燃え尽きたアストロボーイ MLB投手 J・R リチャード(1950-2021)
1970年代後半のメジャーリーグは現代のように何千万ドルで契約するような選手はおらず、トップクラスのノーラン・ライアンでさえ、年俸100万ドルを超えたのは1980年代に入ってからだった。確か1970年代の最高年俸は、キャットフィッシュ・ハンターの50万ドルだったように記憶しているが、J・Rリチャードにしかり、現代なら数千万ドルで契約できるような個性派選手がごろごろいた。カーショーが引退した今のメジャーで全盛期のライアンやリチャードに匹敵する投手は見当たらない。
一九八〇年七月三十日、メジャー最高の豪速球投手の一人、J・R・リチャードが練習中に脳血栓で倒れた。幸い命には別状がなかったが、彼の投手生命は事実上断たれた。
前年度に自己記録を更新する三一三奪三振をマークして奪三振王と最優秀防御率のタイトルを合わせて獲得した三十歳のリチャードは、まさに選手としての絶頂期にあった。
一九八〇年度のアストロズは、前年度二位に終わった要因である貧打の解消こそが最大の課題と見られていたが、意外にも四年連続ナ・リーグ奪三振王『カリフォルニア・エクスプレス』ことノーラン・ライアンをトレードで獲得した。
ライアンは四年四五〇万ドルという超大型契約で、投手としてはメジャー初の一〇〇万ドルプレーヤーとなったが、彼の加入によって最も刺激を受けたのはリチャードだっただろう。ともにメジャー最高速の一〇〇マイル(一六一キロ)の豪速球をビュンビュン投げ込む本格派右腕の競演は、ファンの関心を呼ぶこと必至であると同時に、「両雄並び立たず」のたとえがあるように、年度の奪三振王をめぐって内なる争いが火花を散らす可能性も十分にあったからだ。
貧打線は相変わらずだったが、本格派右腕の二枚看板と前年度最多勝のジョー・ニークロを擁するアストロズは、開幕から好調で四月を十三勝五敗で終えア・リーグ西地区のトップに立った。この最大の功労者が開幕戦勝利を含む四勝〇敗で四月の月間MVPを受賞したリチャードだった。
ニークロとライアンの調子がなかなか上がらない中、五月三十一日から六月十一日まで三試合連続完封とエンジン全開のリチャードは、オールスターまでに十勝四敗(四完封)、防御率一・九六という素晴らしい活躍を見せ、オールスターの先発の大役を任された。
ここまで一一〇回投げて被安打六十四、奪三振一一五、一試合あたりの被安打は五・二本に過ぎない。通算被安打率が二〇一八年の時点でメジャー歴代三位のクレイトン・カーショーのベストシーズンですら一試合平均五・八本だから、まさにこのシーズンのリチャードは無敵といってよかった。さらに驚くべきは本塁打もわずか二本しか打たれていないことだ。
傑出した変化球投手で被本塁打率も抜群に低いカーショーでも最高で被本塁打一本当たりの投球回数が二十四・一回であるのに対し、この年のリチャードは五十六回である。一九七五年にも二十五・一回という実績を残しているが、これも当時最も本塁打を打たれにくい投手だったライアンの二十五回(一九七七)を超える素晴らしい数字である。
後日談になるが、規定投球回数に足りずに公式記録にはならなかったこのリチャードの記録を大幅に塗り替えたのが、一九八一年のライアンで、七十四・二回というさらに超人的な記録を樹立している。リリーフピッチャーならともかく、先発完投型の投手で今後この記録を破る者は現れそうにない。
この大記録はマウンドを去ったリチャードに再起を促すメッセージだったのか、はたまた「彼だけには負けたくない」という強いライバル意識の成せる業だったのかはわからないが、ライアンもリチャードという最大のライバルと同じユニフォームを着たことで、競争心を掻き立てられ、さらにピッチングに凄みを増すようになったことだけは間違いないだろう。
