたが、彼女はすぐには隠さなかった。


「私も以前、この施設で長い間治療を受けていたんです」


 その日は、それだけしか話さなかった。


 数日後、トラウマ支援グループの活動が終わったあと、澪は自分が生まれてすぐ、女の子だったという理由で両親に捨てられたのだと話した。


 児童養護施設で育ったが、痩せていて無口だったため、頻繁にいじめられたという。


「ある子に、沸かしたばかりのお湯をかけられました」


 澪は手首の傷痕へ指を触れた。


「職員は、その子を叱りませんでした。どうして避けなかったのかと、私を責めたんです」


「その子は、すでに裕福な家庭から養子候補として選ばれていました。周囲の大人は、私よりもその子の方が守られる価値があると思っていたんです」


 そこで澪は話を止めた。


 ずっとあとになり、俺が初めて自分から三人の死について話した時、彼女は物語の続きを教えてくれた。


 当時の澪は、世界中から見捨てられたと思い込み、児童養護施設の屋上へ上がったことがある。


 しかし、加害者を養子として迎える予定だった家庭が真相を知った。


 その家族は最初の決定を取りやめ、傷ついた澪を引き取ることを選んだ。治療にも付き添い、傷つけた人間のために自分の人生を犠牲にする必要はないと教えてくれた。


 澪は顔を上げ、まっすぐ俺の目を見た。


「あなたを傷つけた人は、永遠にあなたの痛みを理解しないかもしれません。責任を取ろうともしないかもしれない」


「今すぐ誰かを許す必要もありません」


「でも、あなたは生き残りました」


「これからどう生きるかは、自分で選び直せます」


 その言葉を聞いただけで、すぐにすべてを受け入れられたわけではない。


 ただ、長い間閉ざされていた心の扉を、誰かが軽く叩いたような気がした。


 俺はこれまで、ずっと他人のために生きてきた。


 美月のため。


 葛城家のため。


 任務と、終わることのない命令のため。


 自分こそが、自分の人生の主役であることを忘れていた。


 俺は少しずつ、澪と言葉を交わすようになった。


 最初は短い返事だけだった。


 やがて、あの救出作戦について初めから話し、三人の死に対して抱いている罪悪感も認めた。


 澪は「あなたのせいではない」と、簡単に慰めることはしなかった。


「あなたは、確かに間違った妥協をしました」


 彼女は真剣な表情で告げた。


「でも、責任を取ることと、一生自分を苦しめることは同じではありません」


「亡くなった人たちを忘れず、家族を支え、同じことが二度と起きないようにすることもできます」


「生きたままそれを続ける方が、毎日頭の中で自分を殺すより意味があります」


 俺は初めて反論しなかった。


 その後の治療でも、澪はリハビリ活動の際に訓練を支え、俺に激しいトラウマ反応が出れば、すぐ正式な治療チームへ連絡した。


 治療期間中、彼女が職業上の境界を越えることはなかった。


 深夜に二人きりで残ることもない。


 理由もなく抱き締めることもない。


 自分の感情を、俺の治療方針へ持ち込むこともなかった。


 時間は少しずつ流れていった。


 ある午後、俺はリハビリセンター近くの芝生で、一人日光を浴びていた。


 日差しは暖かく、湖から吹く風も以前ほど冷たくない。


 もしかすると、人生にはまだ期待できる物が残っているのかもしれない。


 そう考えた瞬間、遠くに見覚えのある姿が現れた。


 俺は勢いよく上体を起こした。


 芝生の向こうに、葛城美月が立っていた。



7



 俺を見つけるまで、美月は一年近い時間を費やした。


 ダークウェブ上の死亡報告を、彼女は最後まで信じなかった。


 グループの情報担当者を大量に動員して俺の行方を追わせ、取締役会からも問題視されていた。最終的に、迅の部下が特殊なリハビリ器具を購入した際、過去に使っていた口座との関連が残り、そこからノルヴィアまでたどり着いたらしい。


