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不惑の魔球王 MLB投手 フィル・ニークロ(1939-2020)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/04/07

全盛期のペドロ・マルチネスのスライダーは絶品だった。少なくとも自分が観た中でこれほど落差が大きく変化が鋭いスライダーを投げる投手はいなかった。しかし、変化のえげつなさからすると、フィル・ニークロのナックルに勝る魔球はないだろう。 ニークロのナックルは大きな落差だけでなく、そこに微妙な揺れが加わるため、カーブやスライダーの曲がりばなを捉えるというようなわけにはいかなかった。フォークと同じく無回転の球だけに当たれば飛ぶが、揺れる球の芯を捉えるのは神業に近く、ある程度ヤマ勘で振るしかない。しかも高速スライダーは全力投球で投げ込むため連投は大きなスタミナロスに繋がるうえ、年齢を重ね球速が鈍れば狙い打ちされる危険性を伴うのに対し、ナックルは元々球速が遅いため肘や肩を壊さない限り長期間ウイニングショットとして通用するため、ニークロの投手寿命も長かったのだろう。

 日本の野球ファンが初めて本場のナックルボールにお目にかかったのは、昭和二十八年十一月のことで、来日したニューヨーク・ジャイアンツのリリーフエース、ホイト・ウィルヘルムはメジャーでも本格的なナックルを操る第一人者として知られていた。

 一九五二年、新人ながら十五勝三敗、防御率二・四三の好成績で最優秀勝率、最優秀防御率の投手二冠を獲得したウィルヘルムのナックルは、来日前から「魔球」として野球雑誌などで紹介され大きな話題を呼んだ。

 捕手のウエストラムがミットの土手に当ててはポロポロこぼすほどのナックルの変化には、全日本の打者も最初のうちはたじたじの態だったが、球質は意外に軽く、平井正明(巨人)と杉山悟(中日)にはスタンドまで持ってゆかれている。

 十八回投げて被安打十、自責点四というのは悪くない成績だが、当時全盛の杉下茂(中日)のフォークボールを見慣れている日本選手にとっては、手も足も出ないというほどの印象はなかったようだ。


 それに比べると、昭和五十四年に全米選抜チームの一員として来日したフィル・ニークロのナックルの印象は鮮烈だった。

 注目の王貞治との対決ではわずか六球で二打席連続三振に切って落とし、最後は王がバットを足元に落として降参のポーズを見せた。

 三十九歳の王は選手生活も晩年に入っているとはいえ、シーズン打撃記録は二割八分五厘、三三本塁打、八十一打点、出塁率はセ・リーグトップの四割一分二厘(四死球数、敬遠数ともにトップ)と相変わらず手強い打者だった。

 その王が全く子ども扱いされたのには、全日本チームならびに日本の野球ファンにとっても大きな驚きだった。それも王よりも年上の老雄相手にである。

 四十歳の投手がメジャー選抜チームの一員というだけでも凄いことだが、実はこのニークロ、シーズン二〇勝、二〇〇奪三振を記録し同年の最多勝投手でもあったのだ。

 余談ながら、この時のニークロは王に気を遣いすぎてノーマークだった六番の山本浩二に一発を浴びているが、山本は引退後、この時ニークロを打てたことが自信を持って選手生活を続けてゆく大きな支えとなったと述べている。

 後年、ティム・リンスカムやR・A・ディッキーといったナックルボーラーがメジャーでナックル旋風を巻き起こしたことがあったが、二〇〇勝を挙げたリンスカムは現役が長かったわりに印象に乏しく、二〇勝してサイ・ヤング賞を受賞したディッキーも派手な活躍はその一年だけだった。

 そういう意味では四十八歳まで現役のマウンドに立ち、三一八勝を挙げたほか、数々の投手タイトルを受賞したフィル・ニークロはまさしく史上最高のナックルボーラーだった。

 五歳下の弟ジョーも通算二二一勝のナックルボーラーで、兄弟合計五三九勝はジムとゲイロードのペリー兄弟の五二九勝を上回るメジャー記録である(兄のジムが二一五勝、弟のゲイロードが三一四勝)。


 フィルとジョーのニークロ兄弟にナックルを教えたのは炭鉱夫の傍らセミプロチームで野球をしていた父で、父は炭鉱夫仲間から教わったこの変化球を息子たちにも伝授し、親子でキャッチボールをする時はお互いナックルを投げ合っていたという。

 ジョーはナックルを上手くマスター出来なかったが、フィルは他の変化球には目もくれず、この魔球の修得だけに心血を注いだ結果、ブリッジポート高校時代には対外試合で敗戦一度という素晴らしい成績を残し、一九五九年にブレーブスとマイナー契約を結ぶに至った。

 フィルはこの頃からナックルボーラーとしてやってゆく決意を固めていたため、ナックルの他にはろくに投球練習もせず、守備と牽制の練習に多くの時間を割いていた。

 ストレートも一四〇キロ以上は出せたが、ナックルは一〇〇キロ前後のスピードしかないため、走者を背負っていると盗塁されやすいというリスクがあったからだ。

 またバットの芯で捉えられると打球のスピードが速いため、打球に瞬時に反応できるよう守備にも力を入れた。おかげでニークロは守備でもゴールドグラブ賞を五度も受賞する名手となった。

 本格派投手としての道を選んだ弟のジョーがウエストリバティー大学を経て、マイナー経験一年でカブス昇格を果たしたのに対し、フィルの方は兵役による一年のブランクがあったとはいえ、足掛け五年間もマイナー生活を過ごしている。

