『首輪と壁』
翌朝、凪は皓を、いつもの高架下ではなく、更に上層寄りの廃区画へと連れて行った。
そこはかつて商業施設だったらしく、吹き抜けの天井は崩れ、月光が割れたガラス越しに斜めに差し込んでいる。床一面に散らばるのは、朽ちたマネキン、倒れた什器、割れた鏡。足場は最悪、音は反響しやすく、隠れる場所は多いが死角も多い。
凪は入口で立ち止まった。
「今日からは、“殺す”訓練はしない」
俺の三白眼がわずかに細まる。
「……じゃあ何だ」
「殺さずに終わらせる訓練だ」
凪は床に小さな金属片を放った。 カラン、と乾いた音が吹き抜けを何度も跳ね返る。
「この建物の中に、俺が三か所、印を置いてある。それを回収して戻ってこい」
「簡単だ」
「ただし」
凪の声が、温度を失う。
「俺は邪魔をする」
呼吸が、わずかに浅くなる。
「攻撃してくる?」
「する。ただし急所は外す。お前も同じだ。俺に刃を向けるな。触れるな。傷を作るな」
俺は眉を跳ね上げた。 それは初めての制限だった。
「……倒さなくていいのか」
「違う。倒さない」
凪は視線だけで上階の闇を示した。
「お前は今まで、“目の前の敵”しか見ていない。だが街では違う。本当に厄介なのは、殺せない相手だ」
警備、群衆、子供、取引相手、目撃者。 言葉にせずとも意味は伝わる。
「感情も同じだ。怒りも恐怖も、全部“斬れる対象”だと思うな。抑え込んで通り抜けろ」
凪は壁にもたれ、目を閉じた。
「始めろ」
俺は一歩踏み出す。 ガラス片が靴底の下で鳴りかける、寸前で重心をずらし、体重を分散させる。音は、出ない。 吹き抜けの中央を避け、影の濃いテナント跡へ滑り込む。 視線は動かさない。代わりに空気の流れを読む。月光の筋が途切れる場所は、風が抜けない場所。人が潜みやすい。
三歩目で、背後の空気が揺れた。 反射で避けない。 まず半歩、遅らせる。
――風圧。 次の瞬間、脇腹に衝撃。凪の蹴り。急所は外れているが、呼吸は持っていかれる。 吹き飛ばされながら、受け身も取らず、棚の陰へ転がり込む。痛みを処理するより先に、位置を消す。
「遅い」
どこからともなく声。 反論しない。 代わりに、床の埃の流れを見る。さっきの衝撃で舞った粉塵が、ゆっくり沈む方向。そこに微かな乱れ。 逆側へ移動。 凪は追ってこない。 追わせようとしている。
最初の印は、割れた鏡の裏にあった。黒い布片。 取る。ポケットへ。呼吸は三拍で一定。 二つ目へ向かう途中、真正面から気配。 逃げ道は左右にある。 咄嗟に右へは、――行かない。 あえて一歩前へ出る。 凪の腕が影から伸びる。首を取る軌道。 ――俺は屈まず、下がらず、腕に触れないギリギリの距離で体を滑らせ、肩と肩がかすめる間合いを通過する。
反撃はしない。 振り向かない。 走らない。 足音だけを消して、角を曲がる。 背後で、ほんのわずかに衣擦れ。 凪が笑った気配がした。 三つ目の印は高所。 エスカレーターの残骸の上、むき出しの鉄骨に結ばれている。
登れば音が出る。 飛べば着地で鳴る。 俺は、下を見た。 散らばるマネキンの腕。布の残骸。スポンジ。 それを拾い、足場に挟み込む。 重さを分散させ、軋みを殺す。 手を伸ばした瞬間、真下から衝撃。 鉄骨が揺れる。 凪の投げた瓦礫。
俺皓は印だけ掴み、落ちる。 受け身は取らない。転がって衝撃を逃がし、すぐに立つ。 目の前に凪が立っている。 近い。 だが手は出さない。 凪の目が、わずかに細まる。
「終わりだ」
俺は三つの布片を差し出す。肩で息をしているが、視線は落ちていない。
「……殺せた場面は三回あった」
凪の声は平坦。
「だが、お前が攻撃を仕掛けてこなかったから、俺も手を止めてやった。」
俺は何も言わない。 凪は続ける。
「今日お前が研いだのは牙じゃない」
一歩近づき、皓の胸を指で軽く突く。
「首輪だ」
沈黙。
「自分を噛み殺さないためのな」
月が雲に隠れ、廃墟は闇に沈む。
「次は、それを付けたまま血の匂いの中に入る」
