『錆びた旋律』
今を遡ること一年前。
上層アッパーの夜は、あまりに静止して居た。
高度数千メートル。下界を厚く覆う雲海を見下ろす窓は、防弾仕様の強化硝子であり、そこから見えるのは、汚泥の臭いも、断末魔の叫びも届かぬ、無機質な秩序の楽園だ。 治安維持部隊の若き士官候補生。その清潔な軍服に約束された階級章を纏う凪なぎは、傍らに置かれた最新鋭の粒子振動刃レーザーブレードを、ただの「記録媒体」のように冷めた眼で眺めて居た。肉を断つ抵抗レジスタンスすら伝えず、標的を焼断する完璧な秩序の象徴。 だが、その懐には、此処には在ってはならぬ「澱み」が隠されて居た。
――資料室から掠め取った、錆びついた短刀の残欠。
指先でなぞれば赤錆が指紋に滲み、不快なまでに生々しい鉄の臭いが鼻腔を突く。その不完全な刃に触れるたび、凪の三白眼には、上層の人工光では決して得られない、昏く湿った熱が灯って居た。
「……行くのね、凪くん」
背後から忍び寄ったのは、鈴の音のように清澄で、同時に底なしの沼のように重苦しい、紫苑しおんの気配だった。 艶やかな黒髪を完璧に切り揃え、白磁の肌に、上層の特権階級にのみ許された深紫の和服を纏った少女。彼女は、この硝子細工の檻を具現化したような存在だった。 その黒髪が凪の首筋に触れ、紫苑は囁くように、甘い呪いを吐き出した。
凪のうなじ、頸椎の第一節に埋め込まれたそれは、皮下組織と神経系に深く根を張る「生体融合型ナノ・チップ」だ。無理に剥がせば、中枢神経が焼き切れる。
「それは私と貴方(凪くん)を繋ぐ、切っても切れない臍の緒なのよ」
紫苑の言葉は正しかった。凪が自由を求めて深淵へ身を投げようとも、その背中には、上層アッパーの支配が銀色の蔦のように刻まれ続けている。
「外は、血と泥に塗れた地獄よ。貴方のその綺麗な肌を、誰にも触れさせたくない。……ここで、私の人形ひとがたとして、永遠に愛されていればいいのに」
紫苑の細い指先が、凪の手にある錆びた短刀――その「下界の汚れ」に触れようとした瞬間。凪は初めて、彼女に向けて明確な拒絶の貌を見せた。 それは上層の教育で去勢された士官の顔ではない。己の飢えを自覚し、かつて泥の中で誰かの牙であった頃の、一匹の獣の貌だ。 奥歯が軋む音。震える指先。凪は低く、地を這うような音吐で言い放つ。
「……ここは、息が詰まる。紫苑。俺は、自分の命が、泥に塗れて死んでいく音を聴きに行きたいんだ」
凪は紫苑の腕を無造作に振り払い、管理区域の隔壁へと向かって歩き出した。 背後で、紫苑の喉から、ひきつけのような微かな気鳴が漏れる。それは悲しみではない。 愛する玩具がその意思を持ち、自分を拒んだことへの、狂おしいまでの独占欲の変異だった。
「行かせない……。逃げても無駄よ、凪くん。貴方の骨の髄まで、私の愛を刻み込んであげる。……貴方が私なしでは息もできないほど、無残に壊してでも、連れ戻してあげる……ッ!」
凪が去った隔壁の向こう側を、紫苑はただ、立ち尽くしたまま見つめて居た。 深紅の和服が、無機質な防弾硝子の床に鮮やかな影を落とす。彼女が纏うこの色は、上層アッパーを支配する軍事組織の重鎮――その唯一の血脈であることの証左であり、同時に、叛意を許さぬ絶対的な「檻」の色でもあった。
彼女の父が、下界のゴミを「肉」として回収し、凪のような有能な「牙」を「士官」という名の部品へ作り変えることで、この楽園の平穏は保たれて居る。紫苑はその支配を盤石にするための、いわば神格化された象徴アイコンだった。 彼女の指先一つで、下界の路地裏が一つ灰に帰る。その強大すぎる権能は、十八歳の少女が背負うにはあまりに冷たく、そして空虚だった。
「……わかっているわ、お父様。貴方の期待する『完璧な管理者』で居てあげる」
