quemadura side・A
ホールは、広い。広い所では、音って言うのはよく響く。だから、僕達の足音も反響していた。僕と眞樹君の間には会話なんて無かったから、その足音はとても虚しく聞こえる。僕達の足音は、しなやかで静かなのと、硬くて小刻みな。眞樹君は歩くのが上手だね。僕が下手なだけかもしれないけど。
長くて白い『1ーF』と書かれたドアの右横に、銀色で円柱の何かがあった。高さは僕の肩ぐらいまである。赤い丸で囲まれた中心に、薄くて横に長い黒い線。
何だろう。知らない。
眞樹君が線にカードの縁を当てる。と思ったら、そのまま差し込んだ。そこはカードが入るようになっていたんだね。分からなかった。
真っ白なドアが独りでにスライドして、びっくり。咄嗟に眞樹君の制服の裾を握る。
「引っ付き虫」
顔は見えないけど、眞樹君の笑いを含んだ声がした。もう、眞樹君の声は聞き分けれるようになったよ。ちょっと低めで、少しだけ鼻声で、でも発音はシャキシャキして綺麗。
「へぇ」
眞樹君が感嘆したようにトーンの高い声を出す。
気になったから、ドアの中を覗いてみた。
「うわぁ……」
ドアが開いた先には、また更に廊下があった。これも真っ白。
左には銀色の箱みたいな……あと、その上に曲がった筒がある。あ、きっと水場だね。筒から滴が垂れているから。中学校と違うから、分からなかったよ。
その隣にはドア、WCって書いてあるから、トイレだ。
その更に隣にもドアがある……覗いてみれば分かるのかもしれないけど、眞樹君に置いていかれそう。でも、眞樹君は覗いていた。ずるい。
眞樹君がようやく辿り着いた教室のドアを開く。
っ!
「ひっ」
教室の中が、一斉に蠢いた。肌色、肌色、肌色。皆の顔が、目玉がこっちに向いている。
恐い。
誰の、声も、しない。
恐い。
咄嗟に僕よりも大きい眞樹君の後ろに隠れる。
「、」
頭の上に、ポン、と何かが置かれた。大きくて、温かい。
見上げると、眞樹君が僕の頭の上に手を置いていた。
そのまま髪をかき混ぜられる。
「よしよし、お手」
「お手って、こうだっけ……はい」
その時、背後からうおっほんって声。
振り向いてみると、ツルツルピカピカにハゲたおじさんがいた。ちょびっとだけ残った髪の毛が空調の風で靡いている。
ウケる。
おじさんがもう一回うおっほんってやるものだから、急いで眞樹君の背中を押して中に入った。
席に着くと、待っていたとばかりにおじさんの話が始まる。ハゲたおじさんの正体は担任の先生でした。
「まずは皆さん、本校への入学おめでとう。この一年C組の担任を務める事となった、山中だ。まずは自分の紹介から少し。私は囲碁部の顧問をしていて、担当教科は社会科、趣味はツーリングとd〇×∂∽ŧ$▼……」
きゃぱしてぃおーばー。
頭がパンクしそうだったので気晴らしに、ちょっとだけ振り返って三つ後ろの席の眞樹君を見てみると、頬杖をついて完全に寝ていた。怒られないのかな。
「-※∵∮〆*¥∀……、」
先生が一旦、言葉を切った。腕時計で時間を確かめている。
「そろそろ式が始まる時間だな……これで先生の話を終わる。号令をかけてから学年ホールに整列してくれ」
出席番号が一番の人が、栄えある初日の日直。ふにゃんとした声で号令をかける。
そして皆、会話もなしにゾロゾロと教室の外へ。ちょっと怖い。
その流れに流されず立っている、背の高い人がいた。眞樹君だ。きっと話を聞いていなかったから、何をすれば良いのか分からないんだね。
「入学式が始まるから、教室の外に整列だって」
声をかけたら眞樹君が頷いた。そのまま教室の外へ。
僕もその後を追いかける。
「電気を消すから、早く出てくれ」
うわ、びっくりした。
僕達の他に、まだ教室の中には人が残っていた。電気のスイッチに手をかけて、こっちを見ている。
眞樹君が軽く舌打ちをした。何で? 電気を消す為に態々僕達の事を待ってくれているんだから、良い人なのに。
「どぉも」
あからさまに眉を顰めて、僕にも理解できる位の不服そうな表情で、それでもちゃんと眞樹君は礼を言った。
僕もありがとうと言って、ほんのちょっぴり頭を下げる。