俺の喉が、小さく鳴った。 凪は背を向ける。
「強くなるってのは、好きに暴れることじゃない。 暴れたい時に、止まれることだ」
その背中を、俺は黙って追った。
数日後。 凪が俺を連れてきたのは、下層と上層の境にある解体待ちの雑居ビルだった。
外壁は煤け、窓は割れ、だが中にはまだ“生活の残骸”が残っている。放置された家具、散らばった衣類、乾いた血痕、そして、人の気配。
「今日は実地だ」
凪の声は低い。
「中に三人いる。二人は売人、ひとりはただの運び屋だ。奥の部屋には攫われたガキが一人縛られてる」
俺の視線がわずかに動く。
「……全員敵か」
「違う」
即答。
「売人は半殺しでいい。運び屋は脅して逃がせ。ガキは連れて出ろ」
喉が小さく鳴る。
「殺すな」
「殺したら失敗だ」
凪は壁に背を預けた。
「俺は入らない。五分経ったら状況に関係なく終わりにする」
制限時間。 非殺傷。 保護対象あり。 複数の敵。 俺にとって初めての“複雑な場”だった。
「行け」
扉は半開き。 中から怒鳴り声と、酒瓶の転がる音。 皓は入らない。 まず匂いを読む。血、汗、安酒、焦げた油。奥にもう一つ、微かに洗剤の匂い。最近まで“普通の生活”があった証拠。 足音を消し、影の濃い廊下へ滑り込む。
最初の男はすぐ見つかった。 廊下の角、スマホをいじりながら壁にもたれている。
俺は背後を取る。 だが首には行かない。 顎の下を掌底で跳ね上げ、同時に膝裏を払う。男は声を出す前に床へ崩れる。後頭部を打つ寸前で手を添え、音を殺す。意識だけ刈り取る。 呼吸、安定。
二人目は部屋の中。 ガキの泣き声に苛立ち、怒鳴っている。 俺の視界が、幼い頃の被虐を思い出し、怒りと苛立ちで赤みを帯びる。
――首輪。 凪の言葉が脳裏に浮く。 ――ドアを蹴らない。 静かに開け、視線を合わせないまま距離を詰める。 男が振り向く。 俺は真正面から踏み込んだ。 喉元ではなく、みぞおち。空気を抜く一撃。続けて耳の後ろを打ち、平衡感覚を奪う。刃は抜かない。 男は泡を吹いて崩れた。
床の奥、縛られた子供。年は俺より少し下。目が合う。 恐怖と混乱。だが商品を見る目ではないことに気づき、惑いが宿る。 俺は素早くナイフで縄だけ切る。
「走れるか」
子供は震えながら頷く。
「音立てるな。俺の後ろ歩け」
声は低いが、怒鳴らない。
廊下へ出た瞬間、最後の一人が現れる。 運び屋。若い。手は震えているが銃を持っている。 俺は止まる。 殺せば早い。 だが首輪が締まる。 ――一歩踏み出し、男の視界の端に急に入る。反射で銃口が逸れる。 その隙に足首を払う。転倒。武器が滑る。 それは拾わない。 代わりに男の胸ぐらを掴み、壁に叩きつける。
「今日のこと忘れろ。次やったら折る」
抑揚のない声。 男は何度も頷く。失禁の匂い。 俺は手を離す。
「失せろ」
男は這うように逃げた。 外へ出ると、凪が同じ姿勢で待っていた。 俺の服には血がついているが、自分のものではない。 だが手は震えている。 後ろの子供を見て、凪は状況を一瞬で把握する。
「何人殺した」
「ゼロ」
「殺せたか」
「……三回」
凪は短く息を吐く。
「上出来だ」
それ以上の評価はない。 子供を安全な路地の先へ行かせ、凪は視線を戻す。
「今お前は、牙より難しいものを使った」
俺は黙っている。
「力を抜いた暴力だ。街で一番扱いが面倒な武器だ」
しばらく沈黙。
「苦しかったか」
数秒遅れて、小さく頷いた。 凪はそれを見て、わずかに目を細める。
「それでいい。その苦しさが消えたら、お前はただの壊れた獣になる」
夜風がビルの隙間を抜ける。
「次は逆だ」
顔を上げた。
「守りながら戦え。守るものが動く状況で、同じことをやる」
指が無意識に胸元の名前を握る。 凪は背を向けた。
「牙はもう十分ある。 これからは――噛まない強さを覚えろ」
二人は闇の中へ歩き出す。 血の匂いはまだ残っている。 だが俺の足取りは、以前よりわずかにだけ、静かだった。