背後の通信端末から流れる、組織幹部たちの無機質な報告。治安維持部隊の配備状況、下界の掃討作戦の進捗……。彼女はそれらを、感情を殺した眼差しで処理して行く。 紫苑は知って居た。自分がこの椅子を降りれば、凪の身柄を保護する「理由」すら失われることを。彼女が権力の座に固執するのは、欲のためではない。ただ、逃げ出したあの獣を、再び自分の箱庭へ引き戻すための、唯一の手段だからだ
紫苑の叫びが防音壁に跳ね返る中、凪は高度数百メートルに位置する排気ダクトの縁に立った。 眼下には、上層の光を撥ね返す分厚い雲。そのさらに下には、法も光も届かない、饐えた匂いの漂う『棄域』が広がって居る。 凪は、迷うことなく、その深淵へと身を投げた。 自由という名の墜落。 肌を焼く風の冷たさと、重力に従って加速する己の鼓動。凪は、落下しながら、懐の錆びた短刀を強く握り締めた。
(――あァ、熱い。……これが、生きている感覚か)
黒い雨が降り頻る路地裏の泥の中へ、凪は叩きつけられるようにして降り立った。 膝から伝わる衝撃。肺を満たす、腐った雨と鉄の臭い。 立ち上がった凪の目の前に広がって居たのは、かつて紫苑が説いた「地獄」そのものだった。 けれど、凪の三白眼は、その泥濁りの景色の中に、上層のどこにもなかった「本物の牙」を見出し、歓喜に震えて居た。
雨に打たれ、泥に塗れた灰色のパーカーを羽織る。 それは、若きエリート士官・凪が死に、下層の始末屋・凪が産声を上げた瞬間だった。 そしてその足跡は、数年後、同じ泥の中にうずくまる十歳の皓こうへと、真っ直ぐに続いて行くことになる。
上層の矜持を捨て、泥の中に堕ちた凪なぎを待って居たのは、甘美な自由などではなく、剥き出しの「悪意」だった。 排気ダクトから叩きつけられた衝撃で、左肩の骨が鈍く軋んで居る。エリート士官候補生としての清潔な制服は、瞬く間に下層アンダーの汚水と油に塗れ、その高貴な白を失って行った。 立ち上がろうとする凪の視界を、黒い雨が、そして路地の奥から這い出してきた数多の「影」が遮る。
「……上層の、迷い犬か? その服、高く売れそうじゃねェか」
下卑た笑い声と共に、饐えた匂いを撒き散らす小悪党たちが、凪を囲んで行く。 彼らの手には、洗練された粒子刃ブレードなどない。ただの鉄パイプ、あるいは錆び付いた肉切り包丁。 だが、そこから放たれるのは、上層の演習では決して味わうことのなかった、生々しく、湿り気を帯びた「殺意」だった。
凪は、震える指先で懐の短刀の残欠を握り締めた。 士官学校で叩き込まれた「合理的で美しい剣筋」が、脳裏で警鐘を鳴らす。だが、目の前の男が振り下ろした鉄パイプは、その理論を嘲笑うように凪の頭部を狙った。 ――避けるな。 本能が、そう命じた。 凪はあえて一歩踏み込み、肩に打撃を受けながら、男の懐へと滑り込む。肉と骨がぶつかり、鈍い音が身体の芯まで響いた。その激痛が、凪の冷え切っていた脳を、狂おしいほどに覚醒させて行く。
「……あァ、これだ。……これが、『生きる』って音か」
凪の三白眼が、歓喜に細まる。 逆手に握った錆びた刃が、男の喉笛を浅く、けれど確実に抉り取った。 噴き出した鮮血が、凪の頬を、そして瞳を熱く染め上げる。 悲鳴。罵声。肉が裂け、泥が跳ねる音。 凪は、士官としての洗練された動きをかなぐり捨て、ただ「一匹の獣」として、路地裏の闇を切り裂いて行った。 最後の一人を解体し終えた時、凪の手の中で、あの短刀の残欠が、満足げに血を吸って鈍く光って居た。
一方、雲の上の静寂。 紫苑しおんは、凪が消えた排気ダクトの縁に、独り立ち尽くして居た。 激しい雨が彼女の黒髪を濡らし、深紅の和服を肌に張り付かせているが、彼女は微動だにしない。その視線の先には、凪が消えて行った、底なしの暗闇だけが広がって居た。
「……逃がさない。逃がさないわ、凪くん。貴方がその手で誰を殺そうと、誰の返り血を浴びようと、貴方は私の『光』なの」