 しかし、ここは葛城家の支配が及ぶ場所ではない。


 センターの警備員は、美月が治療区域へ入ることを拒否した。公共の芝生で俺と面会することしか許されていない。


 彼女はもう、誰かへ命令して俺を連れ去ることもできない。


 通信や行動を無理やり管理することもできなかった。


 かつては一言で、俺の生死を決められた女。


 今は数メートル離れた場所に立ち、話だけでも聞いてほしいと頼むことしかできない。


 美月は俺を見るなり、目に喜びを浮かべ、早足で近づいてきた。


 俺の手は無意識に腰の後ろへ伸びた。


 ここはリハビリセンターだ。銃など持っておらず、指先が触れたのは空っぽの服だけだった。


 それでも過去の訓練と恐怖が、体を無意識に防御態勢へ移行させた。


「蓮」


 美月は俺の前で立ち止まり、息を切らしていた。


「やっぱり生きていたのね」


「私は一度も、あなたを捜すことを諦めなかった」


 俺は冷たい目を向けた。


「葛城さん。今度は、どんな方法で俺を苦しめるつもりだ?」


「また個人情報を流すのか。それとも新しい人間を集めて、動画を撮らせるのか?」


 美月の顔から、瞬く間に血の気が引いた。


「蓮、昔の私は間違っていた」


「あなたの情報を流すべきではなかったし、あの人たちを利用して傷つけるべきでもなかった」


「本当に、自分が間違っていたと分かったの」


「もう一度だけ、機会をくれない?」


 懇願する目を見ても、心は少しも動かなかった。


 美月の目が赤くなっていく。


「認めるわ。私は、葛城家の保護がなければ、あなたがどれだけ危険な状況になるのか思い知らせたかった」


「追い詰められれば、もう一度私のもとへ戻ってくると思ったの」


「本当に死なせるつもりはなかった」


 美月は手を伸ばそうとした。


「蓮、私はあなたを愛しているの」


「どうして、そんなに冷たくできるの?」


 俺は一歩後ろへ下がった。


「愛している?」


「自分で危険を作り出しておきながら、救世主のような顔で俺を守ろうとする。それが、君の愛なのか?」


「人に踏みつけられ、犬のまねをさせられる俺を見ておきながら、何もなかったように振る舞う。それが愛なのか?」


「そんな重い愛を、俺には背負えない」


 俺は背を向けた。


 美月が突然、後ろから抱きついてきた。


「蓮、行かないで」


「もう私から離れないで」


「本当に間違っていたの」


 彼女の体は激しく震えていた。


 その時、澪が少し離れた場所から歩いてきた。


 絡み合っている俺たちを見て、足を止めた。目に驚きが浮かんだが、すぐには近づいてこなかった。


 美月は新しい観客を見つけたかのように、さらに大きな声で泣き始めた。


「蓮、本当に私を捨てるの?」


「ほかの女のために、私を置いていくつもり?」


 俺の心に残っていたのは、疲労だけだった。


 泣き続け、声がかすれた頃、俺は腰に回された腕をゆっくり外した。


「美月、俺は五年間、君のために命をかけた」


「葛城グループの実権を握れるよう、すべてを支えた」


「弟のように可愛がっている男のために、二度も銃弾を受けた。彼を守ったせいで、三人の隊員も失った」


