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『棄域 ―Layer-Zero―:肉から牙へ、名前を護るための血の変遷』  作者: 黎


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『牙を研ぐ日々』

数日後の夜、鉄が連れてきたのは、岩と形容されるほどの巨体。鉄の不摂生な贅肉とは異なり、重戦車のような硬質な肉を蓄えている。

下層の闇市を牛耳る組織の回収屋であり、その腕は成人男性の胴ほども太い。顔つきはといえば、爬虫類を思わせる、冷たくて厚い瞼。唇が異常に厚く、常に何かを咀嚼しているように口元が動いている。額から側頭部にかけて、過去の抗争で負った大きな火傷の痕があるのが見て取れた。髪は薄く剃り上げられ、その頭皮には浮き出た血管が脈打っている。


その男の手節くれ立ったごつい手が、値踏みするように俺の顎を掴み、無理やり口の中を覗き込む。家畜を品定めするようなその手付きに、胃の腑からどろりとした熱がせり上がった。


「なるほど、良い出汁が出そうだ。こいつは上等な“肉”になる」


その言葉が、引き金だった。視界が真っ赤に染まり、意識の先が鋭く尖る。 鉄の醜悪な挙動を数千回となぞった瞳には、男の硬質な肉の隙間が、明確な『断層』として映り込んでいた。凪に研がれた二本の牙はまだ懐にある。だが、今の俺には、自分自身が研ぎ澄まされた一本の刃だった。


懐のナイフを抜くより早く、俺は男の太い手首に、剥き出しの歯を突き立てていた。肉を食いちぎり、骨に達するまで。逆流してくる血の熱さと、鉄の匂い。男の絶叫が、快い音楽のように鼓膜を震わせる。


「……ア、ア゛、ガ……ッ!」


だが、快楽は一瞬で塗り潰された。


「――舐めるなよ、ガキが」


男の逆の手が、俺の頭部を鷲掴みにする。側頭部を指が食い込み、頭蓋が軋む衝撃。そのまま壁へと叩きつけられ、肺の空気が強制的に排出された。激痛。視界が明滅する。


それでも、俺は笑った。無意識に抜き放ったナイフの、 鏡のように光る刀身に、血塗れの自分の貌を映し、歪に唇を吊り上げた。鉄が、腰を抜かして震えているのが見える。


「肉じゃ、ねぇ……。俺は、皓だ……ッ!」


男が追撃の拳を振り下ろす寸前、俺は、ナイフを強く握り締め、男の足の甲を迷わず貫いた。岩のような肉体の唯一の「隙間」――その断層に、凪の研いだ刃が吸い込まれる。 「グッ……!?」 男の重心がわずかに崩れたその隙を、俺は見逃さなかった。 踏みつけられた指を無理やり引き抜き、廃屋の窓から夜の闇へと身を投げた。着地の衝撃で膝が悲鳴を上げるが、止まるつもりはない。


背後から聞こえる鰐淵の地を這うような怒号と、鉄の醜い叫び声。それらを置き去りにして、俺は饐えた匂いが漂う路地裏を、ただ闇雲に駆け抜けた。 肺を焼くのは黒い雨の冷気。向かう先など決めていなかったが、本能だけが、あの静謐な凪の居場所を指し示していた。



辿り着いたのは、上層の排水が滝のように流れ落ちる、打ち捨てられた高架下だった。全身泥と血に塗れ、肩を上下させて激しく喘ぐ。その視界の先、灰色のパーカーを深く被り、独り、コンクリートの縁に座る影を見つけた。

…凪。彼は、まるで俺が来ることを予見していたかのように、一度もこちらを振り返らず、ただ暗い水面を見つめて居た。


「……随分と、酷い匂いをさせて来たね」


その声は、降り続く雨音に消え入りそうなほど静かだった。だが、俺にとっては、どんな怒号よりも鋭く鼓膜を突く。俺は、懐からあの錆を落とされたナイフを抜き取り、震える手でそれを彼へと突き出した。刃先には一片の曇りもなく、輝きを保っている。