紫苑は、手にした通信端末を無造作に起動させた。 画面に映し出されるのは、凪の体内に埋め込まれた発信機が刻む、孤独な鼓動の信号。 彼女は愛おしそうにその光をなぞり、傍らに控える治安維持部隊の特殊追跡班――『猟犬』たちへ、冷徹な死の宣告を下す。
「凪くんを連れ戻しなさい。……抵抗するなら、手足を折っても構わないわ。彼が二度と、私の側から歩いて逃げ出せないように」
紫苑の唇から漏れたのは、祈りにも似た、悍ましい呪詛だった。 彼女は、凪が泥に塗れることを許さない。 凪を「自分だけの檻」へ連れ戻すためなら、彼女はこの街の半分を焼き払うことさえ厭わないだろう。 下層の闇で牙を剥く凪と、上層から鎖を伸ばす紫苑。 その断絶された境界線に、黒い雨は、ただ無慈悲に降り続いて居た。 そしてこの夜、凪が最初に出会った『泥』の感触こそが、一年後、あの十歳の皓こうを救い上げるための、唯一の力となるのだった。
凪が下層アンダーの泥に塗れ、その牙を研ぎ始めてから、凡そ一年。彼の身体は、士官候補生の清潔な肉体から、路地裏の風雨に晒され、傷跡と筋肉で編み上げられた「獣」のそれに変貌して居た。手にした短刀は、最早ただの残欠ではない。凪の魂と同調し、血を吸い、闇を斬るための、唯一無二の「銀に輝く牙」と化して居た。 その夜、黒い雨が降り頻る中、凪は紫苑が放った「猟犬」たちと、ついに相見えることになった。
路地の突き当たり、廃棄された大型トラックの陰。凪は、自分の獲物を見定めるように、身を潜めて居た。耳を澄ませば、雨音の向こうから、不自然なほど均一な足音が複数、近づいてくるのが分かる。上層アッパーの治安維持部隊。『猟犬』。奴らの吐く息は、下層の澱んだ空気とは異なり、無機質で、死の匂いを纏って居た。 凪の三白眼が、闇の中で鈍く光る。視界の奥に捉えたのは、全身を最新鋭の防護服で覆い、粒子振動刃レーザーブレードを構えた五人の影。まるで人間性が剥がれ落ちたマネキン人形のような、完璧な「暴力装置」だ。 彼らの放つ殺気は、下層の獣たちが持つ生々しい熱とは異なり、氷点下の冷徹さで凪の皮膚を突き刺す。……紫苑の、揺るぎない執着の顕現。
先頭の一人が、粒子振動刃を閃かせ、凪が潜むトラックの陰を焼き払う。焼ける鉄の臭いが鼻腔を突く中、凪は音もなく、雨水に濡れた壁面を蹴って跳んだ。狙うは、防護服の継ぎ目、あるいはバイザーの僅かな隙間。
「らァ……ッ!」
凪の喉から、獣のような低い唸り声が漏れる。短刀の残欠が、粒子振動刃の光と衝突し、甲高い火花を散らした。しかし、上層のテクノロジーが産み出した光の刃は、錆びた鉄を容易く弾き飛ばす。凪の掌から、血が滲み出た。 それでも、凪は退かない。士官学校で叩き込まれた美学など、もはや凪の中にはない。彼の身体は、泥に塗れ、飢えと痛みを糧に鍛え上げた、剥き出しの「獣」の直感に従って動く。肉を切らせて、骨を断つ。それが、下層で彼が覚えた、ただ一つの真実だった。 凪は、粒子振動刃の高速の連撃を、最小限の動きで受け流し、あるいは避け、懐へと潜り込んで行く。その身のこなしは、雨中の幻影のように捉えどころがない。
「ターゲット、肉体的接触を確認! 拘束用ガス散布!」
リーダー格の男が、無機質な声で命令を下す。防護服から噴射されたガスが、雨混じりの空気を歪ませ、凪の視界を奪う。肺を焼くような刺激臭。思考が鈍り、身体が鉛のように重くなる。だが、凪は、この一年、泥の中で磨き上げた「闇を視る目」と「殺気を聴く耳」を信じた。 ガスの中で、凪は呼吸を殺し、ただ、僅かに変わる足音と、光の刃が空気を斬る音だけを追う。一瞬、ガスの薄れた向こうに、男のバイザーの奥、僅かに露出した頸動脈が視えた。
「……終わりだ」
凪は、己の全存在をその一撃に込め、短刀の残欠を投擲した。刃は、雨を切り裂き、空気の抵抗を嘲笑うように、一直線に男の喉笛へと吸い込まれて行く。ガシャン、と鈍い音が響き、男の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。 リーダーを失った『猟犬』たちは、一瞬の戸惑いを見せる。その隙を、凪は見逃さなかった。彼は再び闇に溶け込み、残りの猟犬たちを、一体ずつ、静かに、そして確実に解体して行く。