「どういたしまして」
パチン、とスイッチを切る音。そしてその良い人は僕達に小走りで追い付いてきて、眞樹君の隣に並ぶ。
「君、ちょっとそこの君」
君っていうのは誰の事か分からないけれど、咄嗟に反応して振り返ってしまう。すると手を顔の前で振られて。
「いや、茶髪の方だ」
やっぱり否定された。何だか、まるで相手にされていないようで、悲しい。
眞樹君はそんな僕の事を一瞥してから、
「何の用だよ」
と低い声で答えた。
「先生が出席を取った時に君の名前を聞いて、少しばかり気になっていたんだ。良い機会だから聞いても良いかい? 笹谷という名字と眞とi}〓ΝгⅢ^……」
とんでもなく早口だよ、この人。脳が処理できなくて、足が縺れそうになって、グラグラして、床と天井がそれぞれ逆向きに回転して、壁が僕の事を吸い込もうとして……。
「はい、ストップ」
眞樹君に襟首を引っ張られていた。首絞まるよ。マジで首絞まるから。
いつの間にか、僕の回りは空調の音だけになっていた。あの人も口を閉ざしている。
「阿呆くさくてやってられない」
眞樹君が吐き捨てた。同時に、僕の襟首も解放される。
歩みを再開した眞樹君に置いていかれまいと、僕も歩を進めた。
「結局、お前は俺には興味が無くて、兄貴に会いたいだけなんだろ?」
「違う」
「違わねぇだろ」
眞樹君が間髪入れずに否定する。
少し気になったので振り返ってみると、あの人は立ち尽くしたままで、一歩たりとも動いていなかった。
「そんなに兄貴に会いてぇなら、出会いサイトでも何でも片っ端から探してみろよ。見つかる保障はしねぇけどな」
こんなにしゃべる眞樹君は初めて見た。と言っても、会ってからまだ一時間しか経っていないけど。こんなに能弁な人では無かったはず。こんなに滔々と言葉を連ねる人では無かったはず。
「面白いね、その奇を衒い用は。掴み所が無い」
「言葉の使い方、間違ってるぞ。奇を衒うっつぅのは、人の注意を引きたい時にやる事だ。俺は人に構って貰いたくなんか無い」
二人の言葉の応酬に、頭が痛くなってきた。またつんのめりそうになる所を、何とか踏み留まる。
「俺はお前らと関わる気は毛頭ない」
眞樹君が言葉を締めくくり、ホールへと至るドアに手をかける。
「そうか」
あの人が口端を思いっきり吊り上げて笑った。
背中がゾクゾクしてどうしようもない、嫌な笑みを。
眞樹君はその声を背に、ドアを開く。
「だそうですよ、姉上、兄上!」
あの人が一段と声を大きくする。
眞樹君がドアを開ける動作を中断した。
そしてそのまま閉じられるかと思われたドアの縁が、別の誰かの手によって掴まれる。白くて、細くて、しなやかな指。女性の手。
「つれないわね。そんなんじゃ、女の子は興醒めちゅうわ」
閉まりかけたドアが、開かれて行く。
「噂に聞いた通り、面白い人だわ。その働きぶりもさぞ、素晴らしいのでしょうね」
軽快な笑い声。
「てめぇは、誰だ」
「あら。『てめぇ』ですって。女の子に向かって、そんな乱暴な言葉遣い。ねぇ、どう思うかしら? 國吉」
「……中身はほぼ男なんだから、別にいいだろ」
「あら、失礼ね」
ドアの向こうの人が姿を表す。
と同時に眞樹君が動く。バン、ともガンとも聞こえる、鋭さと鈍さの中間にある音。
「いきなり噛みついてくるのもまた、失礼だわ」
眞樹君が顔面への蹴りを入れる形で固まっていた。
いや、蹴りを入れようとした形で固まっていた。
眞樹君の蹴りを止めたのは、真っ白な棒――――――じゃない。天辺には十字になった刃がある。仮想では見たことがある。現実では初めて。
――――――十字槍。刃の下には赤くて長い布が結びつけられていて、その布の端には十字が描かれている。
「何だよ、お前……」
「ん?」
眞樹君が低くて掠れた声を絞り出す。
「私? 私は花咲美國」
雪のように白い十字槍を握るのは、女の人。
「天皇家及び内閣直属特殊自衛部隊十字軍の右翼隊長をやっているわ」
うわ、すごく長い名前。右の耳の穴から左の耳の穴にそのまま抜けていって、最後の『十字軍』の部分しか頭に残っていない。あぁ、だから十字槍なの?
