『錆びた楔のエール』
棄域(Layer Zero)の最底流、重金属の錆とカビに支配された廃下水処理場。皓は、自らの血で赤黒く染まったコンクリートの上に、丸まって横たわっていた。 『ステーション04』での敗北。脇腹に叩き込まれた凪の一撃は、肋骨を砕き、内臓を激しく揺さぶっていた。
「……カハッ、……あ、……」
喉から漏れるのは、苦悶の吐息だけだ。意識が朦朧とする中、彼は凪に貰った短刀の柄を、まるで母の指を握る赤子のように固く握り締めていた。 一人でいい。誰にも触れさせない。この痛みも、絶望も、凪が俺に刻んだ「熱」なのだから。 その、死臭の漂い始めた静寂を、複数の足音が踏み荒らした。
「……酷ぇな。生きてんのか、これ」
低く、だがどこか通る声。皓は反射的にナイフを構えようとしたが、指先に力が入らない。 ぼやけた視界に映ったのは、煤けた軍用コートを羽織った青年だった。夜の静寂を溶かし込んだような、艶のある黒髪が端正な顔立ちを縁取っている。切れ長の瞳は涼やかで、知的な光を宿しながらも、その視線は死にかけの獣を冷徹に値踏みしていた。 そして、その背後に控えるのは、鮮やかな赤髪の少女。陽光を透かすようなその髪は、暗い下水処理場でそこだけが燃えているかのように見えた。大きな瞳には、上層の冷徹なエリートたちとは違う、下層特有の「諦めを拒む強さ」が宿っている。
「来るな……ッ。殺すぞ……!」
「威勢がいいな。その傷で何ができる。お前の言う『殺す』は、自害の言い間違いか?」
黒髪の青年は皓の殺気を鼻で笑い、無造作に歩み寄ると、その横にどっしりと腰を下ろした。彼は手慣れた動作で携帯用の医療キットを取り出す。
「触るなと言ってんだ……!」
「黙ってろ。お前を助けに来たんじゃない。俺たちの『貸し』を作りに来ただけだ」
青年は、抵抗する皓の腕を強引に押さえつけ、高濃度の鎮痛剤を打ち込んだ。
「……ッ、が、あぁあ!」
抵抗ひとつできない不甲斐なさと、疲労と苦痛の限界に止めを刺すような注射の痛みに、堪らず声を上げた。
「――、縫合の準備を。内臓がイかれてる。このままじゃ朝まで保たねぇ」
青年に促された赤髪の少女は、無言で端末を操作し、皓のバイタルをスキャンし始める。 数時間の後、応急処置が終わる。皓の全身には、不格好だが頑丈な包帯が巻き付けられていた。 青年は、傍らに置いてあった皓の短刀を手に取り、その刃先をじっと眺めた。
「……いい刃だ。だが、これじゃあ上層の最新装甲は抜けない。研ぎ方が『独りよがり』なんだよ。凪さんに教わったのは、そんな甘いもんじゃないだろ」
「凪」という名が出た瞬間、皓の瞳に獣のような光が戻った。
「……何故、あんたがその名を知ってる」
「俺はかつて、あの人が下層に居た頃、少しだけ『錆びた楔』の技術顧問を頼んでたことがあってな。あいつは何も語らなかったが、時折、遠くを見つめていた。……今なら分かる。あいつが見てたのは、お前だったんだな」
青年はナイフを皓に投げ返した。
「俺は『錆びた楔』の暁。上層に飼われるのを拒んだ、出来損ないの集まりだ。皓、お前が一人で死ぬのは自由だ。だが、お前が死ねば、凪という男がこの世界に『人間』として存在した証拠が、一つ消えることになる」
「……証拠……」
「そうだ。お前はあいつの最高傑作なんだろ? なら、そんなところで無様に腐ってんじゃねぇ。食え」