「それなのに、君は何をした?」


 美月は涙で濡れた顔を上げた。


「間違っていたと分かっている」


「蓮、私はあなたなしでは生きられない」


「昔のあなたは、そんな冷たい目で私を見たりしなかった」


 俺は深く息を吸い、胸の中に湧き上がる感情を鎮めた。


「君は俺に死んでほしくなかったわけじゃない」


「最も使いやすい道具を失いたくなかっただけだ」


 美月の顔から、完全に血の気が消えた。


「君が取り戻したいのは俺じゃない」


「どんな命令にも従い、すべての問題を処理し、君に安心を与えていた神代蓮を取り戻したいだけだ」


「でも、そいつはもう死んだ」


 美月の体が大きく震えた。


「俺たちの関係は、ずっと前に終わっている」


「君が俺を、好きなように飼い慣らせる道具だと決めた時から、やり直す可能性なんてなくなった」


 俺は彼女を押し離した。


「俺はもう、十分すぎるほど君に尽くした」


 それ以上彼女を見ることなく、俺はその場を去った。


 リハビリセンターへ戻っても、澪は美月との関係を問いたださなかった。


 その日の活動が終わったあと、俺の方から過去を話した。


 美月が階段へ座って泣いていた最初の出会いから、葛城家の権力争いを支えたこと、そして少しずつ彼女の武器へ変わっていった経緯まで。


 最後に、あの倉庫について話した。


 澪は黙って聞き、一度も口を挟まなかった。


 俺が話し終えると、彼女は静かに言った。


「過去を手放すことと、許すことは同じではありません」


「過去に、今の人生まで支配させないと決めることです」


 俺はうなずいた。


 それからは、本当の意味で治療へ向き合うようになった。


 無理な訓練で、自分の感覚を麻痺させることもやめた。


 澪は引き続きリハビリ活動を担当したが、正式な心理療法は別の専門家が行った。俺の治療段階が終了すると、澪も担当職員として俺と個別に関わることはなくなった。


 美月はノルヴィアを離れたあと、二度と姿を現さなかった。


 ある日、迅から電話がかかってくるまでは。


「隊長、葛城グループで問題が起きました」



8



 俺は眉を寄せた。


「何があった?」


 迅は電話で、これまでに起きたことを説明した。


 悠真は俺の情報をダークウェブへ投稿する際、葛城グループの内部サーバーを使用していた。また犯罪者たちを旧訓練施設へ招き入れた時、多額の送金記録や訪問者の情報も残していた。


 俺を辱めた動画には、倉庫内のグループマークや設備番号まで映っていた。


 迅たちは、それらの手掛かりから元映像を発見した。悠真が熱源を持ち込んだ記録や、美月自身が作戦報告書を修正した証拠も手に入れた。


 調査は、すぐに三つの方向へ分かれた。


 一つ目は刑事事件としての捜査だった。


 警察は葛城グループが、保護対象者の個人情報流出、監禁、集団暴行、犯罪者の訓練施設への侵入に関与していたかを調べ始めた。


 二つ目は企業責任の調査だった。


 亡くなった三人の隊員の遺族が共同で訴訟を起こし、完全な作戦記録の公開を求めた。葛城グループが隊員の死亡原因を隠し、事故報告書を改ざんし、資格のない人間を権力関係によって作戦へ参加させていた事実が明らかになっていった。