七月八日、オースルターに先発したリチャードは何となくぎこちなかった。高めのストレートはよく伸び、高速スライダーの落差も大きかったが、二回を一安打、二四球、三奪三振となんとか無失点に抑えたものの、肩に違和感を覚えて予定の三回を投げることなくマウンドを降りたのは異変の前兆だった。
オールスター明けの初登板となる七月十四日には三回二死まで一安打四奪三振で無失点に抑えていながら、右腕が痺れて握力がなくなり、目もかすんできたため、もうこれ以上投げることはできなくなった。
チームドクターに身体の不調を訴えたが、精密検査もせずに異常なしと太鼓判を押され、傍目には素晴らしい投球を続けていたため、チームメイトも熱投続きのリチャードが疲れて休みたがっているというくらいにしか思っていなかった。オールスターで一〇三マイル(一六五キロ)を計測したストレートを見ている者からすれば、仮にこの時リチャードの身体が病魔に蝕まれていると公式発表があったとしても、とても信じられなかったはずだ。
そもそも僅差の首位争いをしている最中だけに、リチャードの疲労は承知の上でマウンドに立ち続けてもらわなくてはならないというチームのお家事情もあった。結果としてそれが悲劇を生んだ。
高校二年の時で二〇三センチ一〇〇キロに達する巨漢だったジェームズ・ロドニー・リチャードは、バスケットボールと野球の両方でその名を知られる地元の英雄だった。
野球では先発した試合で負けたことは一度もなく、何度もノーヒット・ノーランを達成した超高校級の豪速球投手である一方、投げない時は外野を守り一試合四本塁打を打ったこともあるほどの長打力を兼ね備えていた。
しかしバスケットボール選手としての実績はそれ以上で、全米で二〇〇を超える大学から奨学生として勧誘を受けるほどの才覚を示していた。
リチャードはどちらの道を選んでも成功すると確信していたが、当時の中産階級の黒人家庭にとってメジャーリーグドラフト二位の契約金は魅力だった。それがヒューストン・アストロズへの入団を決意した理由の一つだった、と引退後のリチャードは述懐している。
NASAの宇宙基地があるヒューストンをフランチャイズとした球団が誕生したのは、一九六二年、球団のエクスパンションによりヒューストン・コルト45’sという新チームとしてア・リーグに加盟した。
この物騒なネーミングは銃器製造の老舗企業であるコルトファイアーアームズ社がヒューストンにあったからだ。銃の乱射事件が相次ぎ、銃規制の声が高まっている今日のアメリカでは考えられないチーム名に祟られたのか、チームは低迷を続けた。
一九六四年四月には半年前に白星でシーズンを締めくくった救援投手のジム・アンブリットが癌で急死し、アストロズと改称した後も、一九七五年一月五日にエース格のドン・ウィルソンがガス中毒死するなど不幸が続き、リチャードもあわや三人目の犠牲者になるところだった。
ただし皮肉というべきか、ウィルソンの急死がリチャードの先発定着のきっかけとなったこともまた事実である。それまでのリチャードは制球難のためリーグ有数の豪速球を生かせず、メジャーとマイナーを行ったり来たりしていたが、先発陣が不足したため、アストロズはこのノーコン投手を使わざるを得なかったのだ。
結果、一九七五年は十二勝十敗、防御率四・三九と先発として最低限の仕事はこなしたものの、与四死球一三八個はリーグ最多だった。
リチャードは一九七一年九月五日のメジャー初登板でいきなり15個の三振を奪った時も、「さほどの驚きはなかった」というほどの自信家だけに、少々四死球を連発したところで自制心を失うようなことはなかった。
この登板でジャイアンツの三番ウィリー・メイズを3打数2三振、四番ボビー・ボンズを4打数1安打2三振と押さえ込んだストレートとスライダーさえ決まれば、そうそう連打を浴びることはないと確信していたのだ。
