『 塵芥の空と、錆びた揺り籠 』
下層の片隅、煤けた銀髪の間から、獲物を狙う獣のような鋭い三白眼を覗かせる、線は細いが芯の強さを感じさせる少年。その少年には、家も、親も、未来もなかった。 棄域の最下層。上層から降り注ぐ酸性雨が溜まり、重金属のヘドロが川を作るスラムの片隅で、彼は「ゴミ」を拾って食い繋いでいた。 周囲の大人は、空腹に耐えかねて同胞を刺すか、汚染物質で肺を焼かれて無様にのたうち回るか、そのどちらかだ。少年は、その光景をただ、感情の動かない冷めた瞳で眺めていた。 泣いても腹は膨れないし、叫んでも上層の神様は助けてくれない。それを、彼は言葉を覚えるよりも先に、骨の髄まで理解して居た。
ある日、少年は壊れた時計を拾った。 動かない針、曇った硝子。だが、彼はそれを毎日、錆びた鉄屑で丁寧に磨き続けた。 意味などない。ただ、この無機質な作業をしている間だけは、棄域の悪臭も、消えない空腹も、少しだけ遠のく気がしたのだ。 後に凪が「牙」を研ぐことに執着するのは、この頃に身につけた、『何もない世界で、一つの物だけに没頭する』という唯一の生存戦略が根底にあったからかもしれない。
そんな彼に転機が訪れたのは、七歳の冬だった。 上層からの「ドレッジ(回収)」。―― 鴉組の構成員たちが、粗大ゴミを回収するかのように路地裏の子供たちを次々とトラックへ放り込んでいく。 少年は逃げなかった。いや、逃げる理由がなかったのだ。
ただ、懐から転がり落ちた「壊れた時計」が、無造作に構成員の靴底に踏み潰されたのが、胸に、衝撃を与えた。
途方に暮れたようにトラックの荷台から見上げた、上層のビル群の隙間に見える灰色の空。それが、彼が棄域で見た最後の景色だった。
「……いい目だ。死んでるようで、奥底に冷たい火が灯ってやがる」
『枢軸』の実験場へと連行された少年を待っていたのは、地獄のような「適合テスト」だった。 食事も睡眠も与えられない極限状態。肉体が悲鳴を上げ、隣に座っていた子供たちが一人、また一人と物言わぬ『肉』として運び出されていく中、少年だけが最後まで、処置台の上で静かに座って居た。 彼には「恐怖」という感情が欠落していたわけではない。ただ、棄域での生活があまりに絶望的だったがゆえに、この死の実験場すら、静かで清潔な場所だとさえ感じてしまったのだ。
その異常な精神耐性が、最高幹部である紫苑の父の目に留まった。 『被検体ナンバー:N-00』。 その日、彼は人間としての過去を完全に抹消され、上層という名の美しい檻、そして紫苑という少女の元へと「納品」された。 『凪』という名は、彼が紫苑に与えられた初めての装飾品であり、同時に、彼を縛り付ける最初の鎖となったのだ。
処置台の上で『凪』という名を与えられたあの日から、少年の世界は一変した。 棄域(Layer Zero)の泥と騒音は、防音材の敷き詰められた白亜の回廊に置き換わり、ヘドロの臭いは無機質な消毒液の香りに塗り潰された。 そこは、何一つとして「不潔なもの」が存在しない世界。だが凪にとっては、自分が拾った壊れた時計よりも、もっと救いのない『死物』たちの展示場に見えた。
紫苑は、凪を熱心に教育した。 文字の読み書き、歴史、上層の礼法、そして何よりも――軍事組織『枢軸』の牙としての戦闘術。 紫苑は、彼女が持ち得るすべての教養を凪に注ぎ込み、彼を自分だけの最高傑作に仕立てようとした。 凪はそれを、一切の拒絶をせずに受け入れた。
「……はい、紫苑様」
彼が従順だったのは、紫苑を愛していたからではない。ただ、そうすることがこの檻で「無駄なエネルギーを消費しない」ための、最善の生存戦略だと知っていたからだ。彼は心を殺した。いや、正確には心の奥底に、誰の手も届かない『深い海の底』を作り、そこに自分自身を沈めたのだ。
教育の合間、凪が唯一「自分」を取り戻せたのは、訓練用のナイフを研ぐ時間だった。 上層の兵装は、本来レーザーや電磁パルスが主流であり、古い鋼鉄の刃など前時代の遺物でしかない。おまけに、支給される武器は高度な自動メンテナンスによって常に最良の状態に保たれている。研ぐ必要など、どこにもなかった。 だが凪は、紫苑が眠りについた後、独り静かに、棄域でゴミを磨いていたあの頃と同じ手付きで刃を研いだ。 シュッ、シュッ、という規則的な音。 その音だけが、彼が『枢軸』の部品ではなく、まだ血の通った生き物であることを証明する唯一の鼓動だった。
成長するにつれ、凪の肉体は恐ろしいほどの精度で作り替えられていった。 神経系はナノマシンによって強化され、反射速度は人間の限界を超えた。彼は紫苑の影となり、彼女を害しようとする微かな「ノイズ」を、一瞬の迷いもなく排除する機械へと変貌していく。 紫苑は、そんな凪を見て、歓喜に瞳を輝かせた。
「ねぇ、凪。あなたは私がいなければ、ただのゴミのままだったのよ」
その言葉を、凪は凪いだ瞳で受け流す。自分を価値ある「傑作」だと誇る彼女の言葉も、彼にとっては防音壁の向こう側で鳴るノイズに過ぎなかった。
だが、殺し続けたはずの心は、思わぬところで悲鳴を上げた。 ある日、上層の排気口から迷い込んできた、一羽の薄汚れた鳥を見たときだ。 それは棄域で見かけた、死肉を漁る鴉の雛だった。 清潔な白亜の庭で、異物として震えるその黒い羽を見た瞬間、凪の脳裏に、かつて自分が拾った壊れた時計の質感が、鮮明にフラッシュバックした。 磨かなければ、死んでしまう。 止まった時間を、動かさなければならない――。さもなければ、意思ごとすり潰され、消費されてしまう。
「……ここは、息が詰まる」
初めて、自らの内側から言葉が零れた。 紫苑が教え込んだ言葉ではない。枢軸が命じた台詞でもない。 自分の肺が、上層の酸素を拒絶して居る。 どれだけ磨き上げても、この檻の中にいる限り、自分は錆びていく一方だと気づいたのだ。 凪は、その夜、紫苑に背を向けた。 彼女が与えてくれた、機能美に満ちた豪華な部屋も、高価な衣類も、最新の光学兵装も、すべてをそこに残して。 たった一振りの、自らの手で研ぎ澄ませたナイフだけを握り締め、彼は重力に導かれるまま、あの汚泥の底へと身を投げ出した。
そこで待っている、運命の少年――皓と出会うために。