彼が放り投げたのは、汚染されていない貴重な合成肉のレーションだった。皓は、その冷たいレーションを震える手で受け取る。 不快だった。誰かに助けられ、情をかけられることが。だが、彼の言葉は、凪への「盲信」とは別の場所で、皓の凍りついた芯を微かに揺らした。 皓は、泥にまみれたレーションを無言で引きちぎり、喉に押し込んだ。涙も血も混じった、酷く苦い味がした。
「……暁、と言ったか」
「あァ」
「……まだ、研ぎ足りねぇんだ。あいつの瞳に、俺の名前を刻むまでは」
暁は、立ち上がり、背を向けて歩き出す。
「勝手にしろ。だが、次は一人で行かせねぇ。俺たちが、お前のその『鈍った牙』を、上層の喉笛を掻き切るための楔に作り替えてやる」
傍らにいた少女が、皓に小さな通信機を置いていった。
「あたしは陽っつぅ。歩けるようになったら、連絡寄越せ?」
語尾上げの、弾むような声音を残していく。 暗い下水処理場。皓は独り、通信機の微かな光を見つめながら、初めて「自分以外の誰か」がいる夜の温度を知った。 それは、凪がかつて差し出した傘のように、冷たく、けれど確かな重みを持っていた。
棄域の深部。巨大な貨物コンテナを継ぎ接ぎして作られた「錆びた楔」の本拠地。 重い防爆扉を潜った先には、外の死臭が嘘のような、生活ের熱気と安っぽいオイルの匂いが立ち込めていた。 皓は、陽に案内され、覚束ない足取りでその敷居を跨ぐ。
「おーい、拾い物連れてきたよー! 暁、生きてるー?」
陽が快活な声を上げると、奥のジャンク山からひょいと、煤けた軍用コートを羽織った暁が顔を出した。彼は指先で器用に小型基板を弄りながら、不敵な笑みを浮かべる。
「拾い物って言うな。一応、期待の『新刃』だ。……ったく、その足取りじゃ、アジトに着く前に事切れるかと思ったぞ、皓」
暁が冷やかすように鼻を鳴らす。と、その時。部屋の隅、巨大なサーバーラックの影から、長い髪を無造作に束ねた青年、星が、眠そうな目を擦りながら現れた。彼の周囲には、淡く光るホログラムのコードが星屑のように浮遊している。
「……暁、うるさい。計算がズレる。……それが例の『凪の傑作』? 思ったより、ただのボロ雑巾……。あー、俺は星っつー。よろー」
「あはは! 星くん、ボロ雑巾は言い過ぎだよ! せめて『血塗れの野良犬』くらいにしときなよ」
陽が笑いながら星の肩をパシパシ叩く。そのやり取りは、命のやり取りしか知らなかった皓にとって、あまりに軽薄で、けれど異様に眩しいものだった。
「……勝手にしろ。俺は寝る。……あ、皓。その傷、陽の処置が雑だったら言え。俺がプログラムで痛覚を書き換えてやるから」
「星くんのそれ、ただの神経麻痺でしょ! 全然治ってないからね!」
陽のツッコミが響く中、暁が作業台を叩いて一同を黙らせる。彼は傍らにあった、ラベルの剥げた炭酸飲料の瓶を皓に向かって放り投げた。
「ほら、飲め。上層の連中が飲み捨てた『贅沢品』だ。お前のその泥水みたいなツラ、少しはマシになるだろ」
皓は、受け取った瓶の冷たさに戸惑いながら、三人のやり取りを黙って見つめる。 暁の皮肉混じりのリーダーシップ、陽の無邪気な残酷さ、星の無関心な優しさ。 バラバラで、出来損ないで、けれど確かに「生きて」いる楔たちの熱。
「……美味くねぇ」
「だろうな。だが、死ぬよりはマシだ。ようこそ、クソッタレな底辺へ」
暁が愉快そうに目を細めた。 錆びたコンテナの中、安っぽいネオンがチカチカと点滅し、皓の新しい夜を照らし始めていた。