場所は下層のさらに外れ、配管と配線が迷路のように走る地下通路だった。天井は低く、水滴が絶えず落ち、足場は滑る。視界も音も悪い。 凪の隣には、あの時助けた子供がいた。名前はまだ聞いていない。今日の役目は“荷物”ではなく“動く要素”だ。
「この子を連れて、あっちの階段まで行け」
凪が顎で示す先は、薄暗い非常灯の下。
「途中で俺が仕掛ける。加減はしない」
俺は子供を見る。 震えているが、逃げようとはしない。
「俺の服、掴んで離すな。転びそうになったら引っ張れ」
子供は無言で裾を握る。
「始め」
最初の数歩で難しさが分かる。 自分一人なら通れる隙間も、二人だと速度が落ちる。足音も倍。 背後で水音が変わった。 来る。 俺は振り返らない。子供の肩を押し、パイプの影へ滑り込む。直後、さっきまでいた場所に衝撃音。凪がわざと派手に圧をかけてくる。焦らせるためだ。
「走れるか」
小さく頷き。 俺は“最短距離”を捨てる。広い通路は避け、狭く曲がりくねった配管ルートへ。追う側の速度を殺すため。 だが足場が悪い。 子供が滑る。 俺は進行方向を変えず、腕だけ後ろへ伸ばして体勢を支える。止まらない。止まれば回り込まれる。 右側の鉄柵の向こうで気配。 皓は咄嗟に金属片を蹴る。反対方向へ音を飛ばす。凪の動きが一瞬そちらへ流れる。その隙に距離を取る。 階段まで半分。 前方、通路の天井が低く崩れている。大人なら屈む高さ。 ――俺は先に潜らない。子供を先に通す。 その一瞬の“待ち”が命取りになる場面。
真横の闇から腕が伸びる。 俺は受けない。 腕に触れず、肩をぶつけて軌道だけ逸らす。同時に自分が壁側へ回り込み、子供と凪の間に体を差し込む。 背中に衝撃。呼吸が乱れる。 だが足は止めない。
「前だけ見ろ」
子供に言う。 残り十数メートル。 今度は前方の床に水たまり。深い。 俺は子供を横抱きに切り替える。速度は落ちるが、転倒リスクを消す。自分の足音は増えるが構わない。優先順位が変わった。 背後の圧が一気に近づく。 俺は振り向かず、最後の角を曲がり、階段へ滑り込む。 三段飛ばしで上がる。 非常灯の下に出た瞬間、背後の気配が止んだ。 凪がゆっくり階段を上がってくる。
「時間、ギリギリ」
俺は子供を下ろす。腕が少し震えている。呼吸も荒い。 凪の視線が二人を往復する。
「自分のダメージは」
「問題ない」
即答だが、息は乱れている。 凪は子供に目を向ける。
「怖かったか」
小さく頷く。
「でも置いていかれなかったか」
首を縦に振る。 凪は俺を見る。
「今のが“守る戦い”だ。敵を潰すより、位置取りと順番がすべてになる」
壁に寄りかかり、淡々と続ける。
「お前は二回、俺を殴れる場面があった。だが行かなかった」
皓は黙っている。
「正解だ。あの瞬間に反撃してたら、この子が転んで終わってた」
数秒の沈黙。
「覚えろ。守りが入った瞬間、お前の体は“武器”じゃなく“壁”になる」
凪は子供にタオルを投げる。
「今日はここまでだ」
去り際、俺にだけ聞こえる声量で付け足す。
「牙は前に出る力だ。だが誰かを背に置いた時、お前は初めて“群れの獣”になる」
俺は何も言わない。 ただ、自分の立ち位置が一歩分だけ変わったことを、はっきり理解していた。
訓練のあとの、味のしないメシ
地下から這い出すと、街はすでに深い夜だった。 凪は無言で歩き、近くの薄汚れた屋台で、紙皿に乗った得体の知れない煮込みとパンを三人分買った。
「食え。動けなくなる」
凪はそう言って、自分は少し離れたガードレールに腰を下ろす。俺と子供は、壊れた自販機の横に並んで座った。
俺は黙々と煮込みを口に運ぶ。味は濃くて、脂っぽい。生きるために詰め込む燃料のような味だ。ふと横を見ると、子供はスプーンを止めたまま、じっと煮込みを見つめていた。
「……毒は入ってない」
俺がボソッと言うと、子供はビクッと肩を揺らし、消え入るような声で返した。
「ちがう、……熱くて」
見れば、子供の手はまだ微かに震えている。さっきの特訓の恐怖か、それとも寒さか。 俺は自分の皿を置き、子供の持つ紙皿を無造作にひったくった。