「……肉じゃ、なかった、俺は。皓として……牙で、噛み切ってやった」


絞り出すような声が、喉の奥で血の味をさせた。俺は、凪の背中に向かって、一歩、泥を踏みしめて距離を詰める。三白眼の奥で、消えかかっていた熱が、再び爆ぜるような音を立てた。


「凪、頼む。……俺を、もっと強くしてくれ。この街で、誰にも『肉』なんて呼ばせないくらいの……本物の『牙』に、してくれ」


それは、十歳の俺が生まれて初めて、他者に向けた切実な乞いだった。縋るためじゃない。独りで、誰も寄せ付けないほど鋭く尖るために、俺は彼の持っている「冷たい暴力」の真髄を欲して居た。

凪は、ゆっくりと立ち上がり、ようやく俺の方へと向き直る。その双眸は、相変わらず何も映しては居なかったが、俺の顔にこびり付いた血を、一瞥した。


「……強くなる、ということは、今よりもっと独りになるということだ。それでもいいのか、皓」


凪の手が、無造作に俺の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。至近距離で見つめ合う、二つの虚無。彼は俺の瞳の奥に宿った、消えない殺意を確かめるように、僅かに目を細める。

――直後、俺の鳩尾に、抗いようのない衝撃が奔った。凪の膝蹴り。視界が白濁し、内臓が裏返るような激痛。地面に這いつくばる俺を見下ろし、彼は氷のように冷徹な声を落としてきた。


「まずは、その無駄な呼吸を捨てろ。獣は、吠える前に獲物を殺すものだ」


泥を噛み、嘔吐感を堪えながら、俺は必死に凪の足首を掴んだ。

拒絶は、されなかった。



その夜から、俺の居場所は鉄の檻から、凪の隣という「戦場」に変わった。教えられるのは、華やかな武術ではない。いかにして気配を殺し、いかにして急所を正確に穿ち、いかにして痛みの中で意識を保つか。黒い雨が降り頻る高架下、俺は凪の影を追うようにして、泥にまみれ、己の牙を研ぎ続けた。……十歳の冬、俺の『花』はまだ、凍りついた土の下で、ひたすらに血を吸い、その時を待って居た。




高架下のさらに奥、光すら届かない廃資材置き場。俺は、凪によって両眼を厚い布で覆われて居た。視界は完全な無だ。頼れるのは、叩きつける雨音と、自分の肺が鳴らす浅い呼吸だけ。

――直後、空気を裂く微かな「音」がした。


「……左だ」


言葉を吐くより早く、左の脇腹に凄まじい衝撃が走る。凪の拳だ。声を上げる暇もなく床に転がり、錆びた鉄屑が頬を削る。痛みは、余計な思考を焼き切るための火花に過ぎない。凪の声が、頭上から冷たく降って来た。


「眼で視るな。肌で、気圧の変化を、温度の揺らぎを、殺気の密度を感じ取れ。……獣は、闇の中でも獲物の心音を聴く」


俺は、這いつくばったまま、泥にまみれた指先を床に立てた。視覚を捨てた代わりに、指先から伝わる振動が、凪の「静かな立ち姿」を逆説的に描き出していく。俺は、もう一度立ち上がり、闇の奥に潜む「凪」という虚無に向かって、無言で牙を剥いた。




修行を始めて数ヶ月。俺は凪に連れられ、棄域のゴミ溜めのような酒場へと向かって居た。そこには、身寄りのない子供を攫っては「肉」として売り捌く、鉄よりも質の悪い連中が溜まって居る。凪は入り口で立ち止まり、俺の背中を無造作に押した。


「……行け。あの中に、お前を『肉』だと思って居る奴が五人いる。そいつらの喉笛を、あの日研いだ刃で、正確に断ってこい」


俺は、懐のナイフを抜きもせず、静かに扉を開けた。怒号と安酒の臭いが立ち込める中、俺に向けられたのは蔑みと、卑俗な欲望。十歳の体躯は、奴らにとって格好の獲物に見えただろう。だが、最初の一人が俺の首を掴もうとした瞬間、俺の身体は凪に教わった通り、重力に従って滑り込み、最短距離で男の頸動脈を穿って居た。……熱い血が噴き出し、視界が赤く染まる。悲鳴が響く中、俺の口元は、無意識のうちに歪な弧を描いて居た。