 これは多くのナックルボーラーが直面する壁で、先駆者のウィルヘルムが二十九歳でようやくメジャーに昇格したように、マスターするには相当な時間がかかるうえ、球速が遅く回転していないぶん、当たれば長打を浴びやすいため、調子が悪いときは滅多打ちを食う危険性が高かったからだ。

 無回転であればこそ打者は軌道の急激な変化についてゆけないが、ナックルはボールの縫い目が見えるほど遅い。そのため、少しでも回転がかかると回転する方向に落ちることがわかってしまい、スイングスピードの速い打者から引きつけられると、ひとたまりもない(フィルが日米野球でカープの主砲山本浩二に打たれたのもそうだ)。

 つまりナックルボールが主体の投手は、完璧なナックルを投げ続けない限りは先発として長いイニングを投げることが難しいため、ウィルヘルムのようにリリーフ中心で起用するのが、それまでは一般的だった。

 元祖ナックルボーラーと言われる一九四〇年代のダッチ・レナードやフレディ・フィッシモンズのナックルはあくまでもウィニングショットの一つで、他にも多彩な変化球を持っていたからこそ先発完投型投手として活躍できたのだ。

 フィルもキャリアの初期はまだナックルを完全にマスターしておらず他にこれといった持ち球がなかったため、リリーフでの起用が中心で出来不出来の差も激しかった。

 一九六七年、弟ジョーがメジャー入りしたのは兄にとっても良い刺激になった。それも同じナ・リーグとなると兄としても負けるわけにはゆかない。

 ジョーが十勝七敗、防御率三・三五と活躍すれば、フィルも十一勝九敗、九セーブ、防御率一・八七で最優秀防御率のタイトルを獲得した。以後フィルは十四年連続二桁勝利を挙げ、長らくブレーブスのエースとして君臨する。

 一九六八年は兄弟ともに十四勝と星を分け合ったが、フィルが二三勝を挙げた一九六九年頃からジョーがスランプに陥り、プロ五年目のオフには引退を口走るようになった。

 見るに見かねたフィルは「辞める前にナックルにトライしてみろ」とマンツーマンで弟にナックルの指導を始めた。

 一九七三年から二年間はジョーもブレーブスでプレーすることになり、その間に兄直伝のナックルに磨きをかけられたのは大きかった。

 一九七七年に七年ぶりの二桁勝利となる十三勝八敗、防御率三・〇四と復活したジョーは兄に次ぐナックルの名手としてアストロズの屋台骨を支えた。

 フィルが二度目の最多勝に輝いた一九七九年には、ジョーも兄と同じく二一勝し、史上初となる兄弟での最多勝受賞という快挙を成し遂げている。


 フィルは四十歳を過ぎても進化を続けた。

 四十三歳で迎えた一九八二年のシーズンは四死球も大幅に減り、十七勝四敗という抜群の安定感で最優秀勝率のタイトルを獲得している。

 行き先不明のナックルを自由自在に扱いストライクにもボールにも出来るフィルはまさに「魔球王」と呼ぶにふさわしく、球の変化が激しすぎるがゆえにスピットボールを投げているのではないかと疑われたこともある。

  同じ三〇〇勝投手のゲイロード・ペリーは手品師のようにボールに小細工するのが上手く、現役最後の年に細工がばれて退場するまでスピットボールやグリースボールで勝ち星を荒稼ぎしたが、ナックルボーラーの第一人者としての自負があるフィルは「俺のナックルには小細工なんて必要ない」と堂々としていた。

 フィルは引退後、中日ドラゴンズの臨時コーチとして来日した時にもナックルの手ほどきを見せてくれたが、中学生のキャッチボール並みの球速ながら、その落差は並のフォークボールの比ではなかった。

 一九八三年も二〇〇回以上投げて十一勝十敗、防御率三・九七とローテーション投手としての仕事を全うしているにもかかわらず、オフには球団から解雇通告を受けた。

 若手の登板の機会の妨げになっている、すなわち「老害」と見なされたことにブレーブス一筋二十五年のフィルは失望を隠し切れず、チーム内にも大きな動揺を招いたが、そこはプロ、いさぎよく拾ってくれたヤンキースのユニフォームに袖を通すと、二年連続十六勝を挙げ健在ぶりをアピールした。

 インディアンスに移籍した一九八六年も四十七歳で十一勝し二桁勝利の最年長記録を樹立した。いったい何歳まで投げ続けるのかと思われたが、翌年は急激に失速し、途中でトレードに出されたブルージェイズでもわずか三試合の登板で解雇された。これでフィルのナックルも見納めかというところで彼にカーテンコールの舞台を用意してくれたのが、古巣のブレーブスだった。

 最後の登板は滅多打ちにあったが、ブレーブスのユニフォームを着て現役を終えられたことにフィルは感激していた。

 ブレーブスの方も看板選手のフィルを放出したことでファンから相当な非難を浴びていたため、燻る思いがあったのかもしれないが、粋な計らいにファンも大喜びだった。

 それにしても四十歳過ぎてから一二一勝も挙げる投手は、分業制が定着した21世紀も現れることはないだろう。

 生涯成績 318勝274敗 防御率3.35 奪三振3342 最多勝2回 最優秀防御率1回

1983年に古巣のブレーブスを解雇されたことはニークロファンには大ショックだったが、その翌年には背番号35を永久欠番に制定しているところを見ると、球団への相当なクレームがあったのだろうか。少なくともその時はニークロに敬意を表したものではなかったように思う。というのも、まだニークロは二桁は勝てそうだったし、年俸も現代より格段に低い時代だから100万ドルに届いてはいなかったはずだから、これまでの貢献度を考えれば、二桁勝利を記録した生え抜きのエースを年齢を理由に解雇するのはあまりにも早計だからだ。

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