眞樹君が蹴り足を引っ込める。
花咲右翼隊長さんも槍を下ろす。
「んで、そっちが」
花咲右翼隊長さんが背後を示す。
少し離れた所にもう一人、立っていた。その人も手に十字槍を握っている。口にはチュッパチャップスをくわえていた。いいなぁ。
「……花咲國吉。左翼隊長」
と言って、その男の人はヒラヒラと片手を振る。
名字が同じ、名前も似ている。兄弟か、双子なんだろうな。性格は正反対みたいだけど。
花咲左翼隊長さんは自分の名前を言ってそれきり、黙ってしまった。
「そして僕が」
僕と眞樹君の背後にいたあの人が口を開く。
そういえば、花咲隊長さん達を兄、姉と呼んでいた。
「花咲國紀だよ。これから一年間、同じクラスだ。どうぞ宜しく頼むよ、二人共」
眞樹君が不満気に鼻を鳴らす。眞樹君は花咲君に返事をしない。
眞樹が黙ったままなのに僕だけ返事をするのもなんだか気が引けたから、花咲隊長さん達の目につかないように眞樹君の後ろにそっと隠れた。
のに。
「うふふ、そんなに怖がる事無いのに。ね、柏木綾足君?」
「僕の名前……」
知っているんですか? と最後まで言えるように声帯は動いてくれなかった。
笑う花咲右翼隊長さんの目が、猫のようににんまりと細められる。食べられる鼠の気持ちは正にこんななのだろう、と考えてしまって怖くなった。
「そりゃあ、知ってるわよ。そんな目立つ髪の色はそうそう見ないわ。それ、染めてるの?」
「いや……地毛で」
「あらまぁ」
目を見張ってから、すぐに子供のようにケタケタと笑い出す。
「それは失礼。でも綾ちゃん? そんな髪だったらすぐに先輩に目をつけられるわ」
サラリと『アヤちゃん』と呼ばれた。悔しくなんかないもん。何か言い返したらどうなるか分からないし。生意気だって言って、あの十字槍でぶっすりとやられるかもしれない。
「忠告、ありがとうございます。花咲右翼隊長さん」
と言ったら、花咲左翼隊長さんが吹き出した。
お礼を言っただけなのに。お礼を言うのはなにか変な事?
それとも僕の顔に何かついてる?
「その調子だと、俺の事は『花咲左翼隊長さん』とでも呼ぶつもりなのかな?」
花咲左翼隊長さんが笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を人差し指の背で拭う。
「そんなのややこしいわ。下の名前で呼んで頂戴。美國と國吉って。眞樹君もね」
いきなり話を振られた眞樹君は憮然とした顔で、
「はぁ」
と呟いただけだった。
その反応を面白がっているのかクスクスと笑って、僕に向き直る。
「話してみれば、あなたもなかなか面白いわ」
「そうでもないです」
ちょっと照れちゃう。
「だって、國吉が笑うなんてよっぽどだもの。しかも吹き出すぐらい。國吉はなかなか笑わないのよ。壺に入るとなかなか抜けないけど」
確かに自己紹介してきた時といい、あまり喋らないし、笑わないという印象が強い人だ。
そんな人物を笑わせたという事から、なんだか自信が沸いてきた。将来の夢リストにお笑い芸人という候補も加えておこうかな。
花咲右翼隊長さん、もとい美國さんが笑みを一層濃くする。
「二人共気に入ったわ。十字軍に加わる気はないかしら?」
「断る」
眞樹君の反応は早かった。低い声ですぐに美國さんの言葉を切り捨ててしまう。
「まぁ、そんな事は言わずに、ね……」
美國さんが流れるような動作で眞樹君の首に腕を回し、耳元に赤い唇を寄せる。何かを囁いているけれど、僕の耳では拾えない音量だった。
でも眞樹君が思いっきり顔をしかめている事から、囁かれている内容が愉快なものではないことくらいは分かる。
「じゃ、考えておいてね」
「……それじゃあ」
用件を伝え終わったらしい美國さんが、眞樹君からするりと体を離して去っていく。國吉さんも手を上げて挨拶してから、美國さんの後を追って行った。
「色好い返事を期待しているよ」
國紀君が僕と眞樹君の通りすがりに肩を叩いて行ってしまう。
「なんか変わった人達だったね。眞樹君はどう思う?」
見上げたその顔。眉間に皺を寄せて唇を強く引き結び、難しい顔をして一心に何かを考え込んでいる顔。
何でそんな顔をしているの? さっき美國さんに何を言われたの?
疑問は結局口に出せずに、脳内で宛を求めてぐるぐるとさ迷うだけ。
「眞樹君……?」
僕の呼び掛けに返事は来なくて、二人の回りを弱く漂って薄れ消えてしまった。
皆さんご無事ですか?
私はバリバリ元気です
しばらく更新忘れてました(汗
題名の意味は「吐き気」です