『双刃の咆哮』―― 12歳から15歳、血に塗れた変遷
凪が去った後の路地裏。残されたのは、泥に塗れた俺と、腰に差した二本のナイフだけだった。
一本は、鉄の元にいた頃のゴミのような錆を、凪が研ぎ澄ましてくれた「過去」の象徴。もう一本は、彼から直接手渡された、冷徹なまでに美しい「未来」への牙。 十二歳の細い指先には、その二本の重みは未だ過ぎた代物だったが、俺はそれを離さなかった。離せば、自分がただの「肉」に戻ってしまうと知っていたからだ。
空腹に耐えかね残飯を漁る日々の中で、俺は自分より頭一つ大きな不良少年たちに牙を剥いた。多勢に無勢、骨を折られ泥水を啜らされても、俺は笑った。折れた肋骨の痛みを凪に教わった呼吸で殺し、闇に紛れて奴らの足首を刈り取る。 一本で防ぎ、一本で裂く。その稚拙ながらも二本の刃を操る姿は、周囲から「二枚刃の野良犬」と疎まれ、恐れられ始めていた。
三年の月日が、俺の体躯を獣のようにしなやかに変えた。身長は伸び、筋肉は無駄を削ぎ落とした鋼のように硬く、鋭い。返り血で染まる路地はもはや俺にとっての日常であり、唯一安らげる揺り籠だ。
いつしか、凪に借りたあの古い傘は、どこかの乱闘の最中に失くしてしまった。……代わりに手に入れたのは、雨に濡れるのを厭わない、狂気と倒した『猟犬』の死体から剥ぎ取ったエネルギー・セルで買い叩いた、腕時計型カメラ。 獲物の断末魔を記録し、その死を客観的に眺めるための、冷徹な観測者の眼だ。
この頃、俺の戦い方は変容を遂げていた。凪から貰ったナイフを逆手に取り、死角から頸動脈を掠める精密な「逆手刃」。そしてもう一方の手には、行き着いた「ククリ」――下層の劣悪な環境、分厚い脂肪や防護服の残骸ごと獲物を叩き切るための、肉厚で湾曲した大振りの刃。重心を低く、獲物の懐へと潜り込むその挙措は、もはや子供の喧嘩ではない。相手の「硬さと柔さ」を瞬時に見極め、骨の隙間に刃を滑り込ませる快楽に、俺の唇は無意識のうちに愉しげな弧を描くようになっていた。
腐臭の混じる夜風が、錆びついた廃工場のシャッターをがたがたと揺らしていた。月光すら届かない壁の隙間。そこに佇む二つの影を認めた瞬間、俺の奥歯が、無意識のうちに歓喜の音を立てて軋んだ。
忘れもしない、十歳まで俺を支配し続けた鉄と、俺の獣を目覚めさせた鰐淵。
「……ア、ア、ガ……ッ!」
短い悲鳴と共に数歩たじろいだのは、鉄だ。かつて俺を檻に閉じ込め、酒の肴に殴り続けたその拳は、今や見る影もなく震えている。その隣で、岩のような巨体を揺らし脂ぎった舌なめずりをしているのは、鰐淵。十歳の俺を「肉」と呼び品定めしたあの爬虫類の眼。だが、今の奴の眼の底に張り付いているのは、捕食者の余裕などではない。獲物に喉笛を狙われた、獣への底知れない恐怖だ。
俺は腰の二本を抜き、静かに、飢えた獣の呼吸を繰り返した。三白眼が闇の中で黒曜の輝きを放つ。十歳のあの日、この男たちに植え付けられた「死の臭い」が、今は俺の指先を熱く、鋭く、狂わせていく。
「……あァ、いいツラだ。今夜は、どっちの刃で泣かせてほしい? ――鉄、それとも、鰐淵」
一歩、踏み出す。誰かと足並みを揃える必要などない。俺が歩むのは、凪が残した冷たい道であり、俺自身が切り拓く血と泥の轍だ。 鉄がなりふり構わず振り下ろした鉄パイプを、右手の逆手刃で擦過音と共に受け流し、同時に踏み込んだ左足の勢いのまま、ククリを鰐淵の分厚い腹部へ。……深く、あの夜よりも生々しい手応えと共に、その醜悪な脂肪を、肉を、内臓ごと引き裂いた。
「ガ、ハッ……、ゴ、ォ、ッ……!」
