『硝子の檻の邂逅、あるいは裏切りの熱』
標高二千メートル。人工太陽の光が影さえも消し去る『アッパー・エデン』は、死さえも管理された清潔な温室だ。 軍事組織『枢軸』の最高幹部を父に持つ紫苑は、物心ついた時から「完璧」を強要されて育った。
彼女が纏う深紫の和服は、かつて彼女をこの檻に遺して逝った母の形見だ。機能性と効率が支配する上層において、その不自由な布地は、彼女の心に唯一残った「体温」の象徴だった。父にとって娘は愛すべき家族ではなく、権力を繋ぐための「優れた遺伝子(器)」に過ぎない。紫苑は自分を囲む白磁の壁を、いつしか憎しみを持って見上げるようになっていた。
そんなある日、彼女の「所有物」として一人の少年が与えられた。 下層から適合者として浚われてきた、凪だ。 薄汚れた肌と、死を覚悟したような静寂を宿す瞳。父が「教育ろ」と放り出したその少年を見た瞬間、紫苑の胸の奥で、張り詰めていた硝子の弦が弾けるような音を立てて千切れた。
あァ、これだ。これこそが、私がずっと欲していた「自分だけのもの」。
紫苑は震える指先で凪の頬に触れた。下層の垢にまみれたその肌は、紫苑の知るどんな高価な絹織物よりも生々しく、熱かった。彼女は凪に、言葉と知識を与え、自分だけの「美しい番犬」に仕立て上げようとした。
「あなたの呼吸する理由は、すべて私が決めてあげる」
それは、孤独な雛鳥が初めて手に入れた万能感であり、唯一の救いだった。
だが、ある夜、凪は彼女の想像を超えた。 「……ここは、息が詰まる」 そう言い残し、凪は鉄壁のセキュリティを掻いくぐり、重力に逆らわずに下界へと墜ちていった。紫苑は、裏切られた怒りよりも、彼が選んだ「自由」への猛烈な嫉妬に震えた。自分のすべてを捧げて作った檻よりも、あの汚泥の底を選んだという事実が、彼女の自尊心をズタズタに切り裂いたのだ。
数年後、再び回収されて戻ってきた凪は、以前よりも鋭く、決定的に「変貌」していた。 再調整の際、凪の脳内から抽出された記録映像の中に、彼女は「それ」を見つける。 泥にまみれ、三白眼をぎらつかせながら、凪に縋り付く一匹の野良犬――皓。 紫苑は、自分には決して向けられなかった凪の「教育者としての眼差し」が、その泥だらけの少年に注がれていたことを知る。
「……凪くん。あなたがそこまでして守りたかったものが、これなの?」
彼女がモニター越しに皓を見つめるのは、復讐のためだけではない。 自分を置いて逃げ出した凪を、再び自分の元へと戻るまで繋ぎ止めていた「絆」の正体を知りたい。そして、その絆が目の前で粉々に砕け散る瞬間を見届けることで、自分の孤独を正当化したい。
紫苑は、今日もモニターを指でなぞる。 傷を癒し、再び無謀な侵攻を企てる皓の姿は、かつて自由を求めて墜ちていった凪の残影そのものだった。
「いいわ。もっと暴れなさい、皓くん。あなたが絶望すればするほど、凪くんは私の『完璧な人形』に戻れるのだから」