「貸せ」
勢いよくフーフーと息を吹きかけ、湯気を飛ばす。 凪が遠くからそれを見て、鼻で笑った気配がした。俺は舌打ちしたくなったが、無視して冷めた煮込みを子供に突き返す。
「食え」
「……ありがとう」
子供は少しずつ食べ始めた。 しばらく沈黙が流れる。聞こえるのは、遠くの街の騒音と、子供がパンをかじる音だけ。
「なあ」
子供が不意に顔を上げた。
「お兄ちゃんも、あの兄ちゃんに、ああやって……『壁』にされてるの?」
俺の動きが止まる。
「……俺は、あいつの道具じゃない」
「でも、守ってくれた。さっき」
子供の真っ直ぐな視線に、俺は三白眼をわずかに逸らした。 自分はただ、凪の言った「正解」をなぞっただけだ。……はずだった。 だが、背中に感じた衝撃の痛みよりも、子供を階段に滑り込ませた瞬間の妙な安堵感の方が、まだ胸の奥にこびりついている。
「名前」
「えっ?」
「お前の名前だ。いつまでも『ガキ』とは呼べない」
子供は一瞬驚いた顔をして、それから少しだけ、本当に少しだけ笑った。
「……太一」
「そうか。太一、もう一口食え。残すと凪がうるさいぞ」
俺はそう言って、自分の分のパンを半分ちぎって、太一の皿に放り込んだ。 遠くで凪が煙草に火を点けるのが見える。 牙を研ぐことしか知らなかった俺にとって、誰かとメシの熱を分かち合うこの時間は、牙を抜かれるよりもずっと、身体がむず痒くなるような経験だった。
翌日、凪が太一を連れて行ったのは、上層のきらびやかな街の「真下」だった。 見上げれば上層の構造物が空を覆い、太陽の代わりに眩い人工光が漏れている。だが、自分たちが立っているのは、その排熱と排水が流れ落ちてくる、湿った吹き溜まりだ。
そこには、錆びたコンテナを積み上げただけの、下層民が営む私設の「託児所」があった。
「ここだ。ここは上層に繋がってる『商売人』の息がかかってねえ。……太一、行け」
凪の声は、上層への羨望も憎しみも枯れ果てたような、冷めた響きだ。 15歳の凪にとって、上層は「行く場所」ではなく、ただ頭上にある「邪魔な屋根」でしかない。
「……なぜ、あそこを知っている?」
俺の問いに、凪は無機質な視線を向けたまま、短く答えた。
「……昔、俺の網膜ディスプレイに、あの場所は『消去すべき座標』として赤く点滅していた。俺は、あの婆さんを殺しに行ったんだ」
凪は、自分のナイフの銀光を見つめる。
「だが、俺はあそこで初めて、点滅する指示を無視した。俺にとってあそこは、この街で唯一、プログラムが届かない場所だ。太一を預けるなら、そこ以外にあり得ない」
太一は、俺の服の裾をぎゅっと握ったまま動かない。
「……お兄ちゃんたちも、ここにいればいいのに」
俺は、上層から漏れる光に照らされた太一の顔を見た。 自分たちは、こいつを助けるために「牙」を隠してここまで来た。でも、自分たちの居場所はここじゃない。もっと光の届かない、深い闇の中だ。
「俺たちは、そこにいちゃいけない側の人間だ」
皓は自嘲気味にそう言って、太一の手をやさしく、けれど拒絶するように外した。 太一がコンテナの入り口へ歩いていく。中から出てきた、片腕のない老婆が太一を中へ引き入れた。扉が閉まると、再びこの場所は、上層の排熱が唸るだけの暗がりに戻る。
「……上層に行けば、もっとマシな生活があったのか」
皓が、手の届かない頭上の光を見上げて呟く。
「あいつをあそこに無理やり連れて行こうとすれば、検問でハチの巣にされて終わりだ。……下層の人間は、下層で生きるしかない」
凪は静謐な声で告げ、15歳とは思えないほど深く、重い溜息をついた。 凪だって、本当は分かっているはずだ。自分がどれだけ「壁」になる教えを説いても、この街の構造そのものが、彼らを押し潰そうとしていることを。
「帰るぞ。湿気で牙が錆びる」
凪は背を向け、影の中に溶け込んでいく。 俺はその背中を追いながら、太一を抱えた時の腕の重みを、忘れないように何度も拳を握りしめた。