 三つ目は、海外からの調査だった。


 カルディア政府は、葛城グループが現地の警備許可に違反した疑い、犯罪組織と個人的に接触した疑い、許可を得ずに武装作戦を実施した疑いについて調べ始めた。


 主要な取引先は次々と契約を解除した。


 株価も連日下落した。


 金融機関は新たな融資を停止し、問題のある一部の資金を凍結した。


 取締役会は美月に辞任を求め、警察も美月と悠真を正式に呼び出した。


 皮肉なことに、調査が始まると、真っ先に美月を裏切ったのは悠真だった。


 個人情報の流出も、犯罪者たちを集めた計画も、すべて美月の指示だったと主張した。自分は命令に従っただけだと言い張ったのだ。


 かつて美月の後ろに隠れ、守られていた男は、自分の責任を軽くするため、すべての罪を彼女へ押しつけた。


 葛城グループが一夜で消滅したわけではない。


 長期にわたる捜査、訴訟、資金不足を経て、事業を分割し、海外資産を売却せざるを得なくなった。


 かつて誰も逆らえなかった一族が、ようやく自分たちの行動の代償を支払い始めた。


 迅は電話で尋ねた。


「隊長、葛城家を完全に潰すなら、今が一番の機会です」


「俺たちも動きますか?」


 俺は長い間黙っていた。


 以前の俺なら、迷わず復讐を選んでいただろう。


 しかしベルナ湖のほとりに座り、太陽の光が遠くの雪山へ落ちるのを眺めていると、すべてが自分とは無関係な出来事に思えた。


「もういい」


「葛城家との因縁は、ここで終わりにする」


 迅には理解できないようだった。


「どうしてですか?」


「あいつらは隊長をここまで傷つけたんです。今が最高の復讐の機会なのに」


 俺は静かに息を吐いた。


「葛城家はもう、自分たちの選択の代償を払っている」


「俺たちまで深く関われば、また憎しみの中で生きることになる」


「憎しみを手放しても、許したことにはならない」


「俺はもう、あいつらのために自分を苦しめたくないだけだ」


 電話の向こうがしばらく静かになった。


「分かりました」


「隊長、ほかの仲間たちのことは俺がきちんと手配します」


 電話を切ったあと、俺はリハビリセンターの庭で長い間、日光を浴びていた。


 澪は少し離れた場所で本を読み、時折顔を上げて俺を見ていた。


 自分がようやく、本当の意味で過去から離れ始めていることが分かった。


 さらに時間が過ぎ、葛城グループに関する裁判の結果が出始めた。


 悠真は個人情報の流出、監禁への関与、暴力行為などにより、有罪判決を受けた。


 美月も作戦報告書の改ざん、保護対象者の情報流出、監禁行為への協力などで前科がついた。グループ責任者の地位を失い、葛城家の中枢経営からも外された。


 彼女は狂わなかった。


 路上生活者になったわけでもない。


 何が起きたのか理解したまま、生き続けている。


 ただ、権力を失うと、周囲にいた者たちは一人ずつ姿を消した。


 悠真は法廷で、美月を姉だと思ったことなど一度もないと証言した。彼女の偏愛を利用し、資源や地位を得ていただけだと認めた。


 美月は、最も忠実で、誰よりも自分へ尽くしていた人間を失った。


 しかも、それが自分の選択の結果であることを理解している。


 それだけで十分だった。



9



 日常生活を送れるまで回復したあと、俺はリハビリセンターを離れた。


 迅と、かつて俺と一緒に葛城家を離れた隊員たちも、少しずつノルヴィアへ集まった。


 もう二度と、どこかの一族が所有する武器にはなりたくなかった。


 何度も話し合いを重ね、俺たちは合法的なリスクマネジメント・警備会社を設立することにした。


 会社はノルヴィアで正式に登録し、現地当局の監督を受けた。攻撃を目的とした武装作戦は、一切引き受けない。


 主な業務は、海外で働く一般企業の従業員へのリスク評価、緊急時の退避支援、尾行対策訓練、合法的な身辺警護だった。脅迫やネット上の攻撃、家族からの支配を受けた者に対しては、短期的な避難場所や移動支援も提供した。