数分後、路地裏には、冷たい雨音と、凪の荒い息遣いだけが響いて居た。 上層のテクノロジーを駆使した五体の『猟犬』は、今やただの鉄屑と肉塊に変わり果てて居る。凪の身体は、裂かれた防護服の破片と、粒子振動刃が掠めた傷で満身創痍だった。それでも、彼の三白眼には、勝利の冷徹な光が宿って居る。 凪は、地に落ちた短刀の残欠を拾い上げ、血と雨で濡れた刃を、服の裾で丁寧に拭った。
「……まだまだ、研ぎ足りないな」
そう呟く凪の口元には、かつて紫苑が見た『美しい士官候補生』の笑みではなく、泥の中で獲物を仕留めた『獣』の、歪な弧が描かれて居た。 この夜の勝利は、凪を上層の光からさらに遠ざけ、下層の闇へと深く根ざす決定打となった。
上層の士官学校で、彼は「静謐」とは音の欠如だと教えられた。 けれど、下層アンダーの泥に塗れて知ったそれは、全く別物だった。 降り頻る黒い雨、遠くで響く鉄パイプの打撃音、廃ビルの隙間を抜ける湿った風の嗚咽。それら無数の雑音が、ある一点の「死」に向かって収束し、塗り潰されていく瞬間の、絶対的な真空。 それが、凪なぎの纏う静謐の正体だった。
五人の『猟犬』を解体し終えた路地裏。凪は、血溜まりの中に立ち尽くして居た。 その呼吸は、激しい戦闘の後だというのに、驚くほど浅く、規則正しい。まるで、彼の周囲だけ時間の流れが凍結してしまったかのような、不自然なまでの静止。 粒子振動刃レーザーブレードに焼かれた脇腹の傷からは、じりじりと肉の焦げる嫌な臭いが立ち上って居るが、凪の表情一つ動かない。彼は、己の痛覚さえも、その深い「凪」の中に沈めて居た。 三白眼の奥にあるのは、怒りでも、勝利の昂りでもない。 ただ、研ぎ澄まされた刃の先にある、無機質な透明。 彼は、血に濡れた己の指先を見つめ、そこに残る微かな「熱」が、雨に奪われていくのを、ただ静かに傍観して居た。
「……凪くん。貴方は、どうしてそんなに静かなの?」
ふと、記憶の底から紫苑しおんの声が、上層の香水の匂いと共に蘇る。 あの頃、彼女が愛して居たのは、この「静謐」だった。けれど彼女は気づいて居なかった。それが、彼女が望むような安らぎではなく、すべてを拒絶し、すべてを無に帰すための、冷徹な武装であることに。 凪は、懐からボロボロになったハンカチを取り出し、短刀の残欠に付着した泥と脂を拭い去った。 その指先の動きは、極上の硝子細工を扱うように、繊細で、淀みがない。 彼にとって、刃を研ぎ、整える時間は、己の魂を浄化する唯一の儀式だった。周囲に転がる猟犬たちの骸など、もはや凪の視界には入って居ない。彼らは、彼の静寂を乱す「雑音」として処理され、捨て去られたに過ぎない。
凪は、ゆっくりと歩き出した。 足音は、雨音に完全に溶け込み、一歩踏み出すごとに、彼の存在そのものが闇へと溶けて行く。 その背中に、紫苑が執念で植え付けた発信機の赤灯が、皮肉なほどに鮮やかに明滅して居る。けれど、凪はそれを剥ぎ取ろうとはしなかった。 逃げるのではない。 彼はただ、この冷たい静寂を抱えたまま、この街の深淵へと、どこまでも沈んでいきたかった。 ――その歩みの先に、運命の綻びが待って居た。
路地裏の曲がり角、鼠と飢えたガキが餌を求めて彷徨く界隈で、小さな、けれど剥き出しの「殺意」を放つ瞳と、凪の三白眼が衝突した。 それは、暴力に屈し、名前を奪われながらも、まだ牙を隠し持って居る、十歳の皓だった。
凪は、立ち止まった。彼の纏う凍てついた静謐が、その少年を前にして、僅かに揺らぐ。……自分と同じ、泥の中の鏡。
凪は、何も言わずに、ただその少年に向かって、ゆっくりと、あの日紫苑に背を向けた時と同じ、冷たくも切実な手を差し出した。