その自信の源は異常に発達した右肩の筋肉で、初めて彼の肩を見た人が筋肉増強剤でも使っているのではないかと疑うほど筋肉の盛り上がり方が尋常ではなかったのだ。ところが、その筋肉の腫瘍のような肩の血行障害がもとで血腫が脳内にまで流れ込み彼の投手生命を奪うことになる。
一九七六年も相変わらずリーグ最多の与四死球一五一個という気前の良さだったが、二〇勝十五敗、防御率二・七五でチームの勝ち頭となったリチャードは、一九七七年から三年連続十八勝を挙げ、名実ともにアストロズのエースとして君臨した。
一九七八年には右投手としてはア・リーグ初となる三〇〇奪三振を記録すると、一九七九年にも二年連続三〇〇奪三振を達成し、同時期のナ・リーグ奪三振王のライアンを数字上では凌いでいた。
課題だった制球力もかなり改善されたため、無駄なランナーを出さなくなり、一九七九年には防御率二・七一で初タイトルを獲得している。
リチャードがメジャー最高の奪三振王ライアンの座を奪いかねないほどの実力を披露し始めたのに伴い、彼に対する薬物疑惑が球界全体に広がっていった。
血液検査の結果はシロと出たが、リチャードの異常発達した肩の筋肉は血管を圧迫し続けており、破滅へのカウントダウンはすでに始まっていたのだ。一九八〇年のピッチングは過去最高の安定感を示しながら、奪三振のペースがやや落ちていたのは、血管が詰まり疲労が取れにくくなっていたからなのかもしれない。そのぶん慎重になり、粗さがなくなったことで与四死球が減ったのだろう。
先発定着当初は200イニングで20個もあったリチャード”お約束”の暴投にしても、最後のシーズンは113イニングで2個と激減しており、その安定感の影で病状が悪化していたとは何という皮肉であろうか。
前述のようにオールスター戦のマウンドでもいまいち表情がすぐれず、一球一球丁寧に投げていたのは、何らかの自覚症状があったからと思われる。しかし、チームメイトと群れることを好まない一匹狼のリチャードには、そのことを打ち明ける相手もいなかった。
リチャードの戦線離脱により窮地に陥ったアストロズを救ったのは、それまで五勝八敗と不振だったライアンだった。八月に四勝〇敗とライアンが奮起したのに釣られるように、ニークロも次第に安定感を取り戻し、二年連続二〇勝の大台に乗せている。
二〇本塁打以上がゼロという貧打線が全員野球で結束してライアン、ニークロの両輪とうまくシンクロしたアストロズはついに念願の地区優勝を勝ち取った。ポストシリーズでは敗れたため、ワールドシリーズはしばらくの間お預けとなったが、リハビリ中のリチャードにとっては最高のエールだったに違いない。
一九八二年には3Aで復帰を果たしたが、今度は足の血行障害によって投げられなくなり、一九八三年で引退の道を選んだ。
引退後は投資の失敗や離婚慰謝料の支払いなどによって全財産を失い、一時はホームレス生活にまで落ちぶれたが、メジャーリーグからの年金を貰えるようになってからは、ようやく安定した生活を送れるようになった。
オールドタイマーズデイで久々にファンの前にその巨体を現したリチャードは、往年のレインボーカラーのユニフォームが実によく似合っており、アストロズ史上最高のエースであったことを改めてファンに認識させた。
「もし病に倒れなければライアンの記録を抜いていたか」というインタビューに対しても、「もちろん、あと六~七回は三〇〇奪三振はできたよ」と相変わらずのリチャード節が炸裂していた。
生涯成績107勝71敗 防御率3.15
ジャイアント馬場やアンドレ・ザ・ジャイアント、曙太郎といった巨人型アスリートはえてして短命だが、
リチャードは大病をしながら、復帰後は70歳過ぎまですこぶる元気そうだったが、コロナで人生の幕を閉じた。大口はたたいてもどこか憎めない男だった。