――そうだ。俺は、肉じゃねぇ。肉を喰らう、獣だ。




雨が止み、薄汚れた月が顔を出した夜。廃ビルの屋上で、俺と凪は血塗れのナイフを研いで居た。沈黙を破ったのは、凪の方だった。彼は、遠くに見える上層アッパーの、宝石のような光の群れを眺めながら、ぽつりと零した。


「……あそこには、痛みのない世界がある。けれど、そこには『自分』もいない。俺は、自分の名を確認するために、あそこの光を捨てて、この泥の中に眼を潰しに来たんだ」


凪の手元にあるナイフが、月光を撥ね返して一瞬、銀色に爆ぜる。彼の言葉の端々に滲むのは、後悔ではなく、底知れない決別だ。彼は俺の方を向かず、ただ、俺が巻いている「皓」と刺繍されたボロボロのハンカチを一瞥した。


「皓。……お前は、いつかあの光を喰らい尽くす獣になれ。その時まで、俺がお前の牙を、さらに鋭く研いでやる」


俺は何も答えず、ただ凪が見つめる先、届かない光の街を、三白眼の奥に焼き付けた。隣に座る凪の体温は驚くほど低く、けれど、その言葉だけが、俺の凍りついた芯を、静かに、そして熱く焦がして居た。


そして、突然激しい雨音がコンクリートを黒く染め始める。凪は慌てることもなく、予め天気を予測していたかのように携えていた傘を押し開き、俺の肩を抱き寄せて傘の内に収めた。二人、足並み揃えて辿る帰路。少しばかり頬を緩め、ぬくもりというものを初めて知った気がした。




雨脚が強まるほど、街の輪郭は曖昧になる。ネオンも、怒号も、遠くのサイレンも、水膜の向こうで滲んでいく。凪は傘を持つ手を少し下げ、皓の歩幅に合わせた。指導のときと違い、今は一切触れない。ただ隣にいるだけだ。


「……今日は上出来だ」


低い声。評価というより、事実確認に近い響き。皓は答えない。代わりに、自分の喉の奥がまだ熱を持っているのを感じていた。あの酒場で見た目。恐怖。理解できないものを見る目。“肉”を見る目とは、違う色だった。


「凪」


珍しく、皓の方から口を開く。


「……俺、あいつらの顔、覚えてない」


凪の視線がわずかに動く。興味ではなく、確認。


「それでいい」


即答だった。


「顔を覚えるのは、人として生きるやつのやり方だ。お前は違う道を選んだ」


残酷な言葉なのに、そこに嘲りはない。ただ、線を引いているだけだ。戻れない線を。しばらく歩いたあと、凪がぽつりと続ける。


「だがな、皓。忘れるな」


「……何を」


「自分の顔だけは、絶対に失くすな」


雨音が一瞬だけ弱まり、二人の足音がコンクリートに響いた。


「他人を何人壊してもいい。だが、自分が何者か分からなくなったら、その瞬間に“肉”へ戻る」


皓は無意識に、胸元のボロいハンカチを握った。刺繍された名前の糸が、指に引っかかる。凪はそれを見て、ほんのわずかに目を細める。


「牙は折れてもまた研げる。だが、名を失くした獣は、もう二度と立てない」


高架下の闇が近づいてくる。そこが今の居場所。檻ではない。だが、光の届かない巣だ。皓は小さく息を吐いた。


「……忘れねぇよ」


その声はまだ子供の高さを残していたが、響きだけがやけに硬かった。凪はそれ以上何も言わない。ただ傘を閉じる前、最後に一言だけ落とした。


「なら明日から、もう一段階進める」


夜が、静かに二人を飲み込んだ。

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