どっと飛び散る熱い飛沫。顔に浴びた返り血の熱さは、十歳の俺が啜ったあの泥のスープよりも遥かに甘美で、狂おしい。俺は、自分を「肉」と貶めた男たちの断末魔を子守唄に、あの雨の夜に叫んだ自分の名前を胸の内で反芻していた。――俺は、皓だ。誰にも、何物にも、喰わせやしねェ。
鰐淵の巨体が裂けた腹を抱えて沈む。重苦しい肉の塊が地に堕ちる音を背に、俺の視線は這いつくばる鉄へと固定された。かつて俺を支配していたあの巨大な壁は、今や、脂汗と失禁の臭いに塗れたただの醜悪な残骸に過ぎない。
「……あ、あ、皓……待て、待ってくれ。俺が悪かったよ、肉……ッ、いや、皓! 頼む、金ならどこからか――」
その男の口から今更のように零れ落ちた、自分の名。……皮肉なもんだ。あれほど渇望した言葉が、これほどまでに薄汚く聞こえる。。鉄が必死に差し出したのは、下層の賭場でしか使えない手垢に塗れたチップの束か、あるいは偽造された上層紙幣だろう。俺は鉄の喉元に、ククリの黒い刃先を逃れようのない深さで押し当てた。
「金なんざいらねェよ。……鉄。あんたが俺に教えてくれたのは、痛みと、飢えと、……そして、この刃を研ぐ理由だけだ」
男の濁った三白眼が恐怖で白濁する。俺は、鏡のように磨き上げられた刃に自らの貌を映した。そこにいるのは、かつての無力な「肉」ではない。闇を、血を、そして己の業を喰らうために研ぎ澄まされた、鋭い牙だ。
「……あんたの言う通りだ。俺の中の『獣』は、今、最高に腹を空かせてる。……あァ、いい出汁が取れそうだぜ」
俺は歓喜に震える唇を歪な弧へと歪め、男の最期を喉の奥へ押し込むように、一息に刃を横一文字に滑らせた。……断末魔すら、溢れ出した熱い鮮血に掻き消される。 どっと背中に伝う夜風の冷たさ。それと引き換えに、俺の指先を伝い心臓まで逆流してくるこの「命」の手応え。俺は事切れた二つの「肉塊」を見下ろし、返り血を拭うことさえ忘れて、ただ静かに夜の静寂を吸い込んだ。
ふと視線を上げた。錆びた鉄格子の向こう、遠く見える「上層」の光。あそこには届かない。けれど、この泥濘の底で、俺は確かに自分の足で立っている。 左手で、腕時計型カメラのシャッターを切った。暗視機能が捉えたのは、血塗れの俺と、二度と動かない過去の断片。……凪のように冷徹な「観測者」としての第一歩。無粋な記録だが、これでいい。俺は、この地獄を抱えて、これからも生きていく。――皓として。ただ、それだけだ。
かつての泥を啜るような卑屈さは消え、そこにはただ、静かな狂気を孕んだ「個」が立っていた。 十五歳の体躯は、飢えと闘争を繰り返した末、余分な脂肪を一切許さぬ鋼のごときしなやかさを得ている。冬の乾いた風に晒された肌は陶器のような冷たさを帯びながらも、その内側には、獲物を裂く瞬間のために貯蓄された暴力的な熱が、脈動として確かに息付いていた。
殊に目を引くのは、額に掛かる無造作な黒髪の隙間から闇を射抜く三白眼だ。黒眸は月光を跳ね返す黒曜石のごとき光沢を湛え、そこには人を人とも思わぬ、あるいは己を人間とも思わぬ、剥き出しの獣性が宿っている。斬り結ぶ刹那、その眼が爛々と輝きを増す様は、対峙する者に死よりも深い根源的な恐怖を刻み付けるに十分だった。
薄い唇は常に何かを拒絶するように引き結ばれているが、一度刃が肉を捉えれば、愉しげな、あまりに無垢で歪な弧を描く。頬や腕には路地裏で刻まれた幾多の生傷が、消えぬ徴として白く走っているが、それすらも彼にとっては生きるために必要な装飾に過ぎない。 腰の左右に静かに鎮座する二本のナイフ――凪から授かった「精密な牙」と、己の凶暴を象徴する「ククリ」。その双刃を操る少年は、暗い夜の街において、もはや誰の「肉」でもない、完成された一頭の「獣」であった。