 地元警察や法律事務所、医療機関とも協力関係を築いた。


 武装を伴う警護は、必ず現地の法律に従い、厳格な審査を通過した場合だけ実施する。


 後遺症が残った俺は、以前のように最も危険な場所へ飛び込むことができなかった。


 作戦計画を作り、新人を訓練し、危険性を判断する。必要な場合だけ、現場指揮を担当した。


 過去には、人を傷つけるためにしか使えなかった経験。


 それを今度は、人を守るために使える。


 以前の俺は、権力者が握る刃だった。


 今は、その刃を何のために抜くのか、自分で決められる。


 会社を設立したばかりの頃は、資金も顧客も少なかった。


 それでも迅や仲間たちは、一度も不満を口にしなかった。


 全員で事務所を片づけ、自分たちで顧客へ連絡した。経費を節約するため、交代で食事も作った。


 俺たちの努力により、会社は少しずつ軌道へ乗った。


 三人の隊員の遺族に対する支援も続けた。


 死んだ人間を生き返らせることはできない。


 俺にできるのは、自分の責任から逃げず、今後は権力関係によって能力のない人間を作戦チームへ入れないと約束することだけだった。


 俺の生活はようやく、任務と罪悪感、復讐だけで満たされたものではなくなった。


 俺の正式な治療が終わると、澪はリハビリセンターのコーディネーター職を離れ、大学でトラウマ支援とソーシャルワークを学び始めた。


 俺たちは連絡を取り続けたが、すぐに恋人になったわけではない。


 当時の俺には、新しい感情を受け入れる準備ができていなかった。


 澪も急かすことはなかった。


 時々会社へ顔を出したり、俺がベルナ湖へ検査に戻った際、一緒に散歩したりするだけだった。


 一年後、俺たちは湖畔のベンチへ並んで座っていた。


 澪が突然尋ねた。


「神代さんは、これからどんな生活をしたいですか?」


 俺は湖を見ながら笑った。


「会社をきちんと経営する」


「以前俺についてきてくれた仲間たちが、穏やかに暮らせるようにしたい」


「それから、自分を守る力のない人を、できる限り守りたい」


 澪はうなずいた。


「素敵ですね」


「神代さんなら、きっとできます」


 俺は彼女へ顔を向けた。


「澪、ありがとう」


「君のおかげで、人生にはほかの可能性もあると分かった」


 澪は静かに笑った。


「あの夜からあなたを連れ出したのは、神代さん自身です」


「私は街灯のない道を、少しだけ一緒に歩いただけです」


 以前の俺は、自分の人生が永遠に他人の物であると思っていた。


 この時になって、ようやく理解した。


 人生は、誰かの道具になるためにあるのではない。


 自分を傷つけた人間へ、何かを証明するためにあるのでもない。


 俺はやっと、自分自身のために生き始めた。


 さらに一年が過ぎた。


 会社には安定した顧客がつき、複数の国で合法的な協力体制を築けるまでになった。


 晴れた夜、俺と澪は会社の屋上へ座っていた。


 頭上には星が広がっている。


 街の灯りは足元から遠くまで続いていた。


 俺は手を伸ばし、澪の手をそっと握った。


「澪」


「もう一人で歩き続けたくない」


「これから先、一緒に歩いてくれるか?」


 澪は顔を向けた。


 目の中に、細かな光が映っている。


「はい」


「喜んで」


 その瞬間、俺はようやく、新しい人生を見つけたのだと分かった。


 誰かの代わりではない。


 美月へ復讐するために始めた感情でもない。


 過去が残した場所をきちんと整理したからこそ、別の人の手を握ることができた。


 翌日の午後、迅が会社へ報告に来た際、偶然美月の近況を口にした。


 彼女は葛城家の中枢から完全に外れ、今は一人で普通のマンションに暮らしているらしい。


 今でも時々、俺の消息を調べているという。


 だが権力を持っていた頃に周囲へ集まっていた者たちは、一人も残っていなかった。


 隣に座っていた澪は、少し不安そうな表情を浮かべた。


「会いに行きたいと思いますか?」


 俺は澪の手を握った。


「行かない」


「会ったところで、何が変わる?」


「彼女自身が選んだ結果だ。俺には関係がない」


 迅は少し驚いた。


「隊長、本当に完全に吹っ切れたんですね」


 俺はその質問に答えず、机の上にある書類を迅の前へ押し出した。


「明日の顧客の退避計画は、もう完成しているか?」


 迅は一瞬きょとんとしたあと、笑った。


「完成しています」


「あとでメールへ送ります」


 迅が出ていったあと、俺は澪を見た。


「君と一緒にいると決めた以上、裏切ることはしない」


「心の中をきちんと整理してからでなければ、君の手を握ろうとは思わなかった」


 澪の目に、感動の色が浮かんだ。


 彼女は俺の肩へ、そっと頭を預けた。


「信じています、蓮」


 俺たちは屋上に座り、静かな時間を過ごした。


 遠くの空が、少しずつ白み始める。


 夜がゆっくりと退き、新しい一日が始まろうとしていた。


 俺は澪を抱き寄せ、温かく穏やかな呼吸を感じた。


 過去に負った傷は、すべて本物だ。


 屈辱も失望も絶望も、新しい幸福を得たからといって、存在しなかったことにはならない。


 それでも、もう俺の人生を決めることはできない。


 美月はかつて、俺が最も愛した人だった。


 やがて、最も憎んだ人になった。


 今は、彼女が幸福であろうと不幸であろうと、俺には関係がない。


 愛も憎しみも。


 夜が明ける前に、すべて終わった